太陽がいっぱいのレビュー・感想・評価
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ニヒルなイケメンが悪事を隠蔽する話。 だけなのだがアラン・ドロンが...
頑張れ!逃げ切れ!アラン・ドロン!
序盤で、ナポリの市場や街中を、アラン・ドロンがぶらつく場面が幾つか長尺であります。
この場面は、エキストラを使っていないようで、街中の人やお店の人が「オイオイ、見ろよ!アラン・ドロンが撮影してるぞ!」って、遠慮なくジロジロ見てました。
画面の中景では、人混み整理の映画会社の黒服さんとか警察官とかもバンバン写り込んでいて、スターの旅番組にしか思えないかんじです。
のどかで面白くて良いですね。
音楽はとても良き。
アラン・ドロンの可愛さを、ただただ慈しむだけの映画だと思いました。
あまりの可愛さに、「頑張れ!逃げ切れ!アラン・ドロン!」って、私も応援しちゃいました。
ちなみに、こち亀には何故かアラン・ドロンが沢山登場しています。
犯罪に突き進む青春映画
ノーカット吹替え版(「舘ひろしシネマラウンジ」2025.2.15放送)の録画を観ました。
二度にわたる死体処理シーンが これでもかというほど丁寧に描かれていました。死体にタバコをくわえさせるシーンは笑えました。
「太陽がいっぱい」は、アラン・ドロンが扮するトム・リプリーの台詞ですが、太陽光線を沢山浴びながら喜びを味わっているシーンで、印象に残ります。
太陽のような存在は 一人だけで良い という意味にもとれますし、トム・リプリーの才能を太陽とするならば、多才だから 彼の中には太陽がいっぱいある という意味でもあるのかなと、「太陽がいっぱい」のタイトルの意味をなぜか考えながら観ていました。
アラン・ドロン扮するトム・リプリーが ローマで買い物をするシーンは 隠し撮りだったらしく、テイストが違っていて、そこだけはプロモーションビデオのようで 笑えました。
ラスト、フィリップ・グリーンリーフの船のシーンが衝撃でした。古い映画ですが今観ても魅力的です。
自業自得ではあるのだけれども、自らの欲に溺れていくトムの姿は哀れという以外の何物でもない
富裕なフィリップとの交際を通じて、彼からこぼれてくる富の恩恵に預かろうとするのなら、いざ知らず。
彼そのものになり代わり、彼の婚約者・マルジュを、いわば「中間項」として、最終的には彼の財産を乗っ取ってしまおうという計画が思いつくということは、トムのこれまでの人生は、どんなものだったのでしょうか。
思いつきもしない…思いついたとしても、とても実行には移せない計画ではないでしょうか。
少なくとも他人の痛みが分かる人間であれば。
その人生の「陰の部分」が、彼をして彼の所業に駆っていることは、否定ができないのだと、評論子は思います。
確かに、いわゆる「金持ちのボンボン」にありがちなフィリップの不遜さがトムの憎悪を掻き立てた面もないではないとは思いますけれども。
いずれにしても、自らの欲に深く落ち込み、その深い欲に溺れていくトムの姿は、自業自得とはいえ「哀れ」という以外には評しようがないようにも思われます。
最後の最後には偽のフィリップから、現実のリプリーに戻り、マルジュを介してまんまと彼の遺産を手に入れたと信じ切り、太陽(陽光)かいっぱい降り注ぐビーチで、「とにかく、いちばん高い飲み物」を注文して得意満面だったリプリーは、そのまま真っすぐ司直の手に落ちて、どんな気分だったでしょうか。
何度もなり代わりが露見しそうになりながらも、その都度、悪知恵を働かせて切り抜けるストーリーは脚本の「冴え」でもあり、映画作品(サスペンス映画)として、製作年次も考え併せると、十二分な佳作でもあり、午前十時の映画祭、新・午前十時の映画祭のラインナップを飾るにも、他作品と少しも見劣りがしない一本だったとも思います。
トム役を演じたアラン・ドロンの端整な顔立ちが、その悲哀をいっそう増幅していたという点も含めて、彼の名演技と評するに値する一本だったとも思います。
(追記)
評論子も、本作から男性同士の同性愛という色彩は、感じ取ることができませんでした。
もし、そういう色彩があったのだとすれば、フィリップからトムに対しての一方通行でしょうか。
ボートでヨットからトムを隔離したり、それでトムに重度の日焼け=やけどをさせたり…。
そこに、フィリップのトムに対する(一方的な)支配性を感じることはできたのではないかとも思います。
(そう言われてみれば…という「後追い」の感想ですけれども)
(追記)
お札が大きい(驚)!
