ZOO(1985)のレビュー・感想・評価
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美しい狂気を飼い慣らす
ピーター・グリーナウェイ監督作品。
アヴァンクレジットまでのシーンで傑作だと確信しました。鳥肌が立ってしまった…
高校時代に会田誠の画集を開いてしまった時と同じ感覚。
絵画的な構図によるシンメトリーは腐敗によって朽ちていく…
それは空間でありつつ、双子の様相でもあるし、片足を失ったアルバでもある。
人間も含め動物が蠢く様子をクローズ・アップでみると気持ち悪いし、逆に死んで朽ちていくのは美しい。鰐も白鳥も犬もシマウマも双子も朽ちさせるのだからショックだ。けれど死は生命に等しく到来するし、腐敗していくのは美しい。生命のもつ対称性を崩すドキュメントは倫理に反するが、その美しさを知ってしまった。それはとても危険だ。
私たちが健全に生きるために。それには「美しい狂気」を飼い慣らすしかないのだと思う。
双子とシンメトリーとフェルメール。タナトスの誘惑に彩られたメメント・モリA to Z。
「♪チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……」
とにかく、あのピアノの主題曲がかかるたびに、
『料理の鉄人』の世界――
鹿賀丈史主宰による勝利者コールの瞬間に、
無理やり引き戻されてしまうのは、
なんとかならないものか(笑)。
自分にとって『料理の鉄人』は、
まさに大学時代に夢中になった、
「青春」そのものみたいな番組だったから。
僕らにとって、あの曲は『ZOO』じゃなくて、
あくまで『料理の鉄人』の曲なんだよね……。
― ― ― ―
イメージフォーラムでのグリーナウェイ特集上映では、結局『英国式庭園殺人事件』しか観に行かなかったのだが、今回下高井戸で再上映がかかったので、数十年振りに『ZOO』を観てきた。
一応、『コックと泥棒、その愛人』と並ぶ、
グリーナウェイの代表作ではあるんだろうけど……、
まあ、変な映画だよね(笑)。猛烈に。
面白い映画かと言われると、2時間近く、まるで嚙み合わない会話を聞かされ続け、終盤に至るまでは、およそなんの話かすらよくわからない内容なわけで、個人的に面白いとはとても思えない。
登場人物全員、考えていることが奇矯すぎて、彼等が当たり前のように取る行動への理解がまるでおぼつかないのだ。
映画のなかで、いったい何が起きているかを追うだけでも相当に疲弊するし、観ていてロジックがうまくつながらないせいで、あらゆる場面で強烈な睡魔に襲われる。
一瞬の居眠りから覚醒しても、「悪夢」はスクリーン上でなお続いている。
何度居眠りしたところで、画面上で展開する悪夢の非論理性は一向に改善されない。
全編を通じて、とっつきの悪い、独善的で自己完結的な印象は一貫している。
そのあたりの作風は、『英国式庭園殺人事件』ともそう大きくは変わらない。
表面上やけに「わかりやすい」のは「マイケル・ナイマンの音楽」だけだが、これとて現代音楽家の手になる企みに満ちたミニマル・ミュージックなのであり、もちろん一筋縄でいくものではない。
表面的な聴きやすさの裏で、その反復のしつこさと、ブツ切れに処理されるストレスと、曲自体にひそむ猛烈な「毒」ゆえに、聴く者の精神をじわじわとむしばんでゆく。
ただ、基本的には退屈きわまりないこの二時間のなかに、間違いなく「一生忘れられないような瞬間」が軽く10や20を超えるレヴェルで埋め込まれているのも、また抗いようのない真実だったりする。
『ZOO』の、悪趣味だが極度に洗練されたビジュアルイメージは、映画史上でも類を見ないほどに独創的で、猛烈なインパクトを有している。
その点で、『ZOO』は、やはり唯一無二の映画なのだ。
結局は、中身はよくわからないなりに、「なんだか得体の知れないすごいものを観た!」と多大なる衝撃を受けて、いわく言い難いもやもやした感情を胸に抱えたまま帰途に就く観客が大半なのではないか。
双子と、シンメトリー。
身体的欠損、融合、人体改造。
腐敗の記録と、甘美なるタナトス。
動物、死体、蛆、カタツムリ、男性器。
マイケル・ナイマンと、古い音盤の通俗歌。
徹底したヨハネス・フェルメールからの図像的引用。
『ZOO』を彩る数多の「バッド・テイスト」は、
