「乾いた男が笑うとき」捜索者 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
乾いた男が笑うとき
1956年。ジョン・フォード監督。南北戦争終結後のテキサス。戦争中から行方知れずだった男は兄の家に帰ってくる。ひそかな思いをもつ兄嫁や甥姪たちと旧交を温めるが、その日のうちに牛泥棒を追って警備隊とともに荒野へ。その間に一家がコマンチ族に襲われ、二人の姪は連れ去られ、ほかの者は惨殺されてしまう。男の復讐と姪たちを取り戻す捜索の旅が始まる。
情緒に流されない男は兄一家が襲われたことを聞いても、激情に身を任せることなく冷静に帰り道の距離を判断している。兄嫁を殺された復讐の念は強いがやみくもに突撃するのではなく、コマンチ族とわかれば死者にさえ発砲するがそれは彼らの迷信を利用するためだし、連れ去れた姪でさえコマンチ族の一員として育ったと知ると拳銃を向けるが、それはもう白人社会には戻れないという思慮の結果だ。つまり、男は冷徹な判断のもとに慣習や情緒を無視して行動するのだ。
しかし、男も変化する。旅の道づれは幼いころに男自身が助けて兄一家に預けていた原住民族出身の若者だが、原住民族出身であることを理由に男はまったく親しみを示さない。ところが、旅の後半、銃撃されたときには家族ではないと断りを入れるものの遺産はすべて若者に譲る決意をするし、なにより、一度は殺した方がいいと判断した姪を最後には殺さずにつれ帰ってくる。ここで、若者と姪の境遇が正反対になっていることが重要だ。姪と正反対の境遇の若者は当初から一貫して姪を救おうとしているのだが、男自身は終始殺そうとしており、最後の最後で突然生かして連れ戻す決断をしている。それは、蓮實重彦が言うように姪を掲げあげる身振りの再現として表現されているのだが、物語の意味上は、その前のシーンで、若者が他の男と結婚しようとしてる恋人をめぐって一対一の喧嘩をする場面に端を発しているだろう。ここで若者は正々堂々と喧嘩をして仲直りするという【男同士の儀式】を通して、男に認められている様子だからだ。このとき、復讐の鬼と化している男は満面の笑みをたたえている。姪とは正反対の境遇にある若者への認知が、姪を生きて連れ戻すことにつながっている。
基本的に復讐を遂行する陰惨な話で、時折さしはさまれるコミカルなシーンでさえ笑えない空気を漂わせているが、逆に、笑えないコミカルなシーンによって、ベースにある男の執念の特異性が浮き上がっているともいえる。