「老人と少年の楽しくも危険な気球の旅。空撮への飽くなきこだわりに満ちたフランス漫遊記。」素晴らしい風船旅行 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
老人と少年の楽しくも危険な気球の旅。空撮への飽くなきこだわりに満ちたフランス漫遊記。
『赤い風船』『白い馬』の監督アルベール・ラモリスが撮った冒険旅行もの。
両短篇の続篇、もしくは両短篇の要素を核として膨らませた作品ともいうべき、集大成的な長篇に仕上がっており、上記二作品に胸を動かされた人は、ぜひご覧になることをおすすめする。
「気球による冒険旅行」といえば、まずはジュール・ヴェルヌの『気球に乗って五週間』(1863)が想起される。ヴェルヌをSF冒険小説の人気作家としてスターダムに押し上げた一作であり、後世に与えた影響も大きい。
同じヴェルヌを原作とするマイケル・アンダーソン監督の『八十日間世界一周』(1855)でも、前半戦のパリからのアルプス越え(意図に反してスペインにたどり着く)の行程で、気球による旅行シーンが登場する(ちなみに原作では汽車と船の乗り継ぎがメインで、気球に乗る場面は出てこない)。
ノートルダム寺院や古城を見下ろす空撮や、雪山の頂上をかすめて越える描写など、明らかに『素晴らしい風船旅行』の元ネタになっている部分があるし、後者にあえて闘牛が出てきたり、帆船との交流があったりするのも、『八十日間世界一周』へのオマージュかもしれない。気球に不測の事態が生じて、縄を攀じ登って上部構造にぶら下がるところとか、籠の中で楽しげに飲食するところなども、『八十日間世界一周』が一足先に映像化している。むしろ、ここの気球パートのアイディアを長篇一本分まで広げて見せたのが『素晴らしい風船旅行』ということになるだろう。
あと、『八十日間世界一周』で気球に乗るのは英国貴族と召使のコンビだが、本作ではフランス人発明家の老人と孫で、それだけでだいぶ映画のテイスト自体が変わってくるのは当然のことだ。ただし、前者の召使とほぼ似たような役回りのコミックリリーフとして、『素晴らしい風船旅行』では地上部隊のおとぼけ助手が登場する。
ちなみに、最初に挙げた『気球に乗って五週間』のほうも映画化されていて、『タワーリング・インフェルノ』や『ポセイドン・アドベンチャー』の製作者でもあるアーウィン・アレンが、1962年に『気球船探検』という映画をアメリカで監督している。すなわち、こちらは『素晴らしい風船旅行』の2年後ということになる。映画化権の獲得交渉に6年かかったというから、たぶんやる気満々で進めていたら、フランスで似たような映画が公開されてギャフンとなったに相違ない(笑)。
似たような映画でいうと、個人的に印象に残っているのが、1966年にチェコ・アニメーションの巨匠カレル・ゼマンが撮った『盗まれた飛行船』。こちらは気球ではなくて飛行船だが、5人の子供たちが試乗で乗り込んだまま舟を乗っ取って、空の冒険へと乗り出す。
ヴェルヌやメリエスを強く意識したつくりといい、子どもの持つ「空を飛ぶ夢」に直接的にコミットしている点といい、『素晴らしい風船旅行』と何気に近しい空気のある冒険映画だ。
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映画の冒頭のタイトルクレジットで、誇らしげに「ヘリヴィジョン」の文字が出る。
これは、アルベール・ラモリスが独自に開発した、「ヘリコプターの空撮に耐震装置を組み込んでブレを抑えることに成功した」システムらしい。
本作は、このヘリビジョンを駆使した「空撮」がウリの、目に楽しい映画である。
ただ、この数年後にラモリスがまさに空撮中、トルコで電線に尾翼をひっかけて墜死したことを知ったうえで鑑賞すると、なんともいえない影を感じないでもない。
空への夢と飛翔への渇望は、そのまま死と裏表の危険な賭けでもあるのだ。
出だしのセーヌ川とノートルダム大聖堂、眺めの良さそうなサン・ルイ島の高層アパート群。そこのベランダにひとり少年が立っている。
当時まだ珍しかった空撮で、さまざまな名所を「上空から」見るという趣向。
