セルロイド・クローゼットのレビュー・感想・評価
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ハリウッドにおけるクィア描写の歴史
世界中で多様性が叫ばれる昨今、ぶっちゃけ2025年現在において、特に孤島の日本で生きる若者にはLGBTQも人種も元よりアメリカほどの切実さで差別する感覚を持たない人が多いと思われるけれど、だからこそ現実問題は勿論、映画においてはコメディや脅威、悲劇が待つ哀れみの役として枠付けられてきた性的マイノリティの差別の歴史は、今後同じ事が起きないために観念レベルの前提としてすべての人に共通認識があらねばならない文脈であろう。
しかし同時に、どちらかといえばヘテロ嗜好への偏りがあって日々平穏にぬくぬく生活している私にとっては、良くも悪くも楽観的というか、文化や宗教、人種、性的嗜好ほか多様なアイデンティティや相容れない価値観の人々が混ざり合う欧米の陸続きの大地に生きる人々ほど、目前の重大問題として心の底から切実な理解と怒りが湧き上がらないこともまた現実であると感じた。
日本で上映される洋画に限定すると、映し出される人物の性的嗜好を認識するうえで、日本語字幕の”女っぽい“/”男っぽい“口調と人物の生物的性別の不一致が確証づける場合が多いように思われるが、本編で挙げられる作品中では、ゲイの人に対する「歩き方で直ぐにわかった」「歩き方が変だ」などの台詞が多く見受けられた。
表現が多様な日本語の特殊性を実感するのとともに、そこに翻訳家の葛藤みたいなものがあったりするのだろうか、などと想像したり、英語においても性差を判断させるような口調の違いはあるのだろうかと疑問に思った。
「セルロイド・クローゼット」というネーミングについて、閉ざされた扉を開いて直視するのではなく、確かに存在するが隠されてきた無視できないものを閉じたままの扉ごしに透かして見るというこのタイトルには、セルロイド人形を彷彿とさせる時代性(あるいは歯科関係者にはセルロイド・ストリップスを想起させるかもしれない)を感じるのと同時に、見えるのに見て見ぬふりをしたり、言うなれば扉を無理やりこじ開けて晒し笑いものにしたりというこれまでの社会およびハリウッド映画界のマイノリティに対する態度と、“暗示”で気付かれない際をせめる監督と規制する制作側の攻防という映画制作に対する向き合い方が仄めかされているようなワードセンスを感じざるを得ない。
その暗示という制作側の一貫した手法は、検閲を逃れるための反骨精神でもありながら、鑑賞者の想像を掻き立てるために台詞を敢えて使わず行間を読ませる、むしろマイノリティへの肯定的な受容とストーリーの含みとしての、映画であることを見失うことのない秘められたロマンでもあるだろう。
また、映画にはいつも自分の分身が居ると、本編中でインタビューを受ける人々は皆口を揃えて言う。だからこそ気付ける些細な感情の機微や心に響くシーンがあったり、あるいは彼らの言うように自分を重ねてしまうが故の同性愛の行為への嫌悪感が生じたりするわけだが、それは全然マイノリティな性を持つ人に限ったことでは無い。
今回はたまたまLGBTQの視点だったが、そもそも映画を観る全ての人が異なるバックグラウンドを持っており、一人一人が自分の分身を画面の何処かに見つけ、以降の人生に役立つ糧として、心の奥に収納されるのである。
本編で語られるたくさんの映画を、再度のものも含め、また新たな視点で観てみたい。
整理がつかない
隠されてきた記録、そして今につづく
映画が創られて以来、どのように同性愛が隠され
どのようにヘイズコードを乗り越えてきたか
知っていた映画から知らなかった映画まで、
実際に当時演じた役者や脚本家などが出てきて
証言しながら、解説される。
こんな貴重な映像が今まであっただろうか。
どのように同性愛という存在が映画の中で
形を変えてきたのか。
ヘイズコード中に、無知な検閲官にバレぬよう
同性愛要素を仕込んでいたのには、泣ける。
さらに、作中で同性愛者は悲劇的な運命を
辿るよう、自殺するような描き方をされることの
問題点を当事者が語る
当時を生きてきた人にどのように享受され、
どのように無視されてきたのか、それを知れる貴重な映画だ。
否定的な描き方でも、ゼロでないだけよかった。そういう関係者もいた。
しかし、映画が人に与える刷り込みは怖い。
そして今、どのように描くべきなのか、
それが試される時代と変わってきている。
どうか、もうクローゼットしないそして否定的でない描き方がされますよに。
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