処女の泉のレビュー・感想・評価
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今でも通用する、人間の在り方を問う傑作だ。
中世スウェーデン。凌辱され殺された娘と、彼女の父親の復讐を描く。同国の13世紀のバラッド『ヴェンゲのテーレの娘たち』を脚色。『羅生門』の影響も受けている。
今は珍しくないシーンも、貞操観念が強かった当時は、衝撃的だった。米国や日本でも、検閲が行われた。
恐ろしく、美しい、不穏で魅惑的な映画だ。登場人物のショットや台詞に無駄が無く、その1つ1つで、その人がどんな人で、何を思っているかが伝わるのが、物凄い。
神の救済なら、被害者が生き返る結末が良かったという意見もあるかも。だがベルイマン監督は、奇跡とも偶然とも取れる結末を選び、本当に神はいるのか、それで心が救われたのか、神の救済と不在を問う結末を選んだ。
性被害の家族による復讐や、罪に対して罪を犯すことは、今でも通用するテーマだ。復讐で、心が救われるのか。人間の在り方を深く問う傑作だ。
【”それでも、神は沈黙する。”娘を人間の悪意で失った父の復讐を通し、神の信仰について考えさせられる、残酷で不条理な物語。】
■中世のスウェーデン。豪農のテーレと妻・メレータ、そして1人娘のカーリンは経験なキリスト教徒だった。ある日、カーリンは教会へ向かう途中、森の中で貧しい羊飼いの3兄弟に出会う。疑うことを知らないカーリンは、彼らに食事を振る舞うが逆に凌辱され殺される。
◆感想
・神とは、基本的に人間の善悪の行いに対し、”目に見えた罰”を与えない。
・今作で言えば、1人娘のカーリンを態々綺麗な服装で一人で教会へ行かせる甘い豪農のテーレと妻・メレータの行いも”目に見えない罰”を与える事になる原因であろう。
・一人身籠るインゲリへの豪農のテーレの人々の接し方も、”目に見えない罰”を与える事になる原因の一つであろう
ー 故に、インゲリはカーリンに恨みを持った目をしながらついて行く。彼女の不幸を願うように。そして、インゲリが願った事が起こり、彼女は全てを目撃した後に逃げ帰るのである。-
・勿論、貧しい羊飼いの3兄弟を殺した豪農のテーレの行いも許されるものではない。
・又、貧しい羊飼いの3兄弟の行いも、言語同断である。
<今作は、イングマール・ベルイマン監督が描く、神の信仰について考えさせられる作品なのである。>
映像美
構図や表現力はよくわかりませんが面白かったですよ、緊張感あって。映像美というか描写は終始不穏な殺気たっぷりで。撮り方はようわかりませんが現代ならなんぼでもこれくらいの絵あるんでしょう、でもシンプルでセンスむきだしでよかったです。子供投げ殺すのはむごいなと思いましたが、豪農パパは憎まれ妬まれる立場でありながら信心深く潔白に生きようとしている、それでもなおていう設定にため息出そうでしたね、そんなにキリストが憎いですかと。十字軍の北欧ぽいテーマやなとも思いました。
自分が父親の立場だったらと思うと…
娘が殺されてから、重々しい雰囲気だった。こんなことが起こるなんて、神は存在しないのか、それとも沈黙しているだけなのかと、誰でも悩んでしまうと思う。ただ、最後、神の存在を暗示させるかのように、泉が湧いてくるという感動のエンディングとなる(タイトルから、なんとなくは想像できたが)。
それにしても、この物語の設定は悲惨すぎる。純粋無垢な天使のような娘をレイプされ、殺された父親の心境を思うと胸が痛い(天使のような娘でなくても同じかもしれないが)。犯人が分かった時点で、自分だったらどうするかと考えてしまう。「ドッグヴィル」(トリアー監督)の主人公に相談したら、みんな殺してしまえと言ったかもしれないな(笑)。
演劇映画の純度
