ソルジャー・ブルーのレビュー・感想・評価
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国家の残虐性
冒頭の主題歌がものすごく印象的で頭に残ります。この映画全編を貫くテーマを歌ったまさに主題歌です。映画として成立するための筋が合間にありますが、言いたいことの8割は冒頭と最後の戦いのシーンでしょう。明らかにマネキンが使われていたり、血のりが嘘くさい色だったりと現代からすれば突っ込みどころはありますが、むしろそのくらいでないと泣いてしまいそうな残虐さです。
ホロコーストという言葉もまだなかった時代、民族の集団に対して国家という強大なリヴァイアサンが残虐さを振るった事例を見せてくれるのではないでしょうか。実際先住民が土地を奪われ、殺されるということは報復の連鎖があるにせよ現代からすれば犯罪以外の何物でもありません。主人公とヒロインはそんな現代の目を当時にもたらす役割かと思えました。
私の原体験映画
個人的に思い出の作品のDVD購入(オークション)に今更ながらハマっているのですが、その中でも一番欲しかったのが本作でした。
本作はリバイバル上映の記憶も無く、テレビでの放映も(あったかも知れないが)録画も出来ず、今の配信などでも見かけなかったのでもう一度見たいという思いが非常に強い作品でした。
ということで、本作の場合ちょっと高かったですが(それでも新品Blu-rayで2000円以下)購入してしまいました。
本作を初めて鑑賞したのは忘れもしない1971年3月7日、私が中学を卒業し高校に入学する前の春休みに中学の友達だった子と、大都会の大阪梅田の映画館(今は無き梅田東映パラス)にて初めてロードショーで(封切り)鑑賞した、私の映画の(思春期の)原体験となった記念すべき作品なのです。ここから、私の映画好き人生が始まったと言っても良いと思います。
当時15歳の私にとっては強烈に印象に残る作品でした。あまりにも強烈だったので当時の映画館は入替え制では無かったので2回連続して見た記憶があります。
本作の場合は上記のような条件や、初めての大都会の大劇場の大スクリーンや封切り直後の超満員の雰囲気などが重なり観る前からの興奮度も高く、かなりの高揚感で鑑賞した記憶があります。
本作の簡単な紹介をすると、当時のアメリカンニューシネマの波に乗って反体制的な作品が多く出現し、今までの西部劇ではあまり表現してこなかったインディアン側から見た白人の姿を描かれていて、ウィキでの簡単な説明も紹介しておくと特に「米国史の暗部である1864年のサンドクリークの虐殺を提示することで、1960年代のベトナム戦争でのソンミ村事件へのアンチテーゼを掲げた映画だとも云われている」とのことで、ラストの生々しい惨劇シーンが話題になった作品です。
で、今回半世紀以上経て見直したのですが結構詳細に憶えていて、人間の若い頃の記憶って改めて凄いものだと感心しましたよ。
但し、全体的な印象は違っていましたね。もっと社会派作品だと感じていたのですが、前半の主人公二人のロードムービーが思っていた以上に軽快で若々しく(緩くも)感じられ、まるで青春映画であり“grown-up” の物語を強く感じたのは、私が歳をとったからなのかも知れません。ラストシーンの拘束されながらも二人が笑いあい見つめあいながら終わるのは、他のニューシネマに無い希望が見られましたね。
今回見直してつくづく感じたのは、私の映画原体験ともいえる作品が本作で本当に良かったという事です。そして、これを15歳の多感な時期に見たことが最も重要で、その後の私の物事を見つめる姿勢や価値観に凄く影響を与えてくれたような気がします。
本作を見る数日前に話題の『福田村事件』を鑑賞していたのですが、構成やテーマに於いて本作と凄く似ている様な気がしました。人間の本質的な性質の弱さや醜さや美しさを同時進行的に描かれている共通点が見受けられました。
何を捉えるにしても、主観だけではなく客観的視点を絶えず意識して働かせていなければならないということを、本作で潜在意識に植え付けられたのかも知れませんね。
"サンドクリークの虐殺"
少しのアドベンチャー、まるでラブコメのような展開、仄々とした音楽が流れ、お転婆娘とウブな男子のコミカルなロードムービーとでも言うべきか、そこには何ら緊張感の欠片もなく、お色気サービスも少々!?
全てはラストに於けるクライマックス迄の余韻に過ぎない、優位に立ち勝利する者が全ての正しい側に存在してしまう人間の愚かさ、罪を贖う為の間違いを認めさせるにはこれ程の残酷描写を描き、己の目に焼き付けさせないとならないアメリカ映画による西部劇の転換点。
英雄のように勝ち誇った振る舞いの大佐が放つ言葉に歓喜の兵隊たちが野蛮な輩にしか見えない、場違いで和やかな音楽が流れ不謹慎極まりない中、ナレーションが語る無音の静けさで映画は幕を閉じる。
ラストシーンに監督の真実の希求への期待が…
私にとっては幻の映画となっていた
「野のユリ」や「まごころを君に」の
ラルフ・ネルソン監督作品を
ビデオレンタルして
ついに観ることが出来た。
この映画は、ベトナム戦争でのソンミ村事件
への批判が込められているとの
解説があったが、
圧倒的な武力での侵略や
非戦闘員の虐殺や連行など、
あたかもロシアによるウクライナ侵攻をも
想起させられるタイミングでの
鑑賞となった。
この映画は、部隊全滅後に砦を目指して
彷徨する二人と武器密売人からの逃走劇の
中盤こそやや冗長的だが、
冒頭のモノローグとタイトルバックの歌、
そして最後の衝撃的な先住民虐殺のシーンが
強烈に全てを語っているイメージの作品だ。
特に、その土地に相応しいのは
長く適応してきた民族であり、
彼らこそがその土地を我が国と呼べる、
だから進入者はこの土地を愛する方法が
他にもあると思わない?
と問い掛けるタイトルバックの歌が
象徴的で、
この映画のストーリーの中では、
2年間の先住民との生活で培われた
クレスタの環境適応能力や
ホーナスの先入観の改悛が描かれる。
西部開拓史がフロンティア精神による
賜物だったと合衆国建国への想いを寄せる
人々へは強烈なアンチテーゼ作品だ。
ラストシーン、
隊の指揮に逆らったホーナスが鎖に繋がれ
クレスタの前で連行されて行く中で、
真実を理解したとの彼女への彼の笑みと、
連行されるのが彼ぱかりでは無かった描写に
ネルソン監督の真実の希求への期待が
込められていたように思えた。
それにしても、
それまでのジョン・フォード西部劇などで、
西部開拓史における騎兵隊のイメージを
インプットされていた米国人にとって、
この映画から受けたショックは
いかばかりであったろうか。
Buffy Sainte-Marie
主題歌が好きで今でも聞いている。見たのは何年も前。
黒人解放運動を経て、先住民の人権(と入植してきた”アメリカ人”の所業)について見直そうという時代の映画。
西部劇で見慣れた”白人の頭皮を剥ぐインディアン”は嘘で、”先住民を駆除した証拠に長髪の頭皮で賞金を貰う白人”は居た。かっこいいはずの騎兵隊の鬼畜の所業。等々。
今見ても、当時の感動は伝わらないでしょうね。アメリカ人もこんな映画を作るんやと驚いた記憶が。
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