戦艦ポチョムキンのレビュー・感想・評価
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緊張の連続
入りから速いリズムの曲が流れ息苦しさを感じる。時折混じる金管楽器の音で感覚が鋭敏になっている自分に気付く。時折映る顔のアップにドキリとさせられる。
そうした中で3つの大きな緊張のピークがやって来る。一つ目はポチョムキン号の甲板で護衛隊が銃を構えるシーン、二つ目はオデーサの階段での虐殺シーン、そして最後は艦隊との遭遇シーン。後に行く程緊張の波は大きくなるように作られている。それぞれのシーンの見せ方、音の使い方のバラエティが凄い。
特にオデーサの階段のシーンでは、逃げ惑う市民の中に様々なドラマが織り込まれる。そして機械のように発砲の合図を出す指揮官と操り人形の様な兵隊達が、女子供関係なく淡々と殺していく。兵隊だって軍服を脱げば子であり親であり夫であろうに…。
迂闊にもポチョムキン号の護衛隊のようなシーンを期待してしまった自分の能天気さを恥じずにいられない。
一時間ほどの作品だが、緊張の連続でどっと疲れた。
つくり手の意気込みも感じられる
もちろん評論子自身、歴史問題に詳しいわけではありませんけれども。
戦艦ポチョムキン号艦上での乗組員の叛乱と、引き続くオデッサ階段でのロシア政府軍による蜂起民衆の虐殺事件という、ロシア革命の発端となったとされている事件をを描く一本とのことです。本作は。
不衛生な食材(腐敗しかかった肉)が乗組員の叛乱の契機となったことは、評論子にも容易に納得ができました。
航海中でも非番のときにはネット配信で映画を楽しむことのできる令和のこの世の中とは違い、当時の航海中の楽しみは食事くらいなもの。
その食材が問題とあれば、乗組員の不満が爆発することに、何の不思議も無かろうと思うからです。
艦上では乗組員の蜂起に対抗できるのは、員数の限られた士官のみ。
艦上では、蜂起部隊は容易に実権を掌握することができたことでしょう。
しかし、武力を容易に補充して投入できる陸(おか=陸上)では、そうは問屋が卸さなかったようで、オデッサ階段での民衆の蜂起は、容易に政府軍に鎮圧されてしまう―。
しかし、その悲劇が、民衆の心に火を点け、かえって革命の、いわば「起爆剤」となってしまったことも、容易に推察されるところです。
「無声映画」というと、コマとコマとの間にセリフのカットが入る、あのスタイルを思い起こしがちですけれども。
本作は音楽が効果的に使われて、いわゆるモンタージュ効果(?)で、ブツブツ切られることなくストーリーを追える作品に仕上がっていたと思います。
佳作の評価に充分に値するものと思います。評価子は。
(追記)
もちろん、この時代の製作ですから、モノクロ映画なのですけれども。
しかし、ラストシーン近くの赤旗が風に靡(なび)くシーンでは、旗に細工がしてあり、赤色に着色されています。
この頃、もちろんCGなどで着色の技術はなかったはずですから、おそらくは、一コマ一コマ手作業で、フイルムに細工したものと思われます(風に靡(なび)く旗と着色とが重ならず、少しくズレている様子が見て取れる)。
その根気強さに、製作者の本作に懸ける「意気込み」「思い入れ」を感じたのは、独り評論子だけではなかったかと思います。
(追々記)
評論子の住む近隣の市で、新しく映画サークルができるということで開かれた、その「旗揚げ上映会」で鑑賞した作品になります。
映画は、もちろん観ることも大事ですけれども、それに劣らず、自分なりの評を聞かせ合うことも大事と思います。
(その意味では、この映画COMのようなサイトも有用と、評論子は思う。)
旗揚げ上映に本作を選んだことに敬意を表するとともに、生まれたてホヤホヤのこのサークルが、会員諸氏の熱意で、長く活動することを衷心から祈念いたします。
やっぱり、ショスタコーヴィッチ!だよな〜
初めて「マイゼル版」というヤツを観たが…
なんで「ショスタコーヴィッチ版」で上映しなかったかね〜
単純にマイゼル版がショスタコーヴィチ版より画質が優れているから?
というか、今となっては、ショスタコーヴィチ版の劇場上映自体が、そもそも現状ムリ?
確かに画質は間違いなく改善されてはいるし、
エイゼンシュテイン本人もマイゼルのスコアが伴奏音楽として優れていると認めていたらしいが…
実際、劇伴としては上手く出来てるし、最初にコチラの方で観ていたら、特に文句もなかったかもしれない。
しかし、一度でもショスタコーヴィチ版で観てしまった以上…
もうアレ以外は有り得なくない?
どうよ?違う?
