市民ケーンのレビュー・感想・評価
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「薔薇のつぼみ」の意味することは。
まるで歴史的映像集を見ているかのような、全て史実と錯覚してしまう凄まじさ。「フォレスト・ガンプ」を連想しましたが桁の違いを感じます。古典的名作だからこそ出来た豪快な映画でした。
しかし、ストーリーは一貫したテーマ、「薔薇のつぼみ」とは何だったのか。最後に焼却されたソリがそうであったということですが、それの象徴するのは何のことなのか。私はそこが重要では無いかと感じました。「薔薇のつぼみ」、息を引き取る間際だけでなく、妻に逃げられ、部屋を荒らし、しかし、息を引き取る間際まで手にしていたガラス細工を手にした瞬間も思わず呟いた「薔薇のつぼみ」。
私はそれを「最初に失った物」と解釈したのですが、如何でしょう。まるで全世界の王、全ての富を得たかのような彼にとって、心に刻まれていくのは「失った物」。であるからこそ、妻を失った間際もまた、思わず呟いたというのが私の解釈ですが、如何でしょうか。
豪快にして繊細な素晴らしい映画でした。それにしても、最初と最後に流れるお城の映像は凄いなあ。立ったまま入れる暖炉なんて初めて見た。
ケーンという人物に、丁寧に触れるような作品構成が良い。
〇作品全体
チャールズ・フォースター・ケーンという超セレブな新聞王について、ケーン自身が自らを語らずにケーンの本当の姿を探っていく。ただ、その姿は全体像ではなく、誰かの語り口が間に挟まっている。
過去の人物を特集する実際のドキュメンタリーなんかではよく見る手法だけれど、(モデルの人物がいるといえど)物語の中でそれを表現することも面白かったし、同じシーンで別の人物の視点から語る…といったような演出も印象的だった。
ケーンがスーザンやリーランドから「相手に求めるくせに自分からはなにも与えていない」ということを言われるシーンが多々ある。別の立場の登場人物でありながら、それぞれが「ケーンはこういうやつだ」と話すことでケーンの実像が見えてくるように感じるが、これは「対人関係におけるケーン」という限定的な状況でのケーンであって、一人ぼっちでいるときのケーンを知る人は誰もいない。
作品の中の登場人物でありながらその人物の実像を知らないまま終わる。神の目線で見ているはずの観客ですら、登場人物の伝聞でしかケーンを知ることができないわけだ。そのブラックボックスこそがケーンが実際に生きていたように感じられ、ケーンが自身の葛藤を語るよりも「ケーンが抱えたなにか」を想像してケーンに寄り添うことができるのだと思う。
ただ、唯一観客が神の目線でいられたシーンがあった。ラストのソリが燃えるシーンだ。作中でポイントになる「バラのつぼみ」について、ある人は過去の妻のことだと思い、ある人はそうではないという。「たまにおかしなことを言うから」と流してしまう人もいて、最終的に「人生は一言で表せない」というトンプソンの言葉で「バラのつぼみ」の探求に結末が訪れてしまう。ただ、幼少期に使っていたソリに書かれていた言葉ということであれば、そこには「郷愁」や「母との別離」、「孤独」という言葉が浮かび上がる。「孤独」や「他者からの愛」は作中でも触れられている部分ではあるが、その根幹に触れられたものはなかった。その誰も知らない、もしくは忘れられてしまっているケーンの感情に、一番最後に触れるのは神の視点で見ている我々だ。ケーンに直接答えを聞いたわけではないが、作中の人物たちよりもケーンの原点に触れることができるラストシーンの絶妙な距離感がとても良い。
饒舌に、そして明確に語られるわけではないが、ケーンが抱え込んでいたものの終わりを見届けるようなラスト。登場人物だけが経験した「ケーンとのかかわり」と私たちだけが経験する「神の目線」、そのどちらに偏ることなく、手の指先でケーンの真実をなぞるような丁寧な作品構成が強く印象に残った。
〇カメラワークとか
・ローアングルや長回しも確かに印象的だったけど、一番はオーバーラップの使い方。冒頭のザナドゥ城のシーンからオーバーラップを続けていたけれど、ケーンの寝室を外から撮って、オーバーラップで窓の位置はそのままに屋内のカットに繋げているのがすごかった。