16世紀のスウェーデンの風景描写の美しさ。中世の質素な食事風景や木造家屋の室内外、そして森や川や木立などの自然描写が、名手スヴェン・ニクヴィストのカメラで絵画の如く再現されている。主題はベルイマン永遠の追求である信仰と現実の相克だが、今作は性暴力と殺人の残酷極まりない題材を扱っているため、その主張は分かり易く直接的だ。偶然にも日本公開の1961年にはヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ふたりの女」もあり、当時のフェミニズム表現の影響が少なからず感じられる。ただ日本公開当時は検閲で性暴力シーンはカットされてしまった。
ベルイマンの演出は演劇の凄さである。役者の台詞の発声、呼吸の取り方、表情の固定は舞台の表現そのままに、カメラワークの視点の変化で人物表現の多様で複雑な広がりを成立させている。舞台空間をベルイマンの視点と同時に窺いみることで、その演劇の完成された純度に圧倒されてしまう。ベルイマン映画の中でも理解しやすい内容と主題の鮮烈な傑作であった。
ものすごい傑作
べルイマン監督の凄さを思い知った一作です
特に娘の家とは知らず一夜の宿を求めてからのシーンは、映画の中の子供様に余りの緊迫感に吐きそうになるくらい強烈です
もうただただ圧倒されました
なんとなく黒沢明監督の羅生門の影響を感じました
神の存在、信仰、人間の罪とは何かを突き付けられる。後半からラストに...
神の存在、信仰、人間の罪とは何かを突き付けられる。後半からラストにかけての父親の苦悩が痛ましかった。
モノクロ映像の光と影が美しい。
メモ
私はベルイマンの映画が好きです。難しいテーマといえばそうかもしれませんが、神様とか人生について2時間足らずでまとめてしまう才能。ここまで分かりやすいとマセガキの中学生でも一度観ただけで影響受けるレベル。個人的にはそう思うのですが、いかかでしょう。。
『処女の泉』も例に漏れませんでした。この映画でテーマになっているのは「思わず罪に手を染めること」だと思いました。
冒頭、インゲリという獣のような召使はカーレンが憎いとオーディンの神に訴えます。娘の復讐の際、父親は無実の子どもも含めて3人の命を奪います。一人娘のカーレンは生前可愛がられていました。しかし特に父親になついているので、母親がそれを日頃妬んでいたことを告白するのは娘の亡骸を探しに行く時でした。カーレンの死は全員にそれぞれの罪を自覚させるのです。
一つ議論を進める形で、もう一つのテーマを提示するのはラストシーンの父親ですね。私はこの手で復讐を果たした。小さい子どもも殺した。神がいたとすれば、どうして私がそんなことをしえたか。神よ、あなたは本当にそこにいるのですか?私たちをちゃんと見守ってくれてます?黙ってないで答えてください、お願いですから。。。明らかに『第七の封印』におけるテーマは今作と共通しています。
中盤で乱暴されてしまう役でしたが、娘さんがかわいかったですね。難しい意味は分かりませんが泉のイメージにぴったりでした。
と、批評めいた文章になってしまった。
個人的に気になったところ
・父が枝を切るシーン
空に木が揺れて、地面に倒れる
・二人目の男殺害シーン
スクリーンが炎に焼かれる向こう側で二人の男がもがいている
絵力はんぱない!ブルーレイ買おうかしら。
自分がひねくれた人間なのは自覚してるけど、日常生活で私情に駆られそうになる瞬間、この北欧の映画で死んだカーリンと湧きでた泉のことを思い出したいと思う。これだからベルイマン好き。
人間の闇に光を当てる
美しい写真を思わせるオープニングが鮮烈である。
暗闇の中で火をおこすと、炎が上がる瞬間に登場人物の容貌が浮かび上がる。その表情には幸福と呼べるような柔らかさはなく、険しい目つきが火に照らされてぎらつく。
