ストーカー(1979)のレビュー・感想・評価
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やっぱり長いよ!タルコフスキー!
タルコフスキーは映画館で観ないと全然ダメなので、見逃していた本作も今回やっと観ることが出来た。
とはいえ、2時間半越え、やはり長い…
独自の作家性とは分かってはいても、もっと短く編集していいんじゃね?とずっと心の中で叫びつつ、相変わらずのタルコフスキー体験であった。
世紀末が近づいていた79年頃の終末観は、今観るとちょっと古臭いかな?とも思っていたが、全く違和感が無いどころか、現在でも充分と突き刺さってくる。
長尺なのはさて置き、大枠のプロットの流れは面白かったし、少々演劇的な討論のやりとりも一体どこへ着地するのか?見ものだった。
あの”ゾーン”から戻る直前までは…
帰宅後、結果あんな、ありきたりなインテリ批判じゃねえ… イヤもうガッカリ。
やはり、この作品の肝としては、芸術を重んじる作家も、科学を重んじる教授も結局は、目前まで来て希望の叶えられる部屋に入ろうとはせず、彼らをアテンドした主人公に「大切なのは自分を信じること、幼な子のように無力であること」と言わせた事と思うので、アテンド終了後、敢えて同じ文脈で怒り心頭の愚痴を言わせるというのは、ムダにしつこく、無粋とも言えた。
もっと絶望の中でも見いだすイノセントな美しさの強度みたいなヤツ、そんなの見せて欲しかった。
そういった意味では、ラストにおいて、娘が超能力の直前に詠んだあの詩の世界(純粋な欲望の強靭さ)と上手くリンクさせる伏線は、主人公の言動の流れの中で強く印象に残るよう入れておいて欲しかった。
そうすれば、最後で唐突に列車の振動音に乗っかって流れて来たベートーヴェンの第九も、もっと大いに盛り上がったのではないかと思う。
とまあ、着地に関しては、だいぶ不満足ではあったけど、お得意の水を多用した映像世界は、まさにタルコフスキー印!そのもの!
その点においては、充分過ぎるほど堪能することは出来たのであった。
墓荒らし
タルコフスキーは奇人だが、この妙な話に原作者がいたのだから上には上がいるものだ。
ストーカーというのは墓荒らしのような意味にとらえれば良いのでしょう、王の墓の代わりに宇宙人が遺して行ったゾーンと呼ばれる立ち入り禁止エリアにお宝らしきものがあるらしい、今も昔もお宝目当てのけしからぬ輩は居るものだし、タタリのような奇怪な出来事がチラツクのもお約束でしょう。
映画では主人公のゾーン案内人は同じだが客は作家と学者に変えている、ストーリー性は横に置き、未知なるものへの好奇心と恐怖感を映像化することに徹している。その辺は怪しいセットや水の多用、色彩の変化などタルコフスキーの映像作家たる本領発揮、難解な哲学的セリフの応酬もいつものこと。したがって理屈でなく妖しさを感じれば良いのだろう。
原作では主人公の娘は猿化するタタリにみまわれるらしいがホラーになるので避けたのだろう、最後に娘のテレキネシスを見せるのは高尚なSF感が欲しかったのかも知れませんね。
訳がわからない上に2時間44分の長回し、タルコフスキーのコアなファン以外は関わらない方が良いでしょう。
神を信じようとする男、神の恵みに生きる女
このフィルムに登場する人物の立ち位置は様々だ。
神を信じようとする男
神の恵みに生きる女
神を疑う作家
神のことなど考えもしない教授
そして神に遣わされた子供だ。
正直このフィルムを星の数で評価するなどとても無理だ。だから敬意をこめてせめて星5つを献上したい。
初めから終わりまで、このフィルムが映し出す絵には隅々まで生命がうごめいている。寡黙にしてただそこにあるだけのものを、カメラを通して見つめたとき、言葉にならない訴えを身体じゅうで受け止めることになる。
水の中に沈んでいる宗教画、コイン、そして拳銃、、、それをカメラはじっと写し撮る。なぜ、水の中から拾い上げない?このフィルムは、それらすべてが世俗的な意味のないものだとでも言いたいのだろうか?