要するに、アノまるでショスタコーヴィッチのPVのようだった鮮烈なカッコよさからは惜しくも遠く外れているのである。
映画における「音楽の重要性」改めて深く実感してしまった。
赤旗の彩色も無粋だよ。
ホント、センスねえなぁ。
『ショスタコーヴィチ交響曲第5番 革命』の為の映画
ウクライナとの関係を考えて見よう。
モンタージュされた場面を単純に繋げて見ると面白い事が分かる。
帝政ロシアはロシア人。それは正教会の神父らしき人物が出てくる。
主人公ワクリンチュクはユダヤ人それは十字架をもろともせずに挑む姿で分かる。
オデッサの貧困層の市民はユダヤ人。それは『ユダヤ人め!』と口走るブルジョア風の男に、周りの市民が怒りだす。さて、同じユダヤ人が押しかけるオデッサの階段に、ウクライナ人のコサックが発砲をする。つまり、虐殺って事だ。
映画を素直に読み取ると、ユダヤの民をロシア、ウクライナが寄ってたかって虐殺しまくるって事なのだ。
では、事の真相は?コサックをウクライナ系ロシア人と見る以外は、全部の民族が入り混じっていると言う事。つまり、侵略戦争では無く、階級闘争と言う事だ。それは、映画の最初にレーニンの言葉で分かる。
しかし、プーチンの理論は、この映画が発端の様に思う。つまり、ウクライナ系ウクライナ人に対して『ナチス!』と言っている根拠。そして、ゼレンスキー大統領がロシア語しか喋れないユダヤ系ウクライナ人と言う事が問題を更に難しくしている。
レーニンもスターリンもフルシチョフもロシア系ソ連人ではないと言う事も理解しておくべきだ。
更に当のエイゼンシュタインはユダヤ系ソ連人。正教会をないがしろに出来る訳である。高校2年の時、ソ連を賛美する世界史の教師から見に行くように進められて、どこかで見た記憶があるが『プロバガンダ映画じゃん』って思った。改めて見ると階段落ちや虐殺場面は迫力がある。
また、あとから足されたのか『ショスタコーヴィチ交響曲第5番 革命』の為の映画のような気がした。
個人的に来週オーケストラでその演奏を聞きに行く。楽しみ♥
以下 6月4日 かつしかシンフォニーヒルズにて
『ショスタコーヴィチ交響曲第5番 革命』の感想
『革命』はショスタコーヴィチが、エイゼンシュタインのこの映画を見て、作曲したと仮設を立てたい。妙に絵と音楽があっている。さて、
アンコールで『チャイコフスキー』の『アンダンテ・カンタービレ』をマイストロ自らが、バイオリンを奏でた。大変に異例でもあり、言うに及ばず、素晴らしい演奏だった。ブラビー!♥
でも、この映画は!この音楽が作曲される前の映画なんだよね。
ティパージュとモンタージュで表現された映像の迫力と緊迫感の凄さ
世界映画史上に不滅の名声を博するセルゲイ・エイゼンシュテインの最高傑作と称えられ、実際1958年のブリュッセル万国博覧会で選出された世界映画史上のベスト12では、チャールズ・チャップリンの「黄金狂時代」を抑えてベストワンの名誉に輝いている。1926年公開から2年間に38ヵ国で上映され大きな反響を巻き起こした実績を残したが、残念にも日本では戦後の1967年にATGによって漸く公開された。社会も映画の表現法も変わったこの40年の歳月は、新作と古い名画を同列で評価させることを困難にさせる。荻昌弘、南部圭之助、双葉十三郎、淀川長治諸氏は、別格扱いで無票としている影響か、キネマ旬報のベストテンでは13位に止まる。前年に第2位の高評価を受けた「市民ケーン」とは差が出た結果になってしまった。
個人的には、モンタージュの映画的迫力を最大限に表現した”オデッサの階段”が全ての映画作品である。共産主義国家の下での革命映画の制作に於いて、個人ではなく集団を主人公にしたティパージュを提唱したエイゼンシュテインのモンタージュ理論の完成形にただ圧倒される。数少ないサイレント映画の鑑賞で、このような編集優位の演出に感銘を受けたのは、他にカール・T・ドライヤーの「裁かるゝジャンヌ」くらいである。
感動的なラスト(もう失われた)
「ストライキ」と比べるとストーリーもすっきりわかりやすくて映画的に楽しめる。戦艦内での反乱とかいきなり撃たれる一般市民とか時代が違いすぎるけど、一方でラストの「連帯」こそがもう夢見ることすらできない時代になってしまったんだなあとしみじみした。
60年代、70年代はソ連映画をみて胸を熱くした日本の人たちがいたんだろうな。
モノクロ映画時代にありがちなのんびりムードではなく、テンポも早くて小気味いい。しわしわのおばあさんの顔とかそれぞれの表情が良い。
群衆シーンではエキストラもたくさんいてかなり力を入れて作った様子。
