「平和主義者チャップリンが全身全霊をかけて独裁者の愚かさをカルカチュアした喜劇」独裁者 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
平和主義者チャップリンが全身全霊をかけて独裁者の愚かさをカルカチュアした喜劇
喜劇王チャップリンがナチス・ドイツの最高権力者アドルフ・ヒトラーを批判するために創作した大胆かつ斬新なカルカチュア・コメディ。1930年代トーキーになってもサイレント映画への愛着を捨てきれなかったチャップリンは、前作「モダン・タイムス」(1936年)で初めて肉声を聞かせたが、それは僅かにラスト数分の意味の分からない言葉で誤魔化した扱いだった。それがこのメッセージ性が強い完全なトーキー映画では、主人公トメニア国の独裁者アデノイド・ヒンケルの演説を翻訳困難なドイツ語風英語で話しています。独裁者の演説に耳を傾ける価値はないとするチャップリンの強い拒否反応の表れは、これによって映画のクライマックスであるユダヤ人の理髪師が熱く語る平和への希求を更に際立たせることになりました。1938年に原案から映画化を決め、翌39年脚本を仕上げクランクインしたのが、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻から勃発した第二次世界大戦開戦の2週間後とは、正に刻一刻と激変するヨーロッパの戦禍を想いながら映画制作を行ったことになります。当時は新聞とラジオがマスメディアを担った、今の時代からは想像もできない限定された情報と真偽不明の不確実性の時代です。その不安と混乱の中にいる人々に向けて問う、平和の大切さと人間の価値についてのメッセージ。ある意味命がけの映画制作だったでしょう。個人的には「キッド」「黄金狂時代」「街の灯」のペーソスとユーモアのチャップリンを敬愛するものの、この作品に賭けるチャップリンの想い、ヒューマニティーを最も大切にする映画人の良心と完璧を追求する作家としての徹底力には、敬服しかありません。この「独裁者」始め「モダン・タイムス」「殺人狂時代」の社会批評作品を真摯に受け止めたい本意の中には、人間愛に溢れたサイレント長編名画の存在が大きく占めています。偶然にもヒトラーと同年同月生まれのちょび髭を付けた小柄な体形が相似するチャップリンだから演じられた、唯一無二の映画の存在価値は運命的とも言えます。サイレント映画の目で見て解るパントマイム芸の絶対的誇りを持つチャップリンが、全身全霊で取り組んだ20世紀最大の暗黒時代のこの反戦コメディは、永遠の輝きとメッセージを持つでしょう。
名場面が連続する中で特に印象に残るシーンを挙げれば、先ず内相兼宣伝相ガービッチに洗脳される場面です。ユダヤ人排斥で純粋なアーリア人国家を築けば閣下は神と崇められます、と煽てられるヒンケル。神と持ち上げられて自分が怖くなるも、気持ちが高揚するヒンケルはカーテンの端を掴みながら高く舞い上がる。この身の軽さで感情の高ぶりを表現した、トリック含めた巧さ。更にオーストリッチに侵攻して他の国を降伏させれば2年で世界を征服できます、と独裁者の最終祈願に話が及び、ここで一人になったヒンケルが大きな地球儀の風船で戯れます。BGMはワーグナーの「ローエングリン」の前奏曲が流れ、自己陶酔したヒンケルがテーブルに寝そべってお尻で跳ね返すコミカルさと、浮き上がった地球儀がトメニア国家のダブルクロスのマークと一緒に映る不気味さの、なんとも形容しがたい感覚。独裁者とはいえ実務的な作戦や細かい指示もガービッチ頼りの傀儡のような幼児性が、世界征服を企む恐怖。コメディとしての独裁者ヒンケル像は、チャップリンの慈愛の精神からみたら子供がおもちゃで遊ぶ程度のものなのかも知れません。またこのシニカルな場面は、チャップリンのパントマイムの上手さと独創性を見せ付けます。
続いて床屋でチャップリンがブラームスの「ハンガリー舞曲」第5番に合わせて客の髭剃りをするシーンの面白さ。剃刀を持った手の動きが緩急のテンポに合わせて変化する、パントマイムの至芸と言えるでしょう。剃刀の怖さとそれを無表情に磨くチャップリンの対比。独裁者との二役に理髪師を設定した意味は、この至芸を見せるためと、お洒落をする余裕のない孤児ハンナを美しい女性に変身させるためにあったようです。
