テオレマのレビュー・感想・評価
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突然来た男に魅了される
突然ミラノ郊外のブルジョワ家庭に見知らぬ美形の男が訪問し、家族全員を魅了して去っていく。残された家族は彼の不在に耐えかね家庭崩壊する。そんなあらすじを聞き、大変興味を持ちましたがレンタルにもないしなかなか見られる機会がありませんでした。
映画「モリコーネ」で音楽をエンリオ・モリコーネが担当してると知りますますみたいと思っていたら運良く配信していて、タイトル知ってから20年越しに見られました。
皆が誰かの客と思ってて、接してるうちに徐々に魅了していくのかと思いきや、メイドさんには即!だったので笑えました…このメイドさん関係はキリスト教への皮肉めいたものなのでしょうか。キリスト教に詳しくないから笑わそうと思ってるように見えてしまい。目に砂が入ってただろう撮影は気の毒でした。
テンポが早かったのに、彼が去ったあとは妙に時間を取って話がすぐに進まない。天衣無縫だった息子は彼が去った心を埋めるため突然アートに目覚めるけど、アーティストへの苦言三昧でこれは監督が日々思ってることを言わせたとしか思えない。
娘は気の毒。見てて少々退屈するような無意味な行動を長々と繰り返すものの、心の空白を埋められずおかしくなる。
元々男性恐怖症ぎみだったが一番酷い状況になるのは何の罰なのか。しかも心配してるの新メイドさんぐらいで、搬送時に家族の見送りもなく寂しい限り。
妻は予想に近い変わり様だったけれど、イタリアは普通に街に男娼がいたのでしょうか。そして妻は庶民の街をみて何を思ったか。
街並みが絵画のように美しく感じます。キリコの絵みたい。
資本家だった父親は、心の空洞を埋められなく奇行に走った挙げ句、工場を労働者に譲る決意をする。
労働争議にも心動かないのに1人の男前により人生を転換させる。
これは不足なく生きて貧乏人の暮らしなど想いもよせない富裕層達に行動を変えさせるには、今の生活が非常に虚しいものだと気づかせるだけパンチのあるものを投入しないといけないってこととか…?
時代背景や宗教に詳しければもっと深く観られるのでしょうか。
仏映画「ブルジョワジーの密かな愉しみ」も思い出しました。あちらはシュールかつ皮肉めいてクスリと笑えるところもあるけど、こちらは笑っていいのかどうか。
【”謎の美青年の訪問により、瓦解していく裕福な民主主義家族の顛末を描く。謎の美青年の正体は何か・・。】
■イタリアの異才・パゾリーニが共産主義者であったことは有名である。
してみると、謎の美青年の訪問者の正体が分かる気がするが、パゾリーニは彼はキリストではないと否定している。
<物語>
・ミラノ郊外の大邸宅に暮らす裕福な一家の前に、ある日突然見知らぬ美しい青年(テレンス・スタンプ)が現れる。
何の前触れもなく同居を始めたその青年は大工場を持つ父親、美しい母親、無邪気な息子と娘、そして女中を魅了し、関係を持つことで一家の穏やかな日々をかき乱していく。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・ご存じの通り、パゾリーニは共産主義者でありつつ、ホモセクシュアルであった。特に若い青年を求めて居た。
結果として、遺作となった「ソドムの市」は余りに衝撃的な描写の数々で、今や普通には見れない。
その後、パゾリーニは悲惨なる轢死体で発見される。
犯人は、「ソドムの市」に出演した青年であるとか、パゾリーニの思想に反感を持った者たちの仕業ではないかとなっているが、今だに真相は闇である。
・今作のテレンス・スタンプ演じる見知らぬ美しい青年は、私の勝手な解釈であるがパゾリーニが自身を投影したモノではないかと思う。
退廃的で、その行動に道義はなく、裕福な一家を破滅に追い込んでいく姿。
ー 因みに、パゾリーニは極端なナルシストでもあった。-
<パゾリーニ監督作はどれも難解であるが、見る側が自由に解釈すればよいと思う。
何故ならば、映画には正解はないからだ 。
そこから自由な発想が目覚めると思うのである。
但し、パゾリーニは晩年、人道主義を踏み外してしまった。
その代償は大きいのである。
狂ったのは、今作の裕福な家族なのか、パゾリーニなのか・・。>
三上博史の憧れのテレンス・スタンプ
テレンス・スタンプ目当てで観ました。武蔵野館のポスターには三上博史のサインが!憧れの俳優で有名。若い頃に初めての寺山修司の映画で主演を努めた美少年の三上博史。なるほどね。
1967年のケン・ローチ監督の夜空に星があるように(原題 Poor Cow)をみて、素敵だなぁと思いましたが、1968年のこの映画では実はあんまり感じませんでした。ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作は苦手。コメディなんですかねぇ?