次にこの人物が移動した先には天井に開いた窓から降りてくる陽の光が注いでいる。ここにきてこの人物が女性であることが明らかとなり、つやを失った長い黒髪で貧しい身なりであることも分かってくる。
そして、カメラの奥に移動したこの人物は、やはり天井から降り注ぐ光りによって、初めてその全身を照らされるのだ。観客はここで彼女が妊娠していることを知ることとなる。
映画が始まってここに至るまで、被写体距離を3点に移動させ、それぞれに光の当たり方を変えることのみで、この人物の紹介を終える。セリフはと言えば、オーディンの神に祈る言葉くらいなもので、これは彼女がキリスト教のものではない神を信仰しているという内面についての言及である。
続く朝食のシークエンスののち、ようやく登場するこの一家の一人娘に当てられた光は、冒頭で紹介された使用人とは対照的に、その表情に一片の隈もなく照明が当たっている。
この光の使い方だけで、この二人の境遇と心性の違いを浮き彫りにしている。そして、映画はこの境遇と心性のことなる者たちによって物語が進む。嫉妬と欲望そして怒りによって映画の運動を生み、罪の意識や後悔によって立ち止まる。
娘の復讐を遂げた父親は、娘の死んだ姿を目にしたことで、自分の行為の罪深さと神の存在について深刻に悩む。この父親だけではなく、すべての登場人物が人物の行いの罪深さについて、重大な結果がもたらされてから気付くのである。
映画はこうした人々の心の中の闇に文字通り光を当てる。
何十年かぶりに見直してみて
最近レンタルも難しくなっているらしく、もしかしたらもう観る機会はないかもしれない…ということで行ってきたベルイマン3大傑作選。2013年デジタルリマスター版にてどどんとリバイバル上映である。
『処女の泉』は、その昔まだコーコーセーだったころ、衛星放送かなんかで観たことがあった。件のレ○プシーンに、古い映画ってここまでやるんじゃ…とおののいた記憶があった。
そうして今回ウン十年ぶりかに観直したわけだが、このムスメさんがどういう末路をたどるか知ってるせいなのかそうじゃないのか、画面から伝わってくる緊迫感が半端ない。父親役のマックス・フォン・シドーの重厚すぎる存在感ゆえだろうか。かっこよすぎる。
時代背景も中世あたりなのに、現代に通ずるテーマでもあるからなのか、目の前で展開されるストーリーやセリフ運びなどにも古臭さを少しも感じさせず、とても60年近く前に作られた映画とは思えない。これが名画と言われる所以なんだろうか。
さて問題のシーンは…記憶の中よりも意外なまでにあっさりといっちゃいけないがさっくり終わってしまった感が。あれ?こんなだったか。もうちょっとエグかったような…だけど、そのえ?と思うような一瞬さが、少女にいきなり降りかかった災厄っぷりを一層際立たせ、さらには殴り殺されてしまい、なにもそこまでしなくても…といった絶望感に観客を一気に取り込む。そして後半、娘に起こった悲劇を知った父親の怒涛のような復讐劇へとなだれこんでいく。
しかし、純真無垢、可憐、罪なき乙女に起こった悲劇といろんな解説に書いてあるが、このムスメ、実は単にアタマがあまりよくなかっただけでは…あんな山奥で蝶よ花よと育てられればいたしかたないのか。よく言えば世間知らずということか。さらに若干だがイラっとさせるような言動が多く、よく言えば天真爛漫、悪く言えば空気読めや。召使いが呪いたくなるのもなんとなくわからんでもなかった。
上映中ラスト、娘の遺体を発見した父親が神への慟哭を吐露する超クライマックスシーンにもかかわらず、いきなりぷつっと画面が真っ白けに。「SDカードが差し込まれてませ〜ん」というメッセージが。。5分くらいして再開したけどねえ〜。感動が…帰りオジサンがスタッフに文句言っていたけど。やっぱり、映画は多少ブツブツっと画面や音がとぎれてもカタカタフィルムのほうが味があっていい。
罪を犯した者に救済はあるか?
