「感情の機微を緻密に表現している素晴らしい作品」ジョー・ブラックをよろしく いぇーいさんの映画レビュー(感想・評価)
感情の機微を緻密に表現している素晴らしい作品
ドラマチックな出会いに始まり、死神が下界に降り立つという現実離れした設定の下、ついつい安っぽい映画に見えがちだが、無駄に思えるシーンが全てラストシーンに向けての種まきだったと言えるだろう。
まず、3時間という少し長めの上映時間だが、実際に映画の中の彼らと同じ時間感覚を示しているのだと思う。つまり、彼らにとってジョーとの生活が日常になる程には長く、愛する人との別れを決するのには短いということであるのだ。グダグダとシーンが続いている感覚に陥ることがあったが、実際には彼らにもシーン以外での生活があり、それによりもっと時間の空間があったのだ。ラストシーンでは、グダグダの時間が何故か優しい思い出に感じられ、この映画と離れ難い気持ちを抱かせてくる。
次に、誕生会当日のスーザンの感情を表す表情が注目すべき点である。これは私自身の解釈であるが、スーザンは何となく全てを察していたのだと思う。全てというのは、父が去ること、ジョーがコーヒーショップの彼とは異なること、二度とジョーとは会えないこと等である。
父が去ることを察していると解釈したのは、明らかにスーザンが泣きすぎているということだ。確かにファザコンのスーザンにとって、父の誕生日はとても大切なものであると思う。だが、ただの誕生日にしては言葉が重すぎるのだ、泣きすぎているのだ。父からの悔いは無いかという質問に対して、少し間をおいて、悔いは無いと言う。それを聞いて、父は心が軽くなったと言う。再考してみるが、悔いがないはずがないのだ。ジョーを手放したことを彼女はまだ心残りなはずなのだ。若い彼女が猛烈な情熱を注いだ彼を一晩で諦められるはずがないのだ。だが、父を安心させるために嘘をついたのだ。また、父とジョーが橋の向こうにさって、コーヒーショップの彼だけが帰ってきても、橋の向こうへ父を探しに行かなかったのは、察していたからこそ、わざわざ人目を避けて旅立った父への配慮を行ったのだと考えるからだ。これらのことから、父がなんとなく去ることを察しているのだと思う。
ジョーがコーヒーショップの彼ではなく、二度とジョーと会えないことを察していたというのは、生き返ったコーヒーショップの青年との会話の中に見ることができる。ジョーとパーティーで話す中で、ジョーが違う人であると気づくスーザン。余談だが、この時のブラピの目の演技は素晴らしい。青年と違うと気づかせる目の演技が、素人のわたしにも分かる違いを見せていた。スーザンは青年と違うことに気づき、恐怖に怯えるが、自分が愛したジョーとジョーを愛した自分を肯定するために、ジョーを肯定する。ジョーはそんな彼女を見て、彼女を連れて行かないことを決心したのだろうか。本題の戻るが、橋の向こうから帰ってきた彼にスーザンは質問を繰り返し、ジョーが去り青年が生き返ったことを悟る。そもそも、質問しながら勘ぐっている時点で、ジョーが去るべき人であったということが分かっていることは自明の理である。この後のスーザンの目の演技が素晴らしいのだ。青年が話し続けている中で、ジョーが去っていった橋の向こうをしばらく見つめるスーザン。だが、青年に僕を好きだと言ったと言われ、それを否定し、とても好きだと言ったと言う。これは、あの一瞬でジョーが青年を送ってくれたことを理解し、自分はジョーと父が与えてくれた贈り物を受けとることを決心して、ジョーへの気持ちにある意味蓋をして「好き」に「もっと」を追加したのだ。その後、未来の話をするスーザンには最早過去のジョーとの恋愛は置いているのだ。ラストは、暗いあの世を象徴する、ジョーたちが去った橋とは反対の、花火が咲き誇る明るい人間界へと戻っていく青年とスーザンから、ジョーと父との決別が描かれているのだ。
名作と言わざるを得ない理由は尽きない。観れば観るほど新たな発見があるだろう。