悪趣味でありながらも、一定の節度と美意識を備え、
冷徹なまでの解剖学的探求心と、独特の「稚気」に支えられている。
徹底したシンメトリー構図の採用と、構図に合わせるようにあてがわれるハンサムな一卵性の双子(分離されたシャム双生児)が、本作の視覚的インパクトの中心にあることは、およそ論を俟たない。
このシンメトリー構図に対する病的で異常なこだわりは、やがて作中人物の精神をも汚染し尽くし、ついには「片脚の女の外見的シンメトリーのために、残りの片脚をも切り落とす」という美学的愚挙に及ぶことになる。
シンメトリーが先なのか。双子が先なのか。
そこは正直、よくわからない。
シンメトリーが先にあって、後から双子があてがわれたのかもしれないし、
逆に、双子の存在感が、このシンメトリー構図を産んだのかもしれない。
何にせよ、そのシンメトリーが、やがては欠損美女の健康な左脚をも貪り、
主要登場人物の全ての命を代償として、新たなる双子を再生産するに至る。
これはそういう映画だ。
― ― ― ―
英題を見るかぎり、『ZOO』は本来「ズー」ではなく、「ゼッドと、二つのゼロ」である。「二」が双子を意味するとすれば、二つのゼロは、二つのオー(オズワルドとオリバー)でもあるだろう。逆に「Z」は「ZERO」の「Z」でもある。こういう言葉遊びというか、カバラ的な文字の呪術を映画に組みこんで来るのも、いかにもグリーナウェイらしい。
冒頭から、『ZOO』の文字は、動物園の看板のネオンとして何度も何度も画面内に登場し、「Z」の文字も、アルファベットの最後の文字(ギリシャ語におけるオメガ)としてネチネチと言及され、「Z」つながりでシマウマ(Zebra)の死体が登場する(最初のAは林檎=Apple。林檎は原罪の象徴でもある)。
ちなみに、シマウマは「モノクロの動物」として、エビ、エンゼルフィッシュ、白鳥、ダルメシアンといった「腐敗動物早回し動画連作集」のしんがりに君臨し、さらにいえば、シマウマやエンゼルフィッシュの「縦じま」は、動物園の「柵」や「檻」とも呼応しており、人と動物、鑑賞者と展示物の境界を想起させる記号としても機能している。
『ZOO』には、さまざまな「奇矯な」映画の系譜と要素が混淆している。
まず冒頭の自動車事故のシーンは、ゴダールの『ウィークエンド』や『軽蔑』を容易に想起させる。全編に漂う寓話的で演劇的なエグみは、フェリーニ譲りといっていいだろう。ストーリーの極端な難解さや、敢えて「わからせない」ようにふるまう不条理なつくりには、彼が敬愛するアラン・レネやベルイマンからの影響もありそうだ(本作のカメラマンはアラン・レネの『去年マリエンバードで』を撮ったサッシャ・ヴィエルニ)。そして何より、不道徳で挑発的なモチーフの投入はパゾリーニのそれを彷彿させる。そこに、クレイアニメーション的な美意識や、チェコ前衛映画の気配、クィア・フィルムの成果なども取り入れられ、グリーナウェイ独特の映像世界が形成されている(腐敗していく死体の早回し撮影は、クレイアニメーションのコマ撮りときわめて近い印象を与える。ちなみにグリーナウェイはかつて『ストリート・オブ・クロコダイル』のブラザーズ・クェイを主役に据えて映画を撮っていて、本作でもふたたび二人を主役の双子役にしようと声をかけたが断られている)。
徹底した西洋美術史(とくにバロック美術)からの引用や、活人画(タブロー・ヴィヴァン)的な絵づくりで、絵画的な美意識を映画内に導入しようとしているのも、グリーナウェイの大きな特徴といえる。本作では、フェルメール愛好がほとんど「判じ物」のレヴェルで組み込まれており、実際に『天文学者』『地理学者』『青衣の女』などが作中に登場するのみならず、『絵画芸術』や『音楽の稽古』の画面内シーンを再現するような試みが成される。敵役として登場する医者メーヘレンは、有名なフェルメールの贋作者と同じ名前だ。特にびっくりするのが『赤い帽子の女』から抜け出してきたかのようなキャラクターが登場することで、単に恰好が似ているというだけでなく、あの特徴的な顔立ちにクリソツの女優をわざわざ見つけてきて起用している。グリーナウェイの偏執狂的こだわりぶりには頭が下がるばかりだ。
