戦場にかける橋のレビュー・感想・評価
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ギネスと早川の構築する、敵味方を超えた複雑な関係性が魅せる
アカデミー賞では作品賞をはじめ7部門を受賞し、映画史に名を残した戦争映画。捕虜となった英国人兵士(アレック・ギネス)と日本人将校(早川雪洲)が、互いに主義主張を譲らぬ中でいつしか妥協と協力を繰り返しながら橋建設を進めていく。最初は全く折り合えなかった二人が一つの目標に向けて視線を同じくしていく姿には、決して敵味方の二元論で割り切ることができない戦争というものの複雑さを垣間見せる。そんな二人にも皮肉な結末が待っているという、ますますもって複雑な余韻を残すこの映画。世の中に「敵の顔」が全く見えない戦争映画が多い中、本作は新たな境地を切り開いたとみていい。ギネスと早川、アカデミー賞にも絡んだ二人の演技は、ある意味、「戦場のメリークリスマス」の坂本龍一とデヴィッド・ボウイのようなものと言えるのかもしれない。クライマックスの鉄橋爆破シーンは映画好きなら一度は目に焼き付けておきたい歴史に残る名場面だ。
評価高すぎませんか?
戦場における軍人としての矜持
実は、鑑賞の終わり部分では、ニコルソン大佐が連合国軍の爆破作戦を予期していたのかと、ずっと考えていました。
すなわち、この橋は、いわゆる泰緬鉄道のルート上に位置して、日本軍の東南アジア進出(侵略?)には、欠かすことのできない重要な交通手段だったはずですから、連合国軍が、その建設を阻止しないことは、あり得ないと考えていたからです。
もちろん、ニコルソン大佐も日本軍の捕虜として収容所に捕らわれている身の上、連合国軍の作戦行動の詳細は知ることのできる立場にはなかったことは明らかですけれども。
しかし、ニコルソン大佐も連合国軍の幹部(将校)であってみれば、連合国軍がこの橋の完成を容認しないことは、充分に理解していたと考えていたからです。
つまり、ニコルソン大佐としては、一見、橋の建設に協力するかのように見せかけて、捕虜たちの待遇を改善させ、それによって連合国軍捕虜たちの安全と生存とを確保しようと考えたのだと理解したからでした。
しかし、実際は、そうではなかった模様。
ニコルソン大佐としては、日本軍の敗戦(降伏)が、そう遠い将来のことではないことを見越して、地元住民の便利のために(自らの部隊の存在を後世に残すために)橋の建設に協力した―といったところでしょうか。
そう理解すると、ニコルソン大佐が、わざわざ橋に銘板を据え付けたことにも、合点が行きそうです。
いずれにしても、極限状態(戦争、そしてその戦争による虜囚の身の上)でも、斎藤大佐の理不尽な要求には屈せず、飽くまでも規律を重んじる軍人としてのニコルソン大佐の矜持は、「統率者」としての将校は、部下の前では、部下と同じ労役には従事できないということでしょう。
(ジュネーブ協定に規定があるから、というのはむしろ論理が逆で、ジュネーブ協定の規定は、その精神を体現するものと理解すべきだと、評論子は思います)
そういうニコルソン大佐の矜持を描く作品ということでは、「午前十時の映画祭」のラインナップに加わるにも十二分に値する、佳作としての評価が適切な一本だと、評論子は思います。
不朽の名作
いやはや傑作ですね
午前10時の映画祭で
ドクトル・ジバゴがあまりに良かったので、
観るつもりのなかった本作を観ました。
まぁラストはあまりに有名でオチは分かってましたが実際観てみるとウワッこんなストーリーだったの!?とハラハラドキドキの連続でした。アレック・ギネス演じる英軍のニコルソン大佐とウィリアム・ホールデン演じる米軍のシアーズが別々の行動しながら最後のクライマックスでの見せ場が凄いなぁ。
ロケで本当の橋が出来るなんて・・・そこに列車が走るだけでも感動ものです。
午前10時の映画祭でデビッド・リーン超大作3部作の締め括りとして、これが観れた事は喜ばしいかぎりです。
アレック・ギネスの素晴らしさも堪能できました。(それまでSWの人という印象が強かったが・・・)個人的に彼の主演作「レイズ・ザ・タイタニック」をスクリーンで観てみたいです。
戦争映画によくある敵国の大将は悪役として描かれず早川雪舟演じる斎藤大佐は人間的に重みのある演技でした。