イタリアでは、今でもそうなのでしょうか。
持ち運びには、不便そうです。
(アラン・ドロンの追悼上映として、スクリーン=ミニ・シアターで鑑賞)
地中海の抜けるような青い空は、まさに「太陽がいっぱい」で本作品の魅力の一つですね。
Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下さんにて2024年8月に逝去したアラン・ドロン氏の生誕日にあたる11月8日から『太陽がいっぱい 4Kレストア版』『若者のすべて 4Kレストア完全版』『冒険者たち』の3作品を追悼上映中。本日は久々に『太陽がいっぱい』を鑑賞。
『太陽がいっぱい』(1960)
監督は『禁じられた遊び』(1952)のルネ・クレマン、音楽はニーノ・ロータの大ヒット曲、アラン・ドロンを世界的大スターに押し上げた言わずもがなの代表作ですね。
ストーリーはピカレスクロマンのサスペンスですが、久々に見直してみると、トム・リプリー(演:アラン・ドロン)が一方的な悪者、サイコキラーでもなく、富豪のフィリップ(演:モーリス・ロネ)に追い詰められていく様が描かれ共感を覚えるキャラクターでしたね。
本作品でのアラン・ドロンはまごうことなき絶世の美男子、ヒロインのマリー・ラフォレもチャーミングで、ずっと飽きずに見ていられますね。
ロケ地イタリアの地中海の抜けるような青い空は、まさに「太陽がいっぱい」で本作品の魅力の一つですね。
タイトルなし(ネタバレ)
イタリア・ナポリ。
トム・リプリー青年(アラン・ドロン)は、フィリップ・グリンリーフ青年(モーリス・ロネ)をフィリップの父の命令で連れ戻しに来た。
トムは才人。
目端が利いて役立つので、フィリップは重宝して友人のように扱うが、心底では階級が違うと思っている。
貧乏なトムは、連れ戻した際にもらえる約束の5000ドルがほしい。
いや、美しい婚約者のマルジェ(マリー・ラフォレ)も含めて、フィリップが持つすべてのものがほしいのだ・・・
フィリップ、マルジュ、トムの3人でヨットに乗って海上生活を楽しんだが、フィリップとの諍いからマルジュは下船。
フィリップとふたりになったトムは彼を殺し、フィリップになりすますことにする・・・
といった物語。
現代の視点では、そうそう簡単になりすますことなどできないような気もするが、スマホなどで取引すべてが完結するので、もしかしたら現代の方が上手くいくかもしれない。
それはそうとして、恐ろしいばかりのサスペンスで、波高い海上で死体を始末しようとするトムの鬼気迫る姿。
特徴的なフィリップのサインをマネするトムの冷血な様子。
アラン・ドロンの美貌が凄まじい分、鬼人のように見えてきます。
後半は、トムのなりすましがいつバレるのかのサスペンス。
サスペンスの基本、観客は知っているが、劇中のトムを除く人物の誰もが知らないというシチュエーションを積み重ねることで、サスペンスを盛り上げていきます。
ルネ・クレマンの演出、みごとですね。
さてさて、才人トム・リプリーの完全犯罪、ほぼほぼ成功に見えたが、悪事が露見するシーン・・・
おぉ、こういうワンカットだったのか!