他にも、白鳥つながりで「レダ」の名が出てきたり(ギリシャ神話で白鳥に変身したゼウスに誘惑&誘拐される)、「ミロのヴィーナス」という名をもつ娼婦が出てきたり(足のないアルバと手のないミロのヴィーナスの対比)、美術史的教養を前提とする描写には事欠かない。何より、本作のメインテーマである「死を想え(メメント・モリ)」こそは、西洋美術史における最も重要な主題と言って過言ではない。
本作において、雑多な部分を取り去っていって最後に残るのは、畢竟「死を想う」ことであり、「死を見つめる」ことであり、「死を記録する」ことである。
オズワルドとオリバーの双子は、愛する妻たちの「二人同時の自動車事故死」という理不尽な「シンメトリカルな死」の有り様を受け入れられず、やがて2の幻想、シンメトリーの幻想、死の幻想に絡めとられていく。
そこで常に漂ってくるのは、エロスとタナトスの混淆――そして、タナトスの抗いがたい誘惑である。愛は容易に死へと結びつき、生物の腐敗の記録は、やがてその頂点に君臨すべき「人間の腐敗の記録映像」への強烈な関心へと結びつく。
先にも言った通り、僕にとって『ZOO』は「面白いけど猛烈に退屈で睡魔に襲われる映画」でもあるわけだが、終盤に至って、大量の「撮影箱」が立ち並ぶなか、箱の中に収められた数多の動物を対象に腐敗動画のシャッターが切られ続けているシーンが登場したときは、その美しさ、神々しさ、緊迫感、謎のサスペンス性にガツンとやられた。
マイケル・ナイマンの楽曲の「煽り効果」もあってか、なんでかあのシーンって、やたら「真相感」というか、へんな「種明かし感」があるんだよね(笑)。
で、このあとの展開というのは、逆にある程度「読めてしまう」から面白い。
そこまで何がなんだかよくわからなかった話が、急速に収斂し始めて、まさに「これしかない」といいたくなるような「納得の」ラストに向けてひた走っていく。
タナトスに魂まで魅入られた双子が、あたかも詰将棋のように不可避の「実験」へと突き進んでいく様は、どこか爽快で、ある種の「多幸感」すら感じられる。
そんな二人の目論見が、謎のカタツムリ大量発生によって超常的な形で阻まれてしまう流れもまた、なんとなく「わかる」というか、得心が行く展開だといえる(僕は個人的に、伊藤潤二の『うずまき』を想起せざるを得なかった)。
総じて退屈な映画ではあるが、ラスト20分は退屈でもなんでもない。
ついに派手に解禁されるイチモツ×2も含めて、誰しもが画面にくぎ付けになること請け合いだ。
というわけで、『ZOO』はなんだかんだでやはりインパクトの大きい映画であり、結果的に、後続の監督たちにも、有形無形の絶大な影響を与えている。
近年でいえば、ウェス・アンダーソンの構図感覚は間違いなく本作の影響下にあるし、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』で降る「カエルの雨」と本作のカタツムリにも何らかの関係があるかもしれない(もちろんないかもしれないけど(笑))。
パンフを見る限り、今をときめくアリ・アスターやヨルゴス・ランティモスも、グリーナウェイに深く私淑しているらしい。
そういや、腐っていく死体を捉える描写は、つい最近でも『ゴッドランド』で観た。
あれを観ながら、僕は思ったものだ。「ああ、まるで『ZOO』みたいだ……」と。
最後に。
腐敗動画に夢中になりつつ、双子が同じくらい没入して観ているのが、デイヴィッド・アッテンボローの動物番組だ。
今の若い人は知らないかもしれないが、僕の子供のころは、BBCの動物ドキュメンタリーといえば、案内人としてデイヴィッド・アッテンボローが登場するのがまさに定番だった。
『地球に生きる』『生き物たちの地球』……いやあ、本気で大好きだったなあ。
幼いころにデイヴィッド・アッテンボローにマジで憧れ、動物学者をガチで目指していたが結局自分はバリバリの文系だったということで夢に破れた(ただし文系生物は全国模試でベスト10に入ったことがあるw)僕としては、この流れでデイヴィッド・アッテンボローの声が流れて来たのは、武者震いするくらい興奮させられる体験だった。
ちなみに、彼のお兄さんは、あの高名な映画監督のリチャード・アッテンボローである。
そして……、デイヴィッド・アッテンボローは齢98歳にして、今もバリバリの現役! NetflixやBBCの番組で、世界各地の稀少な生物の生態を紹介しつづけている。すごいね。
ZOO 神戸にある元町映画館 にて鑑賞2024年4月3日(火) オ...