疑問はまだ続く。なぜ、三人は三人とも"部屋"に入らず、引き返してきたのか?作中では作家が「自分の腐肉など見たくもない」とはっきり言った。しかし、作中の理由がそうであっても、それはフィルムとして"部屋"に入らない理由にはならない。神秘は神秘のままに残しておくのが正解なのか?それとも、作家の言うように"部屋"の持つ神秘性のメカニズムを論理的に瓦解させることに成功したからだろうか?
この映画の最後、、、口もきけず、歩くこともできない子供がテーブルのコップを、手を使わずに動かし、床に落下させる。そしてそのタイミングで近くを通過する列車が、その振動でテーブルに残ったコップをゆらす。
超能力も、列車の振動も、ともに机上のコップを動かしたり揺らしたりすることの出来る力を持っている。
なんのことはない。答えはすでにそこにあったのだ。危険を冒してゾーンにいかずとも、人々が求める救いであり、論理であり、力であり、それらは全て一体となった形で、我々のごくごく目の前にずっと存在していたのだ。はるばる探し求めた幸せの青い鳥が、実は家の鳥かごの中にいたというストーリー――それが真実であるということを、このフィルムは3時間近い尺を使って、ずっと我々に訴えていたのだ。
このDVDのジャケットには「未来の希望」という一節がある。見ようとさえすれば、本当に求めているものはすでにそこにあるということを、言おうとしているのかもしれない。
最後に全体を振り返って見ると、この世に生きていること自体がすでにセンスオブワンダーということなのかもしれない、と思えた。
疲れた。
退屈で疲れた眠かった。
一応ゾーンの部屋というゴールがある旅なので、例の部屋に入ったらどうなるんだろう、ハッピーエンドか、はたまた破滅か?と色々想像膨らませていたが、そんな想像をした分だけ疲れた。
どうでもいいから、とにかく部屋に入っちまえよ!と言いたい。
人間の真相心理的な希望を叶える部屋…ゾーンという特殊な設定を用いることで、人間の幸福とはなんなのか、自己実現とは何なのか、そもそも自分の根元的な欲望は何なのかを把握しているのか、そしてそれを叶えることは幸せを意味するのか…
等々、ゾーンに向かうメンバーで話し合い、あるのか分からん真理を追及することが主題になっている。
惑星ソラリスも、人間の後悔やトラウマ的なものを具現化する惑星、という哲学装置を用いて、愛とは何か、幸福とは何をもって幸福とするのか等議論をしていく映画であった。
そういった点ではよくにている映画。
ただ、ソラリスよりも雑多でとっちらかった感があり、最終的に放り出された感じがあって納得できなかった。
ネタバレあり
原作は「路傍のピクニック」
オズの魔法使い的な話
映画化するにあたって「願望機」というタイトルが当初付けられていた。
願望を叶えてくれる機械の話。
その機械とは、宇宙人が地球にピクニックにきて置いていったものである。
ゾーンには銃や酒は持って入れない。
神聖な場所だからである。
タルコフスキーは敬虔なカトリック。
これは宗教の話である。
ストーカーという案内人と、
作家という芸術家と、科学者。
3人はタルコフスキー監督のそれぞれの側面を表す。故に3人の外見は似てる。
主人公はバカっぽく描かれてるが、バカを演じているだけ。ラストに彼の部屋が映るが多くの本がある。彼はインテリだから、それを表に出さぬようにしてる。
ゾーンに入ると色彩が豊かになる。
それは主人公にとって豊かな場所だから。
最後はハッピーエンド。
ベートーベンの第9が流れる。
それは歓喜の音楽。
2人は願いを言わなかったが、主人公は無自覚に願いを言ってしまう。
妻子が幸せになれば、と。
黒い犬が付いてくる。
娘は黄色いスカーフを頭に巻いている。
黄色は幸福を表す色。
そして超能力を得る。
参照:町山智浩氏の解説より抜粋
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