そうなんだよね、今じゃあ当たり前すぎるけど、「有名な教会の屋根を上から見る」ってだけでも、経験のない人にとっては強烈な映像体験だったんだろうな、と思う。
いっつも飛行機に乗るときに思うんだよね。
なんでみんな、窓の外の風景をまったく気にしていないんだろうって。
だってさ、江戸時代とか18世紀の西洋とか、「空から地上が見下ろせるんですよ」って言っても誰も信じなかったはずだし、もしその機会が得られるなら将軍や王様といった支配階級の皆さんは何億円だって出したはずだ。
いまの世の中で、前澤友作氏が巨額の自費を投じて宇宙旅行に行ってきたのと同じくらい、かつて「空の旅」には価値があった。
正直、今でも思う。
飛行機に乗って観にいく観光地の、紅葉とか神社仏閣とか海辺の風景の何十倍も、雲の上から見下ろす地上の風景って、本当はあり得ないような奇跡的な光景なんじゃないかと。
とくに欧州にジャンボ機で行くときに眼下に広がるシベリアの森林地帯は、ちょっと信じられないような凍てついた大森林と大河の織りなす崇高な風景で、いつも何時間でも観ていられる。
でも、他の乗客はみんな、寝てるか、映画観てるか、退屈そうにしてるんだよね(笑)。
閑話休題。
というわけで、ラモリスはこの映画に「空撮」の魅力を余すところなくつぎ込んだ。
もし今の時代に彼が生きていたら、急速に発展したドローンの技術に夢中になっていたはずだし、ドローンでの撮影であれば、いくら究極の映像を追求し続けたとしても、墜死することはなかっただろう。
逆に言えば、今のドローン全盛の「それこそなんでも撮れる」時代に、文字通り命を賭して「空撮」の面白さに挑んだ監督の作品を回顧するのは、実に意義深いことだと思う。
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映画のノリとしては、たとえば『ほら吹き男爵の冒険』だとか『ドリトル先生不思議な旅』のようにかなり戯作味が強い印象で、基本的にはスラップスティックの喜劇として描かれている。出だしの科学者たちとのやり取りもすっとぼけているし(『八十日間世界一周』にそっくり)、孫が気球に乗り込んでくる描写も気楽なものである(『カールじいさんの空飛ぶ家』の出だしはこれのオマージュでは?)。
籠にぶら下がって密航してくる孫も孫なら、じゃあ乗っていけばいいみたいな爺さんも爺さんで、このあたりの無警戒ぶりは、他のラモリス映画の主役たちとも通底するものがある。
ふたりを地上からサポートするのが弟子の青年で、車で気球を追って走り回る感じや、サイレント映画のようなドタバタぶりを披露するあたりは、ほぼ同時代の喜劇役者兼監督だったピエール・エテックス(『ヨーヨー』『大恋愛』など)の芸を想起させる。
同時に、この風船旅行自体が所詮、地上サポート班の存在なくしてはまるで成立しないあたりに、少し陰のあるリアリティを感じてもいいのかもしれない。
気球は一定の距離を移動すると、地上に降りてそのまま野営となり、食事と睡眠をとって燃料を積みなおしてから出発する。要するに、この旅行は「べつに車で3人乗りでも行ける」ところに、あえて気球で臨んでいるチャレンジなのだということだ。
老人と少年は、フランス北部の街ベテューヌの街を起点として、ストラスブール(大聖堂の尖塔越え!)やパリ(横から観察されるエッフェル塔のエレベーターや、上空から見るフランス式庭園)を経て、ロワーヌ地方(シュノンソー城を祖父が孫に紹介)、ブルターニュ地方(婚礼の真っ最中)を経て、アルプスのモンブラン越えに挑む。
途中、空撮でとらえた鳥の群れの飛翔(カモ、コウノトリ、アホウドリ、フラミンゴなど)を何度もじっくり見せてくれて、バーダーとしては実に見ごたえがある。
ラモリスの動物ドキュメンタリー的(あるいはモンド映画的)な嗜好は、他のシーンでも惜しみなく披露される。とくに猟師と猟犬に追われる鹿を誘導して助けるシーケンスは、そのまま『白い馬』での心残りを晴らすような「再話」となっている。
終盤では『白い馬』の舞台となっていたカマルグと思しき沼沢地も登場し、野生牛の群れが激走する様子がじっくり描かれ、さらには野生馬を追う牧童という『白い馬』そのままのシーンも改めて出てくる。