フィリップとマルジュの愛憎関係、結局のところは切っても切れない関係だった、という。
(ヨットの船名がマルジュなので、暗喩だったわけで)
有名なテーマ曲は、前半と最終盤に流れるだけで、それほど登場場面は多くありませんが、鮮やかな幕切れなので耳に残る、という。
なお、トムが銀行でフィリップの預金を引き出す際、彼の青い眼のアップが2回インサートされるが、たぶん1回目はフィリップ=モーリス・ロネのそれでしょうね。
トムとフィリップが、いわばコインの裏表をあらわした演出だと思うのですが・・・
真偽は如何に。
やっぱり淀川さんは凄い
今年8月、88歳で亡くなったアラン・ドロンの追悼上映。僕が子供の頃には「アラン・ドロン」と言えば「二枚目」の代名詞で、その映画を観た事がなくとも、あるいはどんな人なのか知らずとも、その名に全ての人が平伏していた様に思います。そんなドロンの出世作です。
僕が本作を観たのは40~50年前だったと思うのですが、淀川長治さんが本作を観て「これは同性愛の映画ですね」と公開時に語っていた事を後年になって知りました。原作者のパトリシア・ハイスミスが同性愛者であった事は知られてはおらず、そうした発言を公にし辛かったであろう当時に、それを喝破した淀川さんはやはり只者ではなかったんだなと感心。
但し、その見方が合っているのかどうかは制作者自身のみが知る事で、今回改めて観ても「そう見ればそう見える」程度に感じるだけでした。でも、淀川さんはやはり凄いな。
上っ面な人間関係
金満家の凡庸な厭らしさ、下流のハスっこい厭らしさをこれほどまでに表現して見せるとは。
幼いころに見た時は、
破滅へのカウントダウン。それでいて、当の本人は優越感におぼれ、満ち足りた気分に酔っている。
その差にヒリヒリして、イタくて、
ドロン氏の二枚目ぶりに浸透していたこともあり、
あまりにも悲しすぎて、胸がふさがれてしまい、
なかなか再鑑賞できなかった。
ドロン氏の逝去。(ご冥福をお祈りします)
意を決して再鑑賞。
こんなに繊細な演技をする方だったんだ…。
『黒いチューリップ』『世にも怪奇な物語』『山猫』しか見ていなかったけれど。それらの作品でも好演しているが、改めて見直してしまった。
こりゃ、世界を魅了するわ。
水野晴郎氏は、映画の解説の中で、ドロン氏ご自身の生い立ちがこの演技に利いているとおっしゃっていたが、
フィリップとトムとを並べてみると、トムの三流ぶりが際立つ。
目端が利く頭の切れが唯一の武器。
大金を得るために受け負った仕事のおかげで、金満家の暮らしぶりを経験してしまった。
今までは憧れていただけの贅沢。身に着ける靴や衣服のフィット感。食事だって場末の食堂ではなく、調度の豊かなカフェ。
それよりも、周りの人が金満家に向ける視線。それに対して自分に向ける視線の格差。
その度に傷つく。仲間であって、仲間ではない。ミソッカス。使い走り。ペットではなく家畜としての犬扱い。
そして、そんな立ち位置に我慢ができないトム。
誰よりも、自分の頭がキレることを自負している。
凡庸なフィリップよりも、自分こそが皆の敬意を得ても良いはずなのにという視線がちらつく。(元々階級があるヨーロッパ人ではなく、自身の力で成り上がれるUSA出身という設定)
それでいて、フィリップにぴったりとくっついて、おこぼれを享受しようとする姿。
コバンザメのようにすぐ後ろに張り付いて、機会あれば、すっとフィリップを出し抜こうとする姿。
目が不自由なふりをしてナンパした夫人に対する行為。おこぼれの骨にしゃぶりついているようで、イタイ。
このようなトムのチラ見えする厭らしさ(≒野心)にうすうす気が付いているマルジュやフレディはトムを嫌い側に置かないようにするものの、フィリップはトムを御せると思っていて…。
対するフィリップは、金満家にありがちの、自信を持った振る舞い。
働かなくとも食べていける身分ではあるが、自分の力で何かを成し遂げているわけではなく、父の庇護下にあり、鬱屈した気分を、トムをいじめることで晴らしている。それでいて、おこぼれを与えていて、それでトムを御せていると思える凡庸さ。金満家が”人”と見なしている人達への心遣いと、トムへの心配りへの違い。一人ではいられず、といって自分の意見を持っているマルジュだけでは自分を保てず、自分に従順な(ふりをする)トムを必要としているのに。
演じるロネ氏が良い味を出している。意地悪なのに、人の良い面もあるという、ある意味いじめっ子の典型的人間像だが、演じるには微妙な役。トムに対してあれだけのことをしているのに、殺されて当然という評はあまり見ないという不思議な仕上がり。結果を考えなしで行い、死ぬかもと気が付いたとたん必死で助けたからか?
