「【アメリカンニューシネマを再度見る】連載②」卒業(1967) かなさんの映画レビュー(感想・評価)
【アメリカンニューシネマを再度見る】連載②
有名大学を特待生として勉強もスポーツにも秀でた実績をあげ卒業し実家に帰ってきたベンジャミン(通称ベン)(ダスティン・ホフマン)。家族や知人・友人にちやほやされますが、彼は憂鬱な感情をいだいていました。「優秀な成績で卒業したのがどうした」「それより今後の展望がまったく描けない」というフラストレーションがたまっているのです。
父親の事業の共同経営者の妻、ロビンソン婦人(アン・バンクロフト)は ベンを誘惑します。ロビンソン婦人も夫とはセックスレスでフラストレーションがたまっていたのです。
人生経験豊富なロビンソン婦人の命令口調の指示にしたがいながら、ついにベンとロビンソン婦人は情事のドロ沼に入り込んでいくのでした。
ここまでの展開であれば、エリート層のボンボン優等生とセレブ年増であるが美しいロビンソン婦人の単なる不倫のお遊びでかたつきます。
ただ二人のお遊びに共通しているのは、払いのけられないほどの「フラストレーション」にさいなまれていたのです。
この「フラストレーション」は既存ルールに縛れていて既定のレールにのっかり生きていくしかない、身動きできない二人の思いが伝わってきます。しかし二人はこの「ルール」を自ら破壊しました。
この破壊は、ベトナム戦争の「フラストレーション」と似ています。。
正義の戦いと思っていた戦争が、そうではないと知ったときのアメリカ国民のフラストレーションと同様なのです。
そうです。「フラストレーション」は破壊をうむのです。
ただこの作品は単なる不倫映画で終わらない恐ろしさをまとっていました。 ベンはあろうことかロビンソン婦人の娘エレイン(キャサリン・ロス)と付合い好きになる。
情事をした女の娘を。母は母、娘は娘と割り切ったのです。この考え方こそが、エリート臭さとボンボンの優待性気質が気持ち悪いほどにじみでています。
エレインはベンと母親の情事を知りベンを拒絶します。しかし、おかしいのは「完全なる拒絶」をしないことです。ベンがエレインの大学の近くに住み毎日のように彼女を口説く。それにたいしてエレインは。ベンとキスをしたり「完全なる拒絶」をしないのです。
エレインは、ベンに心から愛されていると思っているのです。
みなさんは、この映画のラストシーンはハッピーエンドだと思いますか。私は断固として否です。二人の選択は、身の毛もよだつほどの嫌悪感にかられるのです。道徳、倫理というものではなく「生理的に無理」です。
ハッピーエンドと思った方は、二人のあらゆる壁をぶちやぶった純愛にひかれるとか、過去より未来、二人が幸せならいいと思うのでしょう。
すこし過激な記載になりますが、ベンは母と娘を割り切るというずうずうしさ。母も抱いて娘も抱く、本当に?
エレインも自分の母親を抱いた男に抱かれることを受けいれる女性の神経がわからないのです。
二人は、家族も友人も大切な人たちすべてを傷つけ裏切りました。誰からも祝福されない二人です。駆け落ちと思えばいいというかもしれません。しかしです・・・・
ベンとロビンソン婦人は、情事によって「ルール」を破壊しました。
ベンとエレインは、「ルール」も破壊しましたが、それより数段階上の「二人をとりまく世界」を破壊したのです。破壊しながら、二人の「理想」、若いからなんでもできる、二人がいいならいい、二人は愛し合っているから必ず幸せになれる。そう思い込んでいるのでしょう。
ベンとエレインの思い上がりには、弱者ベトコンを力の限り破壊する姿に重なり、「理想」の世界を作るアメリカの思い上がりが見えるのです。
自分たちだけの気持ち、思い、「理想」、それが絶対であるという心が、まるでベトコンを蹂躙するアメリカそのものだからです。それゆえ「生理的に無理」なのです。
この映画はまさにアメリカンニューシネマを体現しています。
次回は、スタンリー・キューブリック監督のSF大作「2001年宇宙の旅」です。ご期待ください。