「パゾリーニ監督は1922年生まれなので、ことし生誕100年。『王女...」テオレマ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
パゾリーニ監督は1922年生まれなので、ことし生誕100年。『王女...
パゾリーニ監督は1922年生まれなので、ことし生誕100年。『王女メディア』とともにリバイバル上映されています。
現代(つまり、60年代後半)のイタリア・ミラノ。
大工場主のパオロ(マッシモ・ジロッティ)は工場の経営を労働者に譲ると発表。
マスコミは騒ぎ立てている。
そんなある日、パオロの邸宅に「明日、着く」とだけ書かれた発信人のない電報が届く。
現れたのは、見知らぬ美貌の青年(テレンス・スタンプ)。
家政婦をはじめ、パオロの妻ルチア(シルヴァーナ・マンガーノ)、息子ピエトロ(アンドレ・ホセ・クルース)、娘オデッタ(アンヌ・ヴィアゼムスキー)は青年の魅力に虜となってしまう。
あたかも「神は、原野で民を導く」かのように。
そして、青年はいずことなく姿を消してしまい、残された者たちは、それぞれが影響を受ける・・・
といった物語で、テレンス・スタンプ扮する青年が姿を消すまでが前半、以降が後半。後半にはスタンプは登場しない。
何度となく挿入される原野の風景や「神は、原野で民を導く」というモノローグから、神と人間についての物語であることはわかり、後半描かれる顛末から「神の不在」と「神の導く先」が主題であることは容易に察しが付く。
で、察しが付いてしまうと、意外なことに、つまらない。
(製作後50年も経っているので、その間にこの手の作品もかなり観ていますからね)
家政婦は自死途中で青年に助けられ、故郷へ戻って、不動の聖女となる。
娘オデッタは、処女のまま青年に抱かれ、手に何かを握りしめたまま硬直状態となり、これも一種の聖女と化す。
息子ピエトロは、青年の肖像を描こうとするものの技術が足りず、技術がたりないことを隠すための絵画技法を編み出す(これはパゾリーニ自身ではないか)。
妻ルチアは、青年の寵愛が忘れられず、街で青年に似た男性を漁るが満たされず、助けを求める先は教会だった、となる。
主人パオロは、ミラノ終着駅テルミナで突然すべてをかなぐり捨てて(文字どおり全裸になる)、ブルジョアの立場を棄てようとするのだが、時空を超えた原野を素っ裸で彷徨する羽目となる。
誰も神に救われていない。
これはこれで救われているのかもしれないが、救われていない。
という話なのだけれど、どうにも映画としての語り口がギクシャクしすぎていて、面白さに欠けている。
語り口という点でいえば、「明日、着く」の電報の時点だけがモノクロームで、このモノクロームが何を意味するのかがわからない。
電報が来て、青年が去るまでがモノクロームならば、わかりやすいのだけれど、そんなことはしていない。
というか、テレンス・スタンプは絶対カラーで撮りたかったんでしょうね。
青い眼と、悩ましい股間・・・
恐ろしいぐらいの頻度で股間のアップが写されます。
庭でランボー詩集を読む、大股開きのスタンプ青年。それを視る家政婦の視線。
青年に魅惑され、戸外で自慰に走るルチア。駆け付けたスタンプ青年の股間を見上げるルチアの視線。
同室隣同士のベッドで寝ることになったピエトロ。隣のベッドで、素っ裸になるスタンプ青年の股間はピエトロの目の前に。
娘オデッタは、ベッドに腰かけたスタンプ青年の股の間に座り込む・・・
って、パゾリーニ、テレンス・スタンプに魅了されていますな、こりゃ絶対。
というわけで(ってどういうわけだか)、パゾリーニの趣味や嗜好や志向が満載。
パゾリーニ映画は、このほかは先に観た『王女メディア』と、30年以上前に観た『デカメロン』他の艶笑三部作、『華やかな魔女たち』の1エピソードぐらいしか観ていないのですが、この作品がパゾリーニの極めつけではありますまいか。