途中、日本兵がジャック・ホーキンス演ずるウォーデン少佐に刺殺され残った遺品が悲しかったです。日英合作でもないのに配慮が行き届いてるというか、やはり反戦映画なんですね。
戦争に英雄はいない
名作を初めて見ました。
このような作品を鑑賞でき、大変感謝です。
登場人物ではアレック・ギネス演じるニコルソン大佐に気を惹かれました。イギリス陸軍の大佐として誇りを持ち、規律と法を重んじ、捕虜となった部下に目標を与えて活かすために日本軍の橋の建設に協力する姿は、一本筋が通った行動に思えます。
橋が完成し、早川雪洲演じる捕虜収容所長・斎藤大佐に、ニコルソン大佐は自分の半生を話し、橋を見る。
この橋こそが、ニコルソン大佐が海外駐留した軍属生活の中で唯一、形になったもの。自分と部下が成し遂げた後世に残る資産である。感慨深く、誇らしいものだったことでしょう。
終盤、ウィリアム・ホールデン演じるシアーズ中佐などの破壊工作隊が現れたとき、ニコルソン大佐は橋を守ることを優先し、味方であるはずの破壊工作隊に敵対してしまいました。連合国から見れば裏切り、しかしニコルソン大佐にとっては部下の傷病兵を移送するためにも重要な鉄道であったのでしょう。
ニコルソン大佐は人道と、橋を作った誇りを優先したように思えます。
結末として主要人物がほとんど失われ、橋も壊してしまった。只々虚しい結果に、報われなかった登場人物たちの無念を偲びます。
不朽の名作、強烈な反戦映画
ただただ虚しい
午前十時の映画祭にて鑑賞。
クワイ河マーチが流れると私の脳内でサル、ゴリラチンパンジー🎵と変換されるので弱りました。
初めて鑑賞しましたが、一言で言うと戦争の虚しさを痛烈に感じる作品でした。
イギリス人捕虜ニコルソン大佐が誇りをかけて懸命に建設した橋をイギリス軍の316部隊が爆破しようとする矛盾。
せっかく脱走に成功したシアーズ中佐が316部隊に半ば強制的に参加させられ再び現地に戻る虚しさ。そして銃弾に倒れてしまう悲しさ。
ニコルソン大佐に結構肩入れして見てしまいましたが、結局彼も同じイギリス人ウォーデンの砲撃を受けて倒れ、倒れ込んだ瞬間に橋の爆破スイッチを入れることになり丁度通りかかった列車もろとも苦労して建設した橋が爆破されてしまうラストはただただやるせない結末でした。
ただ、日本軍を利する橋の建設にイギリス人捕虜があれだけ一生懸命に働くだろうか、と疑問を感じました。逆に最初はさぼり放題だし、日本軍の厳しいイメージがあれっという感じがしました。ジュネーブ協定を盾に労役を拒むニコルソン大佐なんか真っ先に銃殺されそうな予感がしましたが、意外と人間的な斉藤大佐の対応で正直ほっとしました。あと、斉藤大佐を演じる早川雪洲さんの流暢な英語には驚かされました。
生き様。それを阻む壁。
戦争映画として紹介される。
監督・制作者の意図としては、反戦映画なのだろう。
でも、私には、そんな範疇を越えて、現代にも通じるテーマを描いた映画だと思う。
だからこそ、今なお、人の心を揺さぶり続けるのであろう。
原作未読。
「史実と違う」とコメントされるが、そもそも、原作が、作者の体験を基にしたフィクションと聞く。捕虜収容所・鉄道工事に舞台を借りた、フィクション映画なのだろう。
捕虜収容所。『戦場のメリークリスマス』と被る。
日本将校とイギリス将校。ハラ軍曹の立ち位置に当たる方もいる。日本軍と捕虜たちの間をつなごうと動くMr.ローレンスは、この映画では軍医か。
だが、話は全く違う方向に進んでいく。
「日本軍の描写が変」と言うコメントもある。だが、『戦メリ』に比べたらまとも。『戦メリ』が異常すぎるのか。
前半、日本人・イギリス人・アメリカ人の人物描写が、ある程度ステレオタイプに見えており、イギリスのやり方を称える映画なのかとも見える。
「喜んで働け」と努力すること、罰することで人を動かそうとする齋藤大佐。
”負けた”イギリス軍より、”勝った”日本軍を優位に立たせ、力による支配。ブラック企業とは違い、休みを取ることも必要と、要所要所で、飴を差し出すが、見え見えなので、あまり効いていない。適材適所などは考えず、ひたすら無私の勤労を要求する。そして、思うように進まないと、改善策を練ることもせず、労働力を増やすこと、そして部下にキレまくる。
まるで、現代にもいる上司を見ているようだ。