一方「アクション映画」としては、まずは手に汗握るアルプス越えの危機一髪が印象的だが、山火事のアオリを受けての気球爆発という大ピンチも見ごたえあり。さらにはブルターニュで、結婚式の花嫁が気球に乗ったまま飛んで行ってしまうのを止めようと四苦八苦する助手のスラップスティックも普通に面白い(かなり体を張っている)。
終盤には、少年ひとりを乗せて気球が旅立ってしまうスリリングな展開が待ち受ける。
ここでは、助手によるきわめてアクロバティックな救出作戦が展開されるが、あんまり少年のほうに危機感が感じられないのがいかにもラモリス映画らしい。
ラストシーンはある種の物寂しさもあるかもしれないが、これはこれでいいと僕は思う。
少なくとも、「あっちへ連れて行かれてしまった」『赤い風船』や『白い馬』の空恐ろしいエンディングよりは、ずいぶんと穏当であり、僕にでも受容可能なレベルに抑えられている。
『赤い風船』で空に向かってどこまでも行った視点と、『白い馬』で海に向かってどこまでも行った視点が、「行った」側から折り返され、砂洲に取り残される少年を遠目にとらえる。
少年と気球の別れ。それは、たしかに寂しい。
でも、ここで夢から覚めて現実に戻ることのほうが、きっと正解なのだ。
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●前半で、気球の錨が洗濯物をひっかけてしまい、干してあったシャツが気球まで引き上げられ、そこから宙を舞って下に落ちていくまでをじっくりと撮り続けるシーンがある。この映画のなかでも最も美しく、魅力的なショットのひとつといってもいいかもしれない。
腕を曲げ、お辞儀をし、くるりと回転しながら舞い落ちていく長袖シャツの動きは、まるで生き物のようで目が離せない。ラモリス監督も、撮ってみたら余りにキュートだったので、そのまま長尺で残したのだろう。最後はボタ山の裾野の汚泥にまみれ、モノとしての命を喪って地面に横たわるシャツ。なるほどそうか、この「白いシャツ」のパートはまさに「赤い風船」の再話なのだ。
●気球の「籠」に乗ることで無理やり空を飛ぼうとしている人間ふたりが、自由に空を飛べるはずのオウムを「籠」に入れて気球内に持ち込む皮肉。しかもこのオウム、籠から出されても飛ぼうとはしない。眼下の岩礁で一面にアホウドリが休んだり飛んだりしているのを観ながらなお、逃げることなく籠の縁に止まっている。このあたり、何かの含意があるのかもしれないなあ。
●最初に北フランスから飛び立つときは、教会前の広場から飛び立ち、その後もストラスブール大聖堂や工事中の尖塔、ノートルダム大聖堂、結婚式が横で開かれる村の教会と、さまざまな教会を示しながら気球は飛んで行く(ちなみに当然ながら上空から見下ろす教会は、十字架の形をしている)。『赤い風船』と同様に、この映画の気球にもなんらかのキリスト教的な含みがあるのかもしれない。そういえば、今回の気球はいったん炎を浴びて爆発しその命を終えるが、ふたたび(予備のバルーンを用いて)「復活」してみせる。
●結婚式を荒らした気球をつなぎとめようとするのがカルナックのメンヒル(古代の巨石群)だったり、プロヴァンスのシャトー・ヌフ・パプの古城の羊を観察したり、ニースで紐で吊るされて海水浴をしたり、南仏での闘牛観戦が思わぬ事態を招いたりと、明確に本作は「フランス名所めぐり」の様相を呈していて、「観光紹介」という(国策的な)要素も組み込まれた映画に仕上がっている。
●ジャック・ドゥミが助監督でついていたっていうけど、実際に現場では、どういう役回りだったんだろうね? たしかに芸風的にも結構引き継いでいる部分があるような気がするけど。
●パンフによれば、主演のパスカル・ラモリス君は、お父さんの事故の際も、2度撮影でヘリに同乗していたが、3度目には同乗せず、奇跡的に助かったらしい。その後、20歳で父の会社を継いで遺作を母とともに完成させ、今回のリマスター作業にもがっぷり四つで噛んで、お父さんの仕事を守っている。じつに立派な志だと思う。