牧師の家に生まれ、神と対峙してきた20世紀最後の巨匠ベルイマンの代表作の1つ。沈黙する神に対しての贖罪という形而上学的なテーマのもと、極めて冷静に描かれる中世北欧の生活。敬虔なキリスト教徒である豪農一家に降りかかる過酷な運命。物語は、身重の娘が土着の神オーディン(キリスト教徒からすると異教であり邪教)に祈るシーンから始まる。彼女はこの家の使用人インゲリ、やがてお腹の子は私生児であることが分かってくると、キリスト教=純潔VS異教=不実いう構図が見えてくる。インゲリはこの家の一人娘カーリンに嫉妬し、彼女に災いが降りかかるよう、オーディンに祈っていたのだ。結局そのためか、カーリンは教会へ寄進に行く途中、山羊飼いの兄弟にレイプされたうえ撲殺され、あげくに身ぐるみはがされる。このスキャンダラスな内容は当時物議を醸したようだが、ベルイマンが描いたのは、犯罪行為そのものではなくて、これに付随した人々の罪と罰だ。本作に登場する人物はそれぞれ罪を犯し、(神を通じて)人の手によって罰せられる者と、罪を告解し許される(?)者がある。罰せられるのは当然娘を犯して殺した山羊飼いの兄弟。彼らは神の導きによってか、犯罪の後、一夜の宿を殺した娘の家に求めることになる。欲に目のくらんだ兄弟は、娘の着物をそうとは知らず、その母に売りつけようとし、自らの罪を知らしめてしまう。よってその父に復讐のため殺されるのである。この兄弟が罰を受けるのはある意味当然だが、犯行に一切関わらなかった幼い末の弟も、父の怒りのままに殺されてしまうのだ。兄たちの恐ろしい犯行に怯え、兄弟の中でただ1人罪を意識していたはずなのに・・・。この末弟の殺害が父の罪となる。父は大きな過ちに愕然となり、何故神がこの罪に対して沈黙しているのか疑問に思う。しかし彼は神に対する疑問すらも自分の罪と思い、娘の死んだ場所に教会を立てることを誓う。嫉妬のままに異教の神に祈ったインゲリと、愛娘を溺愛しすぎた母も、それぞれの罪を告白し、神の許しを請う。
さて、これらが罰を受ける者と許しを得る者たちであるのだが、もう1人罰を受ける者がいたことを忘れてはならない。何をかくそう被害者カーリンその人だ。本作を観る前の知識では、タイトルどおり、カーリンは清らかな乙女なのだと思っていた。しかしカーリンは母の溺愛のもと、わがままに育ち、怠け者で自分の美貌をひけらかしている。日曜日でもないのに、晴れ着を着て美しさを誇示する彼女に罪はなかったのか?インゲリが呪うほどの驕りは罪ではなかったのか?彼女が山羊飼いに襲われたのは、無垢なせいではなく、単なる世間知らずのせいだ。彼女がインゲリほど世間を知っていたら、1人で森に入り、知らない男に声をかけることはなかったのだ。ではカーリンに災いをもたらしたのはオーディンではなく、彼女たちが信じる神だとしたら・・・?もしそうなら、娘を殺した犯人に復讐すること自体神に背くことになってしまう・・・。
しかし乙女の死骸のあった場所から泉が湧き出るラストシーンで、神の存在に疑問を持った者や、異教の神を信じていた者などが、聖水に触れて救われることを考えると、ベルイマンの真意が解らなくなった。そう思って資料を調べると、このラストシーンは制作サイド側からの要求で付け加えられたものだとあった。キリスト教徒からの批判を恐れた結果かも知れない。そうなるとやはり私が考えたとおり、ベルイマンの描きたかったものは、宗教による救済ではなく、沈黙する神への怒り=宗教に対する疑問や警鐘だったのではないか。この他の「神の沈黙」シリーズをまだ観ていないので、一概に結論は出せないが、本作を観ての個人的な感想は、罪に対する罰は、神によるものではなく、自分の心にあるということ。自分自身を許せるか、許せないかということなのではないだろうか・・・(自分自身を許せないと死ぬまで苦しまなければならないが、自分を簡単に許してしまっても、後々苦しむ羽目になる。結局罪を犯した者に救済はない・・・)?
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