逃げずに、陣頭指揮を取ろうとするところはまだましか。
「お茶」「お茶」「お茶」と伝言ゲームが始まるシーンはギャグのようだが、実際に会社でも同じことが行われている。会社内だけではなくて、中請け、下請けへと仕事が下りるということもある。
問題や苦難に出会った時、何かを成し遂げなければいけない時、「頑張れ、頑張れ」という精神論でやりぬこうとするのは、今でも、会社だけではない。学校でも、子育てでも。趣味のはずの部活や習い事でも行われていることである。
それに反発するのはニコルスン大佐。
秩序が肝。将校会議には、シアーズも招き入れる。イギリス人だけで固まり、他を排すなんてことはしない。
ニコルスン大佐にとって、捕虜になったのは”負けた”からではない。命じられた”降伏”に従っただけだという確信のもとに動いている。つまり、捕虜として働くことは、上からの命令に従っていることになる。脱走も、命じられた”降伏”に従わないことになるから駄目だという論理。
齋藤大佐に屈することは、今度こそ、”負けた”ことになる。決して、屈することのできない戦い。それは、隊全体にとっても、同じ意味を持つのではなかろうか。
そして、齋藤大佐が折れた後は、橋づくりという”仕事”にまい進する。私には、ここでニコルスン大佐が、日本軍相手に戦争をしているように見えた。日本軍ができないことをイギリス軍が成し遂げる事=イギリス軍にとっての勝利。しかも、その橋は後世に残る物。
働かせ方が、齋藤大佐と対照的。適材適所。各人に”誇り”を持たせ、食事等の待遇を上げ、鼓舞する。仕事が納期に間に合わないとなれば、最初の主張を曲げて、将校や怪我人も働かせる柔軟さ。けれど、齋藤大佐のような問答無用の命令でも、叱咤激励でもない。協力を求める”相談”という形をとっている。ニコルスン大佐の言動を見ている彼らは、勿論喜んで応じる。
まるで、組織でいかに人を動かすかの教科書のようだ。
そこに、自由奔放なアメリカ人シアーズ。
「人間らしく生きることが一番大切なのに」という信条。生き残るためには、階級詐称、なりすまし、賄賂…、何でもやる。
その自由さ・機敏さが齋藤大佐やニコルスン大佐との対比で、生き様を考えさせてくれる。
軍医はどこの国の方か?
ちょっと違う視点で彼らを見ている。
前半は、齋藤大佐とニコルスン大佐の攻防。
後半は、橋の建設は間に合うのかというミッションと爆破ミッション。それらが入り交じり、話が進んでいく。
ここで出てくるウォーデン少佐はイギリス軍所属。
任務遂行のためなら、シアーズに、アメリカに送還(軍法会議)と円満退職をチラつかせ、協力を迫る狡猾さ。でも、経験浅い若者への配慮もあり、頼もしい上司に見える
役者がすごい。
筆頭はやはり、ニコルスン大佐を演じられたギネス氏であろう。”オーブン”から出た後の、つま先立ち。支えられてもまともに歩けず、下り坂では、支えている人も早足になるくらいに転げ落ちる。だのに、齋藤大佐に会う時には、ダチョウのような歩き方だが、一人で階段を登る。その時の表情・佇まい。齋藤大佐が”恩赦”と言うことにして折れた場面では、その言葉を聞き、衣服を整える。そして、ラストの表情。
そんなニコルスン大佐に対する齋藤大佐を演じられた早川氏。橋が完成して嬉しいはずなのに、最初の勢いと違うその微妙な表情。
映像がすごい。
ハゲタカ、蝙蝠。丘陵にそって動く娘たち。
殺された日本兵の横には、恋人?妻?の写真と、数珠?ロザリオ?。日本兵だって、同じ人間なんだよと言わんばかりに。こういう小さな映像に、監督の反戦意識を感じてしまう。
映画はラスト、それぞれの生き様をひっくり返して終わる。
オチはなんとなく想像つくのだが、そこに至る脚本・演出がこう来るかと唖然。
ちょっと距離をとっていた軍医が「madness」と連呼するほどのシチュエーション。
達成感を感じても良いのに、そこに流れるのは理不尽さと虚無感。
その、ドラマが起こった現場を遠景に映してエンド。
人の生き様なんて、地球から見たら些細なこととでも言わんばかりに。
なんという映画なんだ。
自分の生き様まで巻き込んで、忘れえぬものになる。
★ ★ ★ ★ ★
早川雪舟氏。
真田広之氏の快進撃がにぎわしているが、第2次世界大戦以前に、ハリウッドで主役映画を作られる役者がいたとは。