淀川長治氏が黄金狂時代と同格の傑作と表するに納得
映画のクラシックということと、故・淀川長治氏がチャールズ・チャップリンの黄金狂時代と並ぶツートップの作品として挙げられていたので、今回観た。観た感想は、矢張り傑作だと思った。淀川氏が偶然にもツートップに挙げた作品が共にサイレント映画であることが指し示すように、まず映画はセリフよりも、映像と音楽が第一なのだという感慨を持った。何よりも監督のエイゼンシュテインの演出が秀逸である。作品全編を通しての徹底したリアリズム。登場人物達の豊かな顔の表情と、音楽と見事なまでに合致した動きには驚かされた。そしてこの映画は、当時のソ連のプロパガンダ作品という要素を超えて、淀川氏の主張する映画魂の宿った作品である。是非一度大勢の人に鑑賞して欲しい名作である。
淀川長治さんのお勧め
淀川長治さんが最も素晴らしい作品としてこの作品を挙げていたので観た。
当然ながらオデッサの階段での大虐殺の場面が印象的で、逃げ惑う大衆、階段を落ちていく乳母車、群衆の叫びが頭から離れない。このシーンのオマージュは多くの作品にあるらしいが、今後それらがどのようにして使われているのかを観るのが楽しみでもある。
案外素人を多く起用したというのが通常の映画には出せないような「群衆」の感じを出せているようにも感じた。
これが映画なのです
なんともまぁ、噂に違わぬ傑作でした。映画の興奮って、こういうことなんだと有無を言わさぬモンタージュで迫ってきました。
同じモンタージュでいうと、グリフィス・モンタージュというのがあるそうですが、グリフィスの『イントレランス』の最後に勝るとも劣らない映画的興奮がここにはありましたね。
昔の映画って、たとえ名作と呼ばれていても、今見ると乗り切れないことって多々あると思いますが、この映画はそんな、やわな代物じゃありませんでした。正真正銘の映画でした。
タイトルからしてインパクト感あり
(幾度か観てるはずですが、記憶があいまいで、語るには及ばないのですが、)知っている人は十分承知の歴史的映画、でもなおかつ、自分の覚書と未見のかたへのお薦めとして、書かせていただきました。
昔は、ミニシアターなどでいつでも観れたのですが、今はどうなんでしょうね。
音の無い叫び
これぞ、映画史上に燦然と輝く、サイレント作品の最高傑作。当時、若干27歳のエイゼンシュテイン監督が、独自のモンダージュ理論を実践した不屈の名作である。1905年6月に本当に起きたポチョムキン号の反乱を描いたものである。1905年という年は、このポチョムキンの事件をきっかけに、社会主義革命へとなだれ込む、ロシアの歴史の中でも大切な年だった。そんな歴史的大事件を、エイゼンシュテイン監督は、リアルに作り上げた。物語は前半のポチョムキン内部の反乱と、後半のオデッサ階段の大虐殺シーンと大きく2つに分かれている。上司のイジメに耐える水兵たちの怒りの表情が印象的な前半と、何より虐殺により死んでいく弱き者達の「叫び」が魂に響く1作だ。「叫び」・・・この作品を一言で形容するならこれしかない。サイレント映画でありながら、画面からにじみでる人々の悲痛な「叫び」の迫力には同調とか感動とかそんな生ぬるい感覚をあたえない。むしろあまりの激しさに、こちらの精神は麻痺して、呆然としてしまう。それほどまで直接見ている我々の魂をゆさぶるのである。展開がゆっくりなのが通常ののサイレント映画(ドラマ)だが、モンタージュ効果を駆使し、迫力かつスピーディーに展開され、見るものをひきつけて行く。群集の心理が、くるくる変わる画面で描写されるあたりは特筆に値する。そして、やはり語るべきはオデッサ階段のシーンだろう。『アンタッチャブル』でもオマージュを捧げられた、有名な乳母車のシーンも素晴らしいが、私が特に衝撃をうけたのは、息子を殺された母親が、逃げ惑い、階段を駆け下りる群集の中で、ひとり“上へと登って行く”シーンである。子供を殺された母の苦しみ。「どうか撃たないで!」。母の願いや人々の叫びもむなしく大量虐殺は続く。人々の「叫び」のアップを撮り続けるカメラは、貧しい人々の服の穴をも映し出す。その冷酷までにリアルな描写。心に焼きつく強烈なインパクト。エイゼンシュテイン監督の描いたのは、寸分ももらさない“事実”そのものなのだ。やがて虐殺も終焉をむかえ、民衆の勝利がやってくる。モノクロの画面で、唯一、真紅の自由の旗が翻る。ニクイ演出である。サイレント映画を1本だけ見るとしたら、それはこの作品以外にありえない。迷うことなく見て欲しい、「叫び」の作品を・・・。
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