部屋の外からドアを開けて閉めて、ドアのアップショットで部屋内のカットに繋げる、とかもやってて、カット割りがめちゃくちゃカッコいい。
最近の作品のオーバーラップってスケールの大きさを演出するときに使われることが多い気がする。遠景のカットをオーバーラップでつなげて、世界観の広さだったり、舞台の派手さ、豪華さを印象付けたい、みたいな。7,80年代までの映画だとカット繋ぎでめちゃくちゃカッコいいオーバーラップがあったりして、カット割りの多様さを目的に使ってる感じがする。
・ケーンまわりは孤独を演出するカメラワークが多かった。新聞社を買収したときにパーティで一人ダンスを踊るケーンのシーンで、リーランドがバーンステインと今後の経営を不安視するカットがあったけど、ここでは二人の奥でガラスに反射するケーンが映る。そして話の終わりにガラスに映ったケーンにタバコの煙がかかる。「先行き怪し」をガラスを使ってうまく演出してた。
○その他
・大富豪としてたくさんのものを手に入れた人物が実は孤独だった…みたいなのは2022年ではありきたりだなあとは思う。ただその孤独の描き方ってすごく大事だなと思う。本作はそれがすごく上手だった。リーランドへ解雇を告げるシーンの冷め切った会話、スーザンとのザナドゥ城での距離感、スーザンが去って行くのを見つめる後ろ姿…その場の空気感だったり、立ち姿で見せる空虚な感覚が巧い。
ケーン自身が孤独を訴えるシーンも結局スーザンとの別れのシーンくらいだし、ケーンが独白できない構成でセリフで訴える場面が少ないから、尚更その場の空気感とかが重要になってるんだろう。
【貧しい宿屋の子として産まれた新聞王チャールズ・F・ケーンの傲慢さと弱者への優しさが入り混じった波乱万丈の生涯を描く逸品。ラストの”薔薇の蕾”が焼けるシーンを含め印象的なシーン満載作品である。】
■貧しい宿屋の子として産まれながら、裕福な銀行家に預けられ、その後、新聞王として君臨し、絶大な権力を振るった男ケーン(オーソン・ウェルズ)が大邸宅の中、一人寂しく逝去する。
記者トムスンは、彼が死の間際に呟いた「薔薇の蕾」(Rose bud)という言葉の意味を探っていく。その出自から新聞王として登りつめていく過程を追ううちに、トムスンはケーンの波乱にして孤独な人生を知って行く。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・後年、デビッド・フィンチャー監督の「Mank/マンク」(とても面白い逸品である。今作をオーソン・ウェルズと共同で脚本を書き上げたハーマン・J・マンキーウィッツを主人公としている。)を鑑賞し、今作も観ようと思いつつ、幾星霜って訳でもないが、その名作さを理解するのがナカナカに難しいという事だけは知っていた。
・で、正直に書くけれども面白かったな。
その面白さは冒頭、老いたチャールズ・F・ケーンが荒廃したザナドゥ城で一人”Rose bud”と呟きベッドの上で息絶えるシーンの口のドアップや、暗いザナドゥ城のハイアングルからの映し方かな。
どうやって、撮ったのかな。
あと、勝手に思ったのは、オリビア・ニュートンジョンのヒット曲”ザナドゥ”ってこの映画からインスパイヤされたんじゃないかなって、勝手に思ったな。
歌詞を見ると”誰も行かなかった場所”というフレーズから始まっているし、今作でも描かれているけれど、クビライ・カーンがモンゴルに作った都の事でもあるし、桃源郷って意味もあるよね。
・陰影のつけ方も、当然上手くって、ケーンの波乱万丈の人生を効果的に見せているよね。
・あと、最初の奥さんとの関係性が冷えて行く過程を、短いショットでラブラブだった頃から最後はお互いに新聞を読んで一言も口をきかない姿を時間を越えて連続して見せる事で表現している所かな。
・更に言えば、ケーンの虚飾と傲慢さと弱者への優しさが入り混じった複雑な性格の描き方かな。オーソン・ウェルズの貫禄のある演技は凄かったな。