ホールデン氏との逸話もすごい。ハンフリー・ボガート氏も早川氏との共演を望んで自ら動いたとか。実現していたらどんな映画になったのだろう。
★ ★ ★ ★ ★
≪以下、ネタバレ≫
ニコルスン大佐と齋藤大佐の友情物語という評もある。
でも、私にはそれは感じられなかった。確かに協力関係にはなっていただろうが。
橋の完成間近。ニコルスン大佐が仕切るだけで、添え物になっている齋藤大佐。任務として橋を完成させなければいけない齋藤大佐。恩赦を与えた後に人知れずむせび泣く。全面協力=全面降伏状態。自分とは違うやり方で、自分にはできないことを成し遂げるニコルスン大佐。その様子を見て取り入れようとするシーンはない。ニコルスン大佐の功績に対して、負傷者を汽車で運ぶ等の労いはするものの。打ち上げをよそに、頭を丸め、髪の毛を手紙に添え、懐刀を忍ばせる。すべてが終わった後、自刃するのかと思った。橋が完成しているのに、喜んだ表情どころか、暗い表情でもあったし。大日本帝国の信じていたやり方が通じなかった。アイデンティティの崩壊。
ニコルスン大佐。完成した橋の上で、齋藤大佐への語り。何を成し遂げたのかと人生を振り返る。友情を感じた齋藤大佐にと言うより、隊を率いる同じ立場の人物へ漏らした本音のように感じられた。
だが、そんなニコルスン大佐の”成し遂げたもの”は、同じイギリス軍によって破壊ミッションが進められている。軍の命令に従って、捕虜となる恥辱を受け入れざるを得なかったニコルスン大佐。それが、また、軍の命令によって、破壊される。自分が守り通した論理で、自分の大切なものが破壊される。これも、アイデンティティの崩壊。
脱走に失敗し溺死したと思っていたシアーズ。黄泉の国からの使者か?ニコルスン大佐が「人生の終わりに近づいている」と言っていたことの呼応(シャークスピア?!)。
ここで、爆破のスイッチを押すのは、シアーズでも、ジョイスでもない。ショックを受け、死にゆくニコルスン大佐が倒れこんで押してしまう。ニコルスン大佐が作ったものをニコルスン大佐が破壊する!なんという皮肉!なんという脚本!なんという演出!
現代の仕事でも、一生懸命に仕上げた仕事が、会社の方針転換等で、なかったことになることはよくあること。それが、一生をかけた仕事なら…。
部下や軍医からも指摘はされていた。だが、ニコルスン大佐は、自分の部隊をまとめあげ、日本軍を見返すこと、後世に残る物を作ることで精一杯になってしまったのだろう。将軍たちのように大局を見て作戦を立てるのではなく、与えられたミッションを遂行することがすべて。
大局を見て上司に進言しても通らず、結局与えられた仕事をするしかないときもある。そんな、自分にも重なって、身につまされた。
シアーズも、自分の生き方を貫けなかった一人。要領よくやっていたのに。
結局ばれて、半ば強制的に、戻りたくもない任務に組み入れられる。断れば、なりすましと階級詐称で軍法会議にかけられることは必須であろう。
逃げることばかり考えていたが、実際に橋と日本兵を見れば、収容所での様々な思いが募り…。齋藤大佐に反抗していたと思っていたニコルスン大佐の言動に驚愕し。
ウォーデン少佐は、援護射撃ではなく、任務のために仲間を殺してしまう。頼もしい上司像が一変。アイデンティティの崩壊。
職場や、社会を見渡せば、今も起こっている現象。
現代でも行われている、齋藤大佐のような教育・指導。
人が育つわけがない。
その反省か、最近は二コルスン大佐のような指導をする上司や教師も増えてきた。
だが、報われぬことが多い。
自由な生き方を選択する人も出てきた。
だが、そうそう社会はその自由さを許してはくれない。シアーズのように引き戻される。
自分らしく生きる事を追求しようとするが、
それを阻む状況。
成しえたとしても、ウォーデン少佐のように何かを犠牲にしなければならない。
なんという、やりきれない世の中なのだ。
引きこもり、鬱、自死が増えているのもわかる気がする。
シアーズのように、ズルして生きることばかりを考える輩も増えてきている。
それでも、
こんな重いテーマの映画に、軽快に響く『クワイ河マーチ』。
橋爆発の前に渡り終えた、この橋建設を成し遂げた、ニコルスン大佐の隊の人々は、ニコルスン大佐の願い通りに、誇りをもって生きていけるのだろうと。それを表現しているのだと思いたい。
ラスト、誰が満足したの?