ZOO
神戸にある元町映画館 にて鑑賞2024年4月3日(火)
オランダのロッテルダムの動物園。動物学者であるオズワルド(ブライアン・ディーコン)とオリヴァー(エリック・ディーコン)の兄弟はそこで働いているが、自動車事故で同時に妻を亡くした。車を運転していた女アルバ(アンドレア・フェロル)は生命はとりとめたが事故で片脚を切断した。
残された兄弟は悲しみにうちひしがれていたが、やがて二人は死んだ動物が腐ってゆく過程を記録する実験にとりつかれ、生物の進化をたどったフィルムを憑かれたように見始めた。
二人はアルバに魅かれ、彼女も二人に興味を抱いた。そんな三人の様子が外科医ヴァン・メイハラン(ジェラード・トゥールン)と助手のカテリーナに監視されていた。アルバと兄弟の間には愛が生まれた。
ヴァン・メイハランはアルバのもう片方の脚も切断しようと企てる。動物園の内部で動物の肉が取引され、ゆすりが行われ、腐敗が渦巻き、動物を自由にすべきだという兄弟と彼は反発し合う。
三人は共同生活を始め、アルファベットの数だけ子供を産みたいという彼女に、兄弟は惹かれていく。アルバは二人の子どもを身篭った。二人が動物園を退職した直後、アルバは双子の男の子を産んだ。しかしその直後衰弱で死んでしまう。残された兄弟は自ら撮影の実験体になり、互いに命を断つのだった。
監督 ピーター・グリーナウェイ
音楽 マイケル・ナイマン
1985年イギリス
マイケル・ナイマンは映画「ピアノ・レッスン(The Piano」で知られている。
この作品は「獣姦」が扱われいた。エスカルゴ(カタツムリ)がうじゃうじゃ登場し、最後のシーンでは死んだ兄弟の遺体を覆いつくすほどに溢れているという「恐怖」を感じた。
鹿賀丈史よ、静かにしていてくれ
P. グリーナウェイ・レトロスペクティブにて。
独特の映像世界は好き嫌いが別れるところか。左右対称構図はW.アンダーソンが影響うけているのかしら。登場人物の行動は奇矯ながら、ストーリーはちゃんとある。生物の腐敗の進行を微速度撮影した映像が多様されていて、それを云々言われるひともいるが元科学少年としては生物ドキュメンタリーでたまに観る光景でなんということはない。
映像とともに音楽がとても印象深いのだが、動物が腐敗していくシーンに頻繁に流れるピアノソロのフレーズを聞くと世代的に「鉄人、陳健一!」という鹿賀丈史の声と姿が脳内再生される。「バックドラフト」だとこの症状は感動的シーンで頻発する。つくづく罪作りな番組だ。
意味不明 マイケル ナイマン音楽だから観たが
1985の映画だが、1970年代の英国のファッション、風俗、田舎が伺える。
内容は意味不明。 隻足の女が双子の兄弟を愛人に暮らす。 生き物の死骸が腐敗する過程を映像で記録する。 意味不明。
マイケルナイマンの音楽が好きで観たが。。。
マイケル・ナイマンがやっぱエライ
4Kに慣れつつある目には映像の美麗がモノ足らず
はじめて見た時の衝撃は時代を経て色あせて…
でも、音楽は今でもゾクゾクします。
グリナウェイ映画は音楽の力で強引に
かけ離れたいくつものコンテクストをねじ伏せる実験なんですよね。
構図にとんでもなくこだわりのある映画です
映画は【左右対称】に作られており、とても美しいです。(人が映っているときに限ります笑)
動物の腐敗の描写が多いため、虫やグロい映像が苦手な方には向かないです…
他の映画にはない面白さがあり楽しめました。
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