華やかなパーティのシーンや、彼が愛した歌手を夢見ていたスーザンとの出会いから、その事が原因で、最初の奥さんと別れ、政敵ゲティスとの選挙にも破れ、果てはガランとした彼女のために建てたザナドゥ城の中での、二人の冷え切った会話のシーンの見せ方も、彼の波乱万丈の人生そのものだしね。
で、ザナドゥ城の中のシーンはヤッパリ、ハイアングルやロングショットで撮っていたりね。
・彼の非情な面も、しっかりと撮られているよね。クロニコル紙から引き抜いた友人リーランドが、スーザンの公演の酷さを書きながら寝てしまっている所にやって来て、その記事を見て自分で記事を書き直すシーン。
ケーンは起きて来たリーランドに冷たく”君は首だ!”と言い、タイプライターを打ち続ける姿は、悲哀と負けず嫌い、自分の過ちは認めないという傲慢さが複雑に漂っていたよね。
<そして、ヤッパリ、ラストが凄いんだよね。ケーンが死んだ後に彼が遺した遺品が次々に燃やされて行くんだけれども、その中にケーンが子供の時に銀行家に引き取られる時に遊んでいた橇があって、その橇には”ROSE BUD"って記されているんだよね。
その橇はあっと言う間に炎に包まれて、燃えて行き、ラストはザナドゥ城を下から見上げるように撮るショットと、冒頭と同じくフェンスが映されてそこには”立ち入り禁止”の看板が取り付けられているんだよね。
今作は、貧しい宿屋の子として産まれたチャールズ・F・ケーンの虚飾と傲慢さと弱者への優しさが入り混じった波乱万丈の生涯を描く逸品であり、あの”ROSE BUD"って言葉をケーンが最期に呟いたのは、人生の中で一度も芯から人に愛されなかった彼の哀しさを見事に表現しているのではないかな、と思ったな。じゃーね。>
最後の最後で明かされる
多くの人に評価される本作は今更語る必要もないですが素晴らしい映画です。
「バラのつぼみ」と死ぬ直前に語った大富豪ケーン氏。
「バラのつぼみ」とは一体何なのか…。
「バラのつぼみ」は彼にとって人生の分岐点だったのですね。あの時ああしていれば…。
素晴らしい映画です。
ローズ・バッド‼️
映画の歴史を語る上で欠かす事の出来ない映像テーマパーク‼️今では当たり前となってるパン・フォーカスを初めて取り入れた超絶撮影の数々‼️確かに当時の他のモノクロ作品に比べると、ピントが合いすぎてて、まるで昨日撮影したみたい‼️時空を錯綜させた物語構成と音楽みたいなリズミカルなテンポで、まるでケーンという人物の生涯がジェットコースターのように観ている我々の脳裏を駆け抜ける‼️パン・フォーカスやフラッシュバックなんて今では散々使い古されてる手法なので、この「市民ケーン」で観せられても何も驚く事はない‼️映画史の伝説として語られてきたそれらの事を抜きにしても、この「市民ケーン」という作品はめちゃくちゃ面白いお話であり、衝撃的でしびれるようなエンターテインメントなのです‼️有名な新聞王が死の間際に残した言葉「薔薇のつぼみ」とは何だったのか⁉️ストーリーはそれだけ‼️闇夜のケーンの大邸宅での「薔薇のつぼみ」(まるでホラー映画みたい)、ニュースフィルムの活用のうまさ、そして基本的には一人の男の生涯を探っていくという探偵小説のスタイル‼️金も女も名誉も権力も全てを手に入れ、その全てを失った男が死の間際に思いを馳せたのは、幼き日の母との思い出だったなんて、泣けるじゃないですか‼️オーソン・ウェルズが若干25歳で撮ったのが信じられないとか言われてますけど、逆に25歳という若さがあったからこそ撮れた傑作ですね‼️間違いありません‼️
映画史に残る作品
映画史に残る作品として有名な作品。
この作品が作られたのは、およそ80年くらい前になる。
映像が白黒で見ている感じにも激しいシーンとかは、ないのだがこの時代でこれだけの撮影技術は、今でも通ずるものがあるなと感じました。
作品としては、なかなかみるのには、辛いと感じました。
脚本としては、ものすごい練られているのだろうと感じるのだけど、今の激しい映像に慣れてしまって、淡々としているような感じに思ってしまった。
この作品の凄さは、この作品が作られた背景を知ることで分かるのかなと思いました。
アレックス・シアラーのスノードームはこの映画をリスペクトしている?