午前十時の映画祭14にて鑑賞。
第2次世界大戦中の1943年、ビルマとタイの国境付近にある捕虜収容所で捕虜となっていたイギリス人兵士を使ってクワイ河へ橋を造ろうとする日本軍。捕虜のイギリス人将校と日本軍人たちの対立や交流を描いた作品。
名作らしいが、響かなかった。
ジュネーブ条約で将校は労働しなくて良い?捕虜になっても働かないって事?ピンと来なかった。
シンガポールからビルマのラングーンまで鉄道を敷こうとしていた日本軍に対し、英領インドへの影響を考えて反発したかったのはわかるが、せっかく自分たちで苦労して作った橋を爆破して満足だったのだろうか?
戦争って誰も幸せにならない、と言うメッセージなのかなぁ。
斉藤大佐役の早川雪洲の英語は流石だった。
それと、クワイ河マーチは印象的だった。
映画作品としては素晴らしく面白いが主人公たちの言動は、今となっては理解しかねるところもある。
この作品の数年後に制作された「大脱走」と比較してみると面白い。「大脱走」でドイツ軍収容所に収容されているイギリス軍の指揮官ラムゼイ大佐は捕虜になった将兵は脱走が義務であるとする。一方、本作のニコルソン大佐は脱走を否定して規律正しい労務提供を望む。この差はどこから生じるのか。「大脱走」における英軍の相手はヨーロッパの近代国家であり戦争も一定ルールにおけるゲームである。本作における相手は野蛮な未開国であり同じゲームテーブルにつくことはできない。指揮官かジュネーブ協約を平然と破り捨てる国である。脱走よりもむしろ橋梁設計、建築技術における能力差、規律正しい労務管理の違いを見せつけることにより英国人、英国軍の誇りを保持し続けることが戦争で優位にたつことと等しいと判断したのであろう。
早川雪洲演じる斎藤大佐以外の日本兵の描写、そして斎藤大佐の人物設計でさえ確かに悪意と偏見は見て取れる(あんな変な掛け軸のある床の間を司令官室に設ける日本人将校はいない)
ただし残念ながらこのあとのビルマ戦線やインパール作戦の経過を鑑みる限りでは一面の真実ではあったのかなと思う。
デビッド・リーンという人は、文明と、戦争や革命の対立、政治と個人の対立を常に描いた人である。ロレンスもジバゴもそう。そして個人が戦うために、あるいは運命に逆らうために必要な資質としてヒューマニズムを常に掲げていた。例えば本作でニコルソン大佐が重んじる「Principle」とは詰めて定義づければヒューマニズムのことになるのだと思う。
でも、そのヒューマニズムを表現するために、東洋(日本)やアラブやロシアといった遅れた人々(と彼が考えていた)との比較を意図的に用いたと私は思っている。これは差別的であり今の基準では認められない。異文化への愛情や共鳴というものが全く感じられないのである。
今回久しぶりに観た本作を観て感じたことをそのまま書きました。
余談だが、今回、午前十時の映画祭で使われたフィルムだが映像はもちろんデジタル化されているものの字幕は昔のままだった。今日出海。作家の今東光の兄で初代文化庁長官。今の人は誰も知らないだろうけど。いい訳です。
戦争の愚かさを描く壮大な寓話の傑作! 原作者は「猿の惑星」の作者! 日本軍人にも敬意をはらい「人」として描いているのもまた素晴らしい なお、セッシュウといえば…
第二次大戦下、タイ、ビルマ国境の日本軍捕虜収容所を舞台にした壮大な風刺人間ドラマ。
原作は、フランスの小説家ピエール・ブールは、何とあの「猿の惑星」の作者でもあります!!
厳しく捕虜を扱いながらも、その捕虜の英国人将校に理詰めで説得されてしまい、人知れず涙する日本人。
捕虜であり、敵軍の施設であるにもかかわらず、軍人としての規律を保つため、人としての尊厳も保つため、後世に残るほど立派な橋をかけようとする英国軍将校。
病院でも女性と付き合い、臨機応変に対応するも、使命は最後まで真っ当しようとする米国人。
誰しもが考える典型的な日本人、英国人、米国人、それぞれの性格を見事に表現し、アンサンブルを形作る物語の妙。
せっかく作った橋が、完成し初めて汽車が走るその時に、自らの手で破壊しなくてはならない理不尽さ。
1957年製作と聞いて驚いた。
この実にシニカルな展開と結末!