ブルジョアという言葉は懐かしい。死語?
テレンス・スタンプがブルジョア一家の全員を魅了してゆき、そして突然いなくなると、家族やお手伝いさんに異変が起こる。
お手伝いさんの変化はカルトがかっていた。
お母さんの変化はわかるけど、一番俗っぽい。ブルジョア夫人のよろめき。ブルーアイの男を探して、血眼になっていました。
息子はただただ痛々しい。才能ないし、自虐的だし。
お父さんは男色に目覚めて、価値観がガラッと変わって、駅でまっぱになって砂漠をさ迷う。オヨヨ。会社を労働組合にあげちゃう。あっ、それで冒頭の場面に繋がるわけね。
娘はどうだったっけ?
当時は何もかも目新しかったのでしょうけど、とにかくテンポが遅くて眠かったです。
ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画はそのあとのエロチックコメディ3作品(デカメロン、アラビアンナイト、ソドムの市)の再上映を武蔵野館さんには是非ともお願いします。観に行きますよ~ 今年の10月~12月あたりでお願いします。シネマカリテでもいいです。
パゾリーニ監督は1922年生まれなので、ことし生誕100年。『王女...
パゾリーニ監督は1922年生まれなので、ことし生誕100年。『王女メディア』とともにリバイバル上映されています。
現代(つまり、60年代後半)のイタリア・ミラノ。
大工場主のパオロ(マッシモ・ジロッティ)は工場の経営を労働者に譲ると発表。
マスコミは騒ぎ立てている。
そんなある日、パオロの邸宅に「明日、着く」とだけ書かれた発信人のない電報が届く。
現れたのは、見知らぬ美貌の青年(テレンス・スタンプ)。
家政婦をはじめ、パオロの妻ルチア(シルヴァーナ・マンガーノ)、息子ピエトロ(アンドレ・ホセ・クルース)、娘オデッタ(アンヌ・ヴィアゼムスキー)は青年の魅力に虜となってしまう。
あたかも「神は、原野で民を導く」かのように。
そして、青年はいずことなく姿を消してしまい、残された者たちは、それぞれが影響を受ける・・・
といった物語で、テレンス・スタンプ扮する青年が姿を消すまでが前半、以降が後半。後半にはスタンプは登場しない。
何度となく挿入される原野の風景や「神は、原野で民を導く」というモノローグから、神と人間についての物語であることはわかり、後半描かれる顛末から「神の不在」と「神の導く先」が主題であることは容易に察しが付く。
で、察しが付いてしまうと、意外なことに、つまらない。
(製作後50年も経っているので、その間にこの手の作品もかなり観ていますからね)
家政婦は自死途中で青年に助けられ、故郷へ戻って、不動の聖女となる。
娘オデッタは、処女のまま青年に抱かれ、手に何かを握りしめたまま硬直状態となり、これも一種の聖女と化す。
息子ピエトロは、青年の肖像を描こうとするものの技術が足りず、技術がたりないことを隠すための絵画技法を編み出す(これはパゾリーニ自身ではないか)。
妻ルチアは、青年の寵愛が忘れられず、街で青年に似た男性を漁るが満たされず、助けを求める先は教会だった、となる。
主人パオロは、ミラノ終着駅テルミナで突然すべてをかなぐり捨てて(文字どおり全裸になる)、ブルジョアの立場を棄てようとするのだが、時空を超えた原野を素っ裸で彷徨する羽目となる。
誰も神に救われていない。
これはこれで救われているのかもしれないが、救われていない。
という話なのだけれど、どうにも映画としての語り口がギクシャクしすぎていて、面白さに欠けている。