ネタバレあります。
マスコミが市場経済に毒される姿を、赤裸々に描いたドラマだと思う。
現在のアメリカ大統領選挙戦とかと酷似している。つまり、第二次世界大戦中に制作された話としては、実によくできた話だと思う。
『薔薇の蕾』とは『スノードーム』で、『スノードーム』の内側の世界は、市場経済と言う一見華やかだが、閉塞したアメリカ社会を意味している様に感じた。
『薔薇の蕾』を含めたガラクタを燃やす煙が、アメリカ大陸の様に立ち上っている。アメリカ資本主義の生み出す余剰なガラクタが、人民の幸せとあいまって灰と化している。
まぁ、そんな事言っているのかなぁ?
スーザンのアリアを決して良いものだとは思っていなかった。しかし、新聞では褒めなければならない。その矛盾に身を滅ぼす、と言った単純なストーリーなのだが、オーソン・ウェルズの凄い所は、この映画の演出にある。つまり、
この映画の存在は時代は超越しているが、演技もオーバー出し、ストーリー展開もチープだし、笑いもなければ、サスペンス性も無い。カットごとのショートコントの寄せ集めの様だ。ハッキリ言うと僕は駄作だと感じた。がしかし、オーソン・ウェルズの凄い所は、それを知っていて、演出を続けたのではないか。と言う事だ。
僕の鑑賞は二回目たが、途中眠くなって、3時間かけて、やっと見た。
オーソン・ウェルズの心の中は、この映画と宇宙戦争は、同じだったのではないかと感じる。つまり、見る者、聞く者をいかにコントロール出来るかを楽しでいたように思える。その観点で見れば、この映画が名作である必要は無い。寧ろ、名作ぽい駄作である必要がある。つまり、鑑賞者を『宇宙戦争』の様に騙しているのである。
『マンク』とか言う映画を一年くらい前に見て、半分以上寝ていたが、オーソン・ウェルズの脚本ではないと知り、チープなストーリーを名作っぽく作った努力は認めたい。
アカデミー脚本賞との事だが、まゆつば。寧ろ、監督賞だろうと思った。
見た後の哀しさがとまらない
薔薇の蕾の謎を追って花びらをめくるように
メディアの視点から身内の視点へ、外側から内側へケーンという花をめくっていったら何もない空虚に辿りついてしまった様で哀しさが込み上げてきました。
剥いていったら玉ねぎみたいになっちゃったよ。
蕾の神秘性はめくれば無くなり、花が開く過程の人生の成功と鮮やかさは大輪の花の様で、人が離れていく過程も鮮やかな転身から最後の1枚の哀れさまで。映画一本が人生の花を見ているようでした。
人は心の中に中に自分自身の真実を求めがちだけど咲いて終わる過程が生き様でその人の形なんでしょうね。
途中ケーン自身が自分の子を手放しているのが気になって、その子もケーンと同じようにある日突然父親に捨てられたと思って生きていたら莫大な財産が舞い込んでくるんだろうなと思うと因果は形をかえて続いていくのかもしれないですね。
親は何かしらの空虚な希望を子供にいだかせ、それがまた新たな蕾になるのなら花が咲いたら実ががみのるという事で哀しいながらも救いはあるのかも。花を咲かせる人生ってそういった蕾の中心の虚みたいなものがあるのかもしれないです。まあ、妄想ですが。
なんともセンチメンタルになる一本でした。
1941年、迸る才能
オーソン・ウェルズ、25歳のデビュー作に感服。画面展開・アングル・遠近感・モンタージュなど塩蔵編集など、今ではみんなやることだけど、当時は追いつけず否定的だったようだ。
冒頭から20分、ホラー映画のような導入部は、そこから始まるケーンの人生の不気味さと通じている。
財産・勝ち負け・城や彫像といった資産と、彼が得られなかった愛や友情・心からの賞賛・名声。小市民には貧乏でもこれよりは幸せという安心感か。確かに、倉庫に開梱されていない美術品が並ぶシーンの虚しさは哀れをさそう。
2人目の奥さんと末永く幸せになるとか救いが全くなく、妥協しない徹底さがいさぎよい。とにかく。この時代でこれだけの作品、ネットワークを制する者が勝者という構図を予想した先見性は秀逸。
皮肉にもそれがあだとなって、新聞王ハーストに妨害され、審査員の忖度も相まって賞レースから落ちているが、記憶に残る作品であるのは間違いない。