今観ても、全く古くない!!
いや、時代に関係なく、こんな話が他にあるでしょうか!
しかも、日本人にも偏見が全く無く、敬意すら持ちつつ、正確に描かれてる。
カルカチュアやデフォルメがない。
ちゃんとした発音の日本語を話しているのにも驚いた。
余談ですが、映画や舞台で使う「箱馬」のことを「セッシュウ」と業界用語で呼ぶそう。
語源は、本作出演の日本人俳優が外国人俳優(アメリカから見Ýたら逆ですが)と並んだとき、背が釣り合うように箱馬に乗っていたということから。
本作の冒頭、捕虜を前に演説するシーンで、いきなり箱馬に乗る早川雪舟のシーンがあって、思わずニヤリとしました!
在タイ日本人として
午前十時の映画祭にて鑑賞。
タイに住んで10年、映画の舞台となるクウェー川の鉄橋、泰緬鉄道最大の難所で多くの犠牲者を出したヘルファイアパス、記念博物館へも何度も足を運びました。
今でこそ観光用に整備されていますが、少し足を踏み入れればまさにジャングルで、泰緬鉄道の車窓から眺める実に自然豊かな景色を前に、よくぞこんな場所に鉄道を通そうと思ったものだと言える場所です。
劇中で完成目標とされていた5月は1年で最も暑い時期で、体感温度50℃を超える中での労働は、映像以上に過酷なものだっただろうと想像に難くありません。
本作では日本人とイギリス人捕虜との交流も描かれており、映画化にあたって日本軍の描き方には相当な配慮があったのではとも思います。
捕虜となった人々の家族や子孫が今でも強い感情とともに現地へ追悼に訪れており、記念館の展示も開発に使われた道具や写真などとともに辛い記憶として残されています。
また本作で有名になったこともあり、捕虜として従事した西洋人にクローズアップされがちですが、現地タイ人の死傷者数の方が甚大でした。
日本の戦争映画では日本の被害を描くことが多いですが、このようなことにも目を背けずにいられたらと改めて感じました。
1つの映画作品としての評価としては、やはり名作と言われるだけのことはあり、細かな感情の動きや葛藤がよく描かれており、思わず息を潜めてハラハラと見守ってしまうシーンの連続で、良い意味で気の抜けない鑑賞体験となりました。
また、生きることやその意味、戦争の是非など、考えさせられることも多く、大きなテーマを問いかけられたような心持ちです。
色褪せることのない作品として、これからも多くの人に長く愛され、考えるキッカケになってほしいと願っています。
午前十時の映画祭で鑑賞
午前十時の映画祭で鑑賞。クワイ河マーチは有名なのでよく覚えていますが、テレビを含めても初鑑賞。
日本軍の斎藤大佐、英軍のニコルソン大佐、米軍のシアーズ中佐が主要人物だが、人生において何を優先するかは三者三様。
斎藤大佐を見ていると、「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という言葉を思い出した。
上からの命令は絶対であり、成し遂げられなかった場合は死をもって償う。非合理的な考え方のため橋の建設が上手く行かない。自ら指揮をするも失敗してしまい、英軍に任せざるを得なくなり苦悩する。
大英帝国軍人のニコルソン大佐は名誉、規律、規則を何よりも優先し、命を懸けても妥協しない。敵である日本に貢献することになることより、部下を心身ともに健康な状態にすることをまずは優先する。いつしか戦争していることを忘れ、橋を造ることに情熱を燃やし過ぎてしまう。
アメリカ人のシアーズ中佐は生きることが第一優先。また、楽しんでこそ生きる意味があるという考え。大英帝国の豊かな富を象徴するような広大な基地で看護師と戯れる姿は、とても戦争中とは思えない・・・
最後、橋に迫っていたのは日本軍の要人を乗せた列車ではなく、捕虜移送のための列車だったという展開になるのかなと思っていたが、そうではなかったんですかね。生き残ったウォーデン少佐の自己正当化の言葉は、誰に向けたものなのかよく分からなかった。
アカデミー賞で作品賞を獲得したのは納得。とても面白かったです。
結局職場は人間関係
全55件中、1~20件目を表示