淀川氏は、この映画の根底に同性愛があるとおっしゃっていたようだが、私にはそれは感じられず。
トムのナルシストぶり。フィリップの人の気持ちへの無神経さ・幼さだけが印象に残る。
トムは何をしたかったのだろう。さっさと、財産を奪い取って、誰ともあわない土地に高跳びすればよかったのに。ヨットだって、わざわざ売りに出さずに、漂流したように見せればよかったのに。
マルジュへの固執。マルジュを愛しているようには見えないのに。
”王様”になりたかったのか。フィリップに向けられていた周りの人の視線を得たかったのか?だからヨーロッパの社交界から離れられなかったのか?
マルジュも、その一環、まるで高価なアクセサリーを得るように扱う。
フィリップに成り代わってからのニアミスは、映画を観ている私たちからはハラハラドキドキしておもしろいが、トムは大金を得てから豪勢に散財したシーンもなく。
それでも、すべてを手に入れた。自分の計画が計画通りに成就したと思い、優越感に浸り、満ち足りた気持ちになる、その時。
そんな卑屈で、それでも幸せになりたかった男をこんな風に演じるなんて。
ドロン氏は最高の役者でもあると思う。
そしてそんな物語を余すことなく撮った映像・演出。
この色男とこの映像を、ロータ氏の音楽が引き立てる。
色あせない映画。
アラン・ドロン氏 追悼鑑賞
若いアラン・ドロンを観る作品
貧しいアメリカ人のトムは、金持ちのフィリップの父親に頼まれ、彼を連れ戻すためイタリアのナポリにやってきた。金の力で女遊びに明け暮れるフィリップに対し、怒りと嫉妬を持ったトムは、フィリップを殺して彼に成りすまそうと計画し・・・トムの悪事は成功するのか、という話。
アラン・ドロンが今年8月18日に亡くなった事による追悼上映を鑑賞。
何度も観てるが、やっぱりイケメンだなぁ、とあらためて思った。
演じてる役も悪い奴だし、彼の私生活にしても家庭内暴力を起こしてるようで、決して人間的に良いやつではないのだろうが、顔だけは美しいと思う。
そんなアラン・ドロンを堪能する作品。
最後の衝撃は何度見ても天国から地獄だなぁ、と思う。
あと、ニーノ・ロータの悲しげな音楽も耳に残る。
美しいアラン・ドロン
アラン・ドロンを偲んで
俳優のアラン・ドロン
2024年8月18日に自宅にて88歳で他界
原作未読
原作は『見知らぬ乗客』『アメリカの友人』『ギリシャに消えた嘘』『キャロル』『ライク・ア・キラー 妻を殺したかった男』のパトリシア・ハイスミス
監督と脚本は『禁じられた遊び』のルネ・クレマン
初鑑賞
完全犯罪を狙ったスリリングなサスペンス
1960年(昭和35年)公開作品
フランスとイタリアの合作映画
アラン・ドロンの世界的出世作
不朽の名作のためかその後も度々劇場公開されている
2000年にはハリウッドがマット・デイモン主演『リプリー』としてリメイク
粗筋
貧しいアメリカ青年トム・リプリーはフランスやイタリアを遊び歩いている道楽息子フィリップ・グリンリーフに付き纏い依頼主であるフィリップの父の元に帰るよう説得するが彼は従うことはなく契約は打ち切られ謝礼の5000ドルはパーになった
そこでトムはフィリップ所有の船内でフィリップの胸をナイフで刺し殺害し海に沈めてしまう
そしてトムはフィリップに成り済ました
当初トムとフィリップの人間関係を誤解した
パリでのはしゃぎぶりを見る限り気心が知れた付き合い長い仲良しの幼馴染かと思っていたがそうではなかった
原作ではアメリカでフィリップの父がトムに仕事の依頼をするシーンがあるらしいがルネ・クレマン監督はそこをバッサリとカットした
トムがフィリップに成り済ますも世の中そんなに甘くない
いくらトムの頭がキレるにしても苦難の連続
警察だって捜査を始める
フィリップを尋ねてきた彼の友人のフレディまで殺害してしまう
