「「現代社会への問題提起」で終わらせたくない そのものを感じて欲しい作品」トゥルーマン・ショー お尻帝国の逆襲さんの映画レビュー(感想・評価)
「現代社会への問題提起」で終わらせたくない そのものを感じて欲しい作品
前情報無しで、あらすじも知らずに、
ジム・キャリー主演だし、コメディかな?と思いつつ、夜中に酒を飲みながらなんとなくで観始めた。
最初はどういった話なのかわからず、
おしゃれな演出と、90年代アメリカの雰囲気と、ジム・キャリーの演技がコミカルな、よく分からないけど良い雰囲気の映画だと思いながら酒を傾けていた。
本作品は1998年公開のようだが、その頃の映画に慣れ親しんでないのもあり、舞台の違和感も「この時代の映画だと、そういうものなのか」と思いながら最初は観ていた。
だんだん舞台となる世界に対する違和感をジム・キャリーが演じるトゥルーマン同様に、強く感じ、不穏で、不安な気持ちになってくる。
その頃には映画を観ている我々も、トゥルーマンの生きている世界は、作られた舞台セットの世界で、多くの視聴者に見られ、消費されていることを知る。
あれほど露骨に作り物の世界で、「今まで生きてきた世界が全て作り物なのではないか?」と疑う不安はどれほどだろう。
妻も友人も仕事も作られたもので、台本通りに喋っているだけ。酷い裏切りであり、何も信じられくなる、そんなトゥルーマンの心情を想うと辛い。
(彼の仕事が保険屋で、「人生何が起こるか分かりませんよ」と台本持った役者相手に知らずに営業電話をしていたのも滑稽でまた辛い)
それでもあの笑顔で、コミカルに振る舞うトゥルーマンに、テレビで彼を観ている視聴者と同様に、映画を観ている我々も強く惹かれる。
醜悪に思える視聴者と自分が一体化してしまう。
そんな世界で彼に希望を持たせたのが、本当の彼を想い真実を伝えようとした女性シルヴィアと、地球の裏側「フィジー」だった。
街を飛び出し海原へ小舟を漕ぎ出すトゥルーマン、舞台を出るなら殺すことも厭わんとばかりに人工の嵐を起こす監督、それでも負けじともがき進むトゥルーマン……
彼が空が描かれた壁にぶつかった時、私は胸が引き裂かれるような思いをした。
彼も気づいていただろうが、実際に行き止まりにぶつかり、空だと思ってずっと生きてきたものが空ではなく、海だと思ってずっと生きてきたものが海ではない……
絶望でその場でしゃがみ込み打ちひしがれてもおかしくない、悔しさと怒りで喚いてもおかしくない、
そんな状況で彼はいつもの笑顔でコミカルに、お決まりの挨拶で、ドアを開けて出ていった。
生まれた時から勝手に役者に仕立て上げられ、全てが偽りの中で、娯楽として消費され続けた「かわいそう」なトゥルーマンは、最後までこれまで視聴者に愛されてきたトゥルーマンを演じ、舞台を降りていった。
そんなトゥルーマンのラストに、わっと湧いて感動する視聴者たちの姿を見て、これまで視聴者と一体となってトゥルーマンを応援していた気持ちから引き離される。
テレビの視聴者たち、バーの客も警察もおばあちゃんも、それら皆の視聴率のために、トゥルーマンはずっと偽りの世界に縛られていた。
それなのに、「トゥルーマンが偽りの世界から出られたやったー!」と手放しで喜ぶのは、あまりにも他人事が過ぎるというか、それで自分たちがさも良い人側かのようにトゥルーマンに感情移入するのは虫が良過ぎるというか、なんともモヤモヤとした気持ちになる。
視聴者と同様に「抜け出せて良かった!」と喜ぶ気持ちと、視聴者へのモヤモヤと、彼がこれから外に出ても彼が今まで偽りの世界で生きてきた事実は変わらない悲しみと……
色々な感情が重なって呆然とエンドロールを観ていた。
「リアリティ番組への問題提起」などで感想を終わらせたくない、映画体験として唯一無二の凄い作品であった。