第一次世界大戦で理髪師を命の恩人と気遣うシュルツ司令官がゲットーに忍び込んでからのドタバタ劇はオーソドックスなもので、コインの入った焼き菓子に当たると暗殺者に選ばれるシーンは、結局理髪師一人がコインを何個も飲み込む羽目になる。チャップリン得意の食事シーンです。シュルツ捜索の記事に怯える理髪師が一瞬にして家具に隠れるところも可笑しい。その後3人が同時に入ろうとするギャグのナンセンスな可笑しさも加わります。ここからシュルツ司令官と理髪師が逮捕され、強制収容所に送られてから物語が急展開する脚本の構成力も素晴らしい。理髪師の仲間が徒歩でオーストリッチに亡命するカットとハンナの手紙を感慨深く読む理髪師のカット。一方官邸ではオーストリッチ侵攻の準備が整い戦争相へリング元帥が総統から勲章を贈られる。勲章を既に沢山着けているヘリング元帥が、総統の祝辞(何を言っているのか分からない)を聞きながら感極まって咽び泣きます。権威に対するチャップリンの強烈な批判を感じられるシーンでした。そこに独裁者ベンツィー・ナポロニが君臨するバクテリア国軍がオーストリッチ国境に進軍した知らせが入る。ヘリング元帥がフレームインして信じられないと呟き、振り返った総統が怒りに任せて問い詰める。ここでも総統の罵詈雑言の意味は分かりません。でもヘリング元帥の勲章を一つ一つ外していくことで、誰もが理解できるパントマイムの表現力の分かり易さがあります。総統の怒りは頂点に達し軍服のボタンまでむしり取り、終いにはサスペンダーを止めるボタンにも手を掛ける。ヘリング元帥の配役を肥満体のビリー・ギルバートにした効果が、ここでも生かされていました。するとナポロニから電話がきて、ヒンケルの代わりにガービッチが対応するシーンの描き方が興味深い。チャップリン扮するヒンケルは常に威張りくさっているものの、肝心な時は臆病で小心者です。部下には命令するか怒っているかのどちらか、一人の時はピアノを嗜むくらい。対してガービッチは常に冷静沈着でヒンケルに的確な進言をしています。組織のトップには、ただ祀り上げられて部下の参謀にいいように使われている面もあるという視点と、そんな立場だからこそ参謀以外には高圧的に対応し冷酷化するのではの考察もできます。ヒトラーひとりの異常性だけでナチス・ドイツの罪を語るべきではなく、独裁者と独裁者を容認した組織の両方に問題がある。
ヒトラーとムッソリーニをモデルにしたヒンケルとナポロニの関係は、1934年と1936年に実際に会談した史実を参考にしているようです。34年オーストリア問題で決裂した両者も、36年にはイタリア側がオーストリアへの関心を放棄し、ドイツのオーストリア併合を容認したとあります。その2年後の1938年3月にオーストリアがナチス・ドイツに併合されたのは、ロバート・ワイズの「サウンド・オブ・ミュージック」で日本人にも知れ渡る歴史の1ページ。ナポロニはヒンケルとは違って陽気で豪放磊落、体格もいい。そんな二人が幼稚な覇権争いをしてバーバーチェアで高さを競ったり、オーストリッチ侵攻放棄の協約調印で揉めるドタバタ劇には、チャップリンが実在の独裁者ふたりまとめて風刺した面白みがあります。
この様に独裁者ヒンケルを皮肉たっぷりに批判するコメディ映画のラストは、独裁者に間違えられた理髪師がオーストリッチ侵攻が完遂した後、大観衆を目の前にして演説するクライマックスです。その饒舌なる語りから感じられるのは、それはもはや理髪師ではなく、素のチャップリンー(それまで多くの活動写真で世界に笑いを振りまき、サイレント映画で人間愛を讃えた、平和主義者で映画作りの天才)ーが観客に語りかけるという、通常の劇映画の約束事を無視したものです。それが許されるのは、喜劇王チャップリンへ多くの観客が厚い信頼と深い愛着を持っているからです。その自負もチャップリンにあったでしょう。映画史上に遺るこの演説は、観客に勇気と感動を与えてくれます。独裁者の演説で闘士を奮い起こす愚かさの対極にある、この愛と平和のメッセージを語り継ぎたいと思わずには居られません。
(制作当時チャップリン夫人だったポーレット・ゴダードの役名ハンナは、1928年に亡くなった生母ハンナ・チャップリンから引用されています。演説の中でハンナに優しく語るところに、チャップリンの母親への愛情深さを感じます。また実際の強制収容所の残酷さを知らなかったチャップリンは後に、それが分かっていたなら、この映画制作は出来なかったかも知れないと述べています)
付録
チャップリンの短編作品で印象に残っている作品を列記してみます。「拳闘」「冒険」「船乗り生活」「消防」「道具方」「番頭」「伯爵」「改心」「午前一時」「移住」「霊泉」「寄席見物」この中で特にお気に入りは「午前一時」「移住」「霊泉」の3本になります。
名作ですね。
最後の演説は録画したものをずいぶん繰り返して見ました。
最近、どうもこの映画の登場人物と重なる人がある組織のリーダーになってしまい、一言一言が狂っているとしか思えないことがあります。