フィリップの腐乱死体が発見される
万事休すも有頂天のトム
ロープが切れてしまったトムが乗せられた小舟
ロープが切れなかったシート包みのフィリップスの死体
その対比が皮肉である
フィリップが泊まっているホテルの部屋の和洋折衷ぶりが良い
フレディを撲殺するのに使用した緑色の置物は布袋様かな
ホテルの名前がパラディーゾってのもなかなか
日本では死刑になるような案件だがイタリアでは死刑制度はその当時から既に廃止されているので終身刑だろう
裁く国はイタリアなのかフランスなのかアメリカなのかわからないが殺人は全てイタリアなのでたぶん裁かれるのはイタリアのはずだ
自分は主人公が悪党で共感できないからといってそれだけで作品を駄作認定する思想はない
僕はそもそもヤフコメ民のような風紀委員めいた連中は嫌いだし
娯楽映画として高く評価したい
それでも星5にはなぜか抵抗があり星4ならしっくりときた
良心の呵責かもしれない
ラストシーンで電話に出るためにそちらに歩き出すトムの微笑みが印象的
配役
フィリップの父から5000ドルの依頼を受けてアメリカからフィリップを連れ戻しにヨーロッパにやって来たトム・リプリーにアラン・ドロン
大富豪の道楽息子のフィリップ・グリンリーフにモーリス・ロネ
フィリップの婚約者のマルジュ・デュヴァルにマリー・ラフォレ
フィリップの友人にフレディ・マイルズにビル・カーンズ
ウエイターにルネ・クレマン
美しすぎるアラン・ドロン
今でこそ普通より少しイケてるおじいちゃんですが、凄いですね、若かりし頃は
劇中でモテないのが不思議なくらい!!
青く澄んだ吸い込まれそうな瞳と、まさしくスターの顔立ち
今でも未来でも十分過ぎるほど通用するイケメンぶりは舌を巻くばかり
あんな顔に生まれたかった
人を殺した罪悪感がまるで感じられない人物設定と、その割には雑すぎる死体処理方法はさて置き
やはり特筆すべきは、このテーマ曲ですね
たとえ当の作曲者が納得していなかったとしても、一瞬にして砕け散る主人公の儚い人生を見事に表現している
叶うことのない、物悲しくも切ない恋心も聴くたびに胸に迫ってくる
これぞフランス映画!というより、これがフランス映画なんだという先入観を揺るぎないまでに自分の中に確立された映画でもあり、曲でもある
海外の大富豪は、湯水のようにお金を使い、汗水垂らして働かず、遊びまくるんだなぁって、この映画を見てその実態を初めて知ったのが懐かしい
あんな金持ちの家に生まれたかった
50年以上も前の作品にしては、パスポートの偽造や女性警察官にわざと情報を漏らす手口等は素晴らしい
警察官からの逃げ方も面白い
当時のフランスの街並みやどでかい札束wは、一見の価値があるかも
パトリシア・ハイスミス
20数年前にリバイバル上映で鑑賞し、地中海とアラン・ドロンの美しさが印象的に残っていました。後に地中海に旅行で訪れた際にヨットがたくさんあって、映画で観ていた通りだと感動したのです。そして、お正月に帰省した際に改めて父と一緒に再鑑賞。
本作の魅力はやはり、地中海とアラン・ドロン、ニナ・ロータの音楽につきますね。ストーリーも分かりやすいですし。
ところが、本作の原作がパトリシア・ハイスミスであれば話は変わってきます。
町山さんによると、本作がゲイ作品だと一番初めに解説したのが淀川先生だったとのこと。だから、本作は所々に同性愛の隠喩があると。
パトリシア・ハイスミス原作『キャロル』は直喩なので分かりやすいですが、本作の隠喩は全然分かりませんでしたね。同性愛について、現代は直接的な表現が出来る社会にはなりましたが、当時は絶対に不可能だったと思います。
そんな風に本作を鑑賞すると、トムの大胆な行動の裏にはフィリップに対する大きな性衝動があったのではないかと、思いました。
全78件中、1~20件目を表示