語り口という点でいえば、「明日、着く」の電報の時点だけがモノクロームで、このモノクロームが何を意味するのかがわからない。
電報が来て、青年が去るまでがモノクロームならば、わかりやすいのだけれど、そんなことはしていない。
というか、テレンス・スタンプは絶対カラーで撮りたかったんでしょうね。
青い眼と、悩ましい股間・・・
恐ろしいぐらいの頻度で股間のアップが写されます。
庭でランボー詩集を読む、大股開きのスタンプ青年。それを視る家政婦の視線。
青年に魅惑され、戸外で自慰に走るルチア。駆け付けたスタンプ青年の股間を見上げるルチアの視線。
同室隣同士のベッドで寝ることになったピエトロ。隣のベッドで、素っ裸になるスタンプ青年の股間はピエトロの目の前に。
娘オデッタは、ベッドに腰かけたスタンプ青年の股の間に座り込む・・・
って、パゾリーニ、テレンス・スタンプに魅了されていますな、こりゃ絶対。
というわけで(ってどういうわけだか)、パゾリーニの趣味や嗜好や志向が満載。
パゾリーニ映画は、このほかは先に観た『王女メディア』と、30年以上前に観た『デカメロン』他の艶笑三部作、『華やかな魔女たち』の1エピソードぐらいしか観ていないのですが、この作品がパゾリーニの極めつけではありますまいか。
消費社会を50年代から批判していたパゾリーニ
豊かなブルジョアの家庭で行われたパーティーになぜか来ていた美しく若い青年。なぜか数日間滞在する。まずメイドのエミリア、次にブルジョア・ファミリーの息子のピエトロ、そして母親のルチア、その夫パオロ、最後に娘のオデッタの順番で青年と関わる。青年はただ居るだけ、何も言わない。自分から行動を起こしたりもしない。でも目の前の相手が何を望んでいるのか全部わかっているようだ。そして一人一人の望みを全て叶えてしまう。相手と寝ることで、相手の苦痛を和らげることで、お茶目な格好をしてカメラの被写体になることで、ボクシングの真似事してじゃれることで。彼はなぜかいつも、股を広げて座っている。とても意図的に見えた。青年はなぜかその家から急に去ることになり彼の不在が家族とメイド、彼と関わった5名の行動を変容させてしまう。突然の到来と突然の不在。
ブルジョアの人間でないエミリアは彼の不在以降どんどん美しくなり髪は緑色になりバジルのような葉しか食べず、病にかかった幼子を治癒し空中浮遊し、最後は生きながら土に埋められて水たまりができるほど沢山の涙を流して「聖人」になることができた。ブルジョアの家族たちは聖人にはならない。家を出て現代絵画の世界に入るピエトロ、ルチアは服と雰囲気が青年に似た若い男に始まる男漁りをするようになり、オデッタは右手をぎゅっと握りしめたまま硬直状態で病院へ運ばれる。一番苦しいのは全裸の父親。労働者のために善行を行ったのかも知れないのに苦しみ続ける。
モリコーネの音楽というより、モーツァルトのレクイエムがとても効いていた。
パゾリーニの映画は初めて見た。顔のアップの多用や台詞の少なさなど想像していたより面白いと思った。でも詩人や文筆家としてのパゾリーニをもっと知りたいと思った。今年はパゾリーニ生誕100年。生きていたら今の世界を見てなんと言っただろう。
おまけ
テレンス・スタンプ、「ラストナイト・イン・ソーホー」に銀髪の男性として出ていたようだがちゃんと覚えてない!いつか確認しよう。
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