少年、機関車に乗る

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少年、機関車に乗る

解説

タジキスタンの名匠バフティヤル・フドイナザーロフが26歳で手がけた長編デビュー作で、父を訪ねるため列車に乗った兄弟の珍道中をモノクロ映像でユーモラスかつ詩情豊かに描き、世界各地の映画祭で高く評価されたロードムービー。

17歳の青年ファルーと7歳の弟アザマットは、祖母と3人で暮らしている。ある日、兄弟は遠く離れた街に住む父に会いに行くため、機関車に乗り込んで旅に出る。しかし機関車は駅でもないのに運転士の実家で停まったり、線路沿いを走るトラックと競争を始めたり、子どもたちに石を投げつけられたりと、予期せぬ出来事が次々と起こる。機関車は中央アジアの雄大な平原を進み、兄弟を父のもとへと運んでいくが……。

1991年製作/98分/タジキスタン・ソ連合作
原題:Bratan
配給:ユーロスペース、トレノバ
劇場公開日:2023年6月3日

その他の公開日:1993年7月17日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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映画レビュー

3.0バフティヤル・フドイナザーロフ監督

2023年11月1日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

旧ソ連タジキスタンの巨匠だと言うので観てみました。

特別に大きな事は起こりません(笑)

タジキスタンあたりの中央アジアが舞台で、少年が旅をするホンワカした珍道中(笑)

眠くなりました(笑)

ロードムービーで、日本人からだと珍しい中央アジアの風景や風習を楽しめて、そこが良かったですね(笑)

全編セピア色の映画です。

タジキスタンって、どこなんだろ?と思い調べてみたら、

中国の西にあり、ウズベキスタンの東で、アフガニスタンやキルギスとも国境を接する国でした。

行ってみたい(笑)

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RAIN DOG

3.5まだ名前覚えられない。

2023年6月16日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

「ルナパパ」を偶然観てこの監督を知りました。
バフティヤル フドイナザーロフ、、なかなか覚えられない名前のタジキスタンの監督、28歳長編デビュー作です。

母が死に、田舎町でばあちゃんに預けられてる兄弟が街で医者やってる父ちゃんに会いに行くロードムービーです。ルナパパの後に観たから地味な印象ですがユーモアと優しさ、絵のダイナミックさはこの頃から感じます。ロードムービーは淡々としがちですが、運転手のチャラい兄ちゃんや、止まる駅ごとにエピソードがありちょうど良い匙加減でギリ退屈しません。
着いた先でも足漕ぎボートや超浅い湖?で水浴びなど、、なかなか地味な過ごし方で居心地悪し。

何故か鉄道、子供ロードムービー、共産圏繋がりで対極にあるソビエト映画の「動くな、死ね、甦れ」思い出しちゃいました。

決して感動的な名作ではないですが子供の頃の親への気持ちや旅、冒険、鉄道愛とかチクチクします。

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masayasama

4.5機関車映画の傑作

2023年6月7日
iPhoneアプリから投稿

バフティヤル・フドイナザーロフというタジキスタンの映画作家が弱冠26歳で手がけた長編デビュー作。遠隔地に住む父親に会いにある兄弟が機関車の旅に出るというロードムービーだ。

機関車というのは実に映画的な乗り物で、登場人物たちの織り成す運動の背景にもなれば、それ自体が運動の主体にもなる。たとえばアルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』では機関車はサスペンスドラマというソフトを作動させるハードウェアとしての意味合いが強い。一方でバスター・キートン『大列車追跡』では機関車それ自体があるときはバスター・キートンの拡張身体として、あるときはあたかも自我を持った一個の生き物として大活劇を繰り広げる。また自転車や自動車と異なり、走路があらかじめ決まっているという点も面白い。『新幹線大爆破』や『アンストッパブル』のような「暴走モノ」は、決められた線路の上を走る乗り物だからこそ成立するジャンル。主体と客体、生物と無生物の間を自由自在に往還するのが機関車という乗り物だ。

本作における機関車は、機関車という乗り物の変幻自在な性質を最大限に活かしていたように感じた。あるときは雄大なアジアの荒野に添えられた点景として、あるときは画面をダイナミックに貫く運動主体として、あるときはひたすら一定の速度とリズムを刻む精密機械として、あるときは操縦者の意に逆らって動き出す悪戯好きの動物として。隣の道路を並走する自動車とレースするシーンや、線路の両脇の崖の上から無数の石を投げつけられるシーンなどが特に印象的だ。旅の途中で電車に乗り込んできた綺麗な女たちに男どもが露骨に浮つきはじめた次のカットで、機関車と貨車の結合部を大写しにするモンタージュ演出も可笑しい。

活かし方が上手いのは機関車に限った話ではない。たとえば冒頭で少年(たぶんデブちん)が登っている奇形の煙突のような謎の建造物。そこを少年がスルスルと滑り落ちてくるところから物語が始動する。兄弟の家にかかったビニールカーテンは外部の風景をぐにゃりと歪ませ、そこはかとなく不安を煽る。線路の上に置かれた謎の網の上を少年たちがトランポリンのように飛び跳ね、その側方をショッピングカートを押す子供が爆速で駆け抜けていく。旅の途中の駅で乗り込んできたオッサンが20個以上ものポットを抱えていたり、白い羽のようなものが舞う巨大な鳥かごのような貨車の中で子供たちが走り回っていたり。親の赴任地では地元の青年たちが頭上の数字が書かれた筒を回してその数を競い合う謎のゲームに興じている。ウユニ塩湖のような浅瀬を梯子を抱えた若者たちが走り去っていき、そのあとには真っ白い椅子が浅瀬の真ん中にポツンと佇んでいる。デブちんと父親の愛人は二人三脚でパドルボートを漕ぎ、足場がほとんど崩れ落ちた桟橋に辿り着く。

フドイナザーロフは本作にして既にモノの魅せ方に通暁していたといっていいだろう。それらは単なる「映り込み」の領域を超えていきいきと躍動している。とりわけ旧共産圏にありがちな不可解で無機的な建築物やオブジェクトの運用は大したものだ、と思ってしまうのは私の浅薄なオリエンタリズムゆえだろうか。

映像が素晴らしいのはもちろんのこと、物語も洗練されており、無駄がない。

親探しの旅が徒労に終わるのは映画という媒体の宿命なのではないかと私はときどき思うことがある。北野武『菊次郎の夏』然り、テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』然り、アレ・アブレウ『父を探して』然り、子供たちの大いなる旅路は本来の目的(=父との再会=安住)を達成しえないまま復路を迎える。思うにそれは映画というものが本質的に運動を必要とする芸術媒体であるからではないか?

ゆえに兄弟は動き続ける。兄は「もう2、3日いろよ」と引き留める友人を振り払い、行きと同じ機関車に飛び乗る。兄が父親のもとへ置いていったはずの弟もまたいつの間にか貨車の中に乗り込んでいる。機関車は進み続ける。カタンカタンという心地よい一定のリズムを刻みながら、そして映画という媒体の宿命を抱え込みながら、元来た道をひたすら引き返していく。

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