映画史上最高傑作と呼ばれる理由は一目見ただけじゃ分からない
「映画史上最高傑作」として名前を知られる本作。10年ごとに発表される英国映画協会の歴代映画ランキングでは5回連続で第一位にランクインし、AFI選出の歴代アメリカ映画ベスト100でも第一位となっており、名実共に「映画史上最高傑作の映画」です。
しかしながら、映画レビューサイトを観てみると、そこまで評価が高いようには見えません。私も本作を鑑賞して抱いた感想が「確かに面白かったけど、普通の映画」でした。
しかし、鑑賞後に本作について調べてみて納得しました。『市民ケーン』は、現代映画まで続く「普通の映画」を作り上げた革新的な映画なのです。本作が史上最高の映画と呼ばれる所以は、当時の映画事情や時代背景を含めて考えることで理解することができます。
本作を鑑賞して「普通の映画だった」と感じた方々。どうかそこで思考停止せずに調べてみてほしい。インターネットやYouTubeという文明の利器を使えば、何故この作品が史上最高の映画と称えられているのかを理解できるはずです。
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大富豪の新聞王であるケーン(オーソン・ウェルズ)が、「バラのつぼみ」という言葉を残してこの世を去った。ニュース映画を製作していた編集者たちは、彼の遺した言葉の意味を突き止めるために、彼と生前交流があった関係者たちにインタビューをして回るのだった。
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駆け抜けた人生〜愛おしい記憶
がむしゃらに生きた新聞王チャールズ・フォスター・ケーンの生涯を描く。
監督、主演を務めたオーソン・ウェルズが、撮影当時25歳とは…。驚きでしかない。
二人目の妻スーザンが、オペラのレッスンを受けるシーンが軽妙。ー「 ムリなものはムリ!」
思い起こす人生のワンシーンは、人それぞれに違うのでしょうね。
ー人生はひと言では表せない
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕版)
下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 時代を先取りしすぎたことで、逆に凄さが分からなくなってしまったという感じも…。
メディア王チャールズ・ケーンの遺した最後の言葉「バラのつぼみ」。編集者のトンプソンが、ケーンの関係者に話を聞いて回りながらこの言葉の真相を解き明かそうとするという、ミステリー調なドラマ映画。
第14回 アカデミー賞において、脚本賞を受賞!
第7回 ニューヨーク映画批評家協会賞において、作品賞を受賞!
「史上最も偉大な映画とは何か?」
という突拍子もない問いの答えとして、いの一番に挙げられるのがこの作品。
後の映画作品に大きな影響を与えたと言われているのも納得の、堂々とした映画でした!
本作の凄さは主に3つ。
一つは、時の権力者「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストに真っ向から喧嘩を売ったこと。
作中でこそ名前がチャールズ・ケーンとなっているが、モデルがハーストであることは一目瞭然。
ケーンは私設動物園が併設された「ザナドゥー」という城に居を構えているが、これも事実。
ハーストの住んでいた城は今ではカリフォルニア州サン・シメオンという街の観光名所になっている、らしい。
ちなみに「ザナドゥ」=上都とは、後に元の皇帝となるフビライ・ハーンが南宋を攻略する為に設けた都(モンゴルは遊牧国家なので、夏の都は上都、冬の都は大都=北京と定め、皇帝は季節移動していた)。
何故、ケーンの建造した大邸宅がザナドゥと呼ばれるのか疑問だったが、どうやらマルコ・ポーロが「東方見聞録」の中でザナドゥを紹介したことにより、ヨーロッパ人の中では歓楽の都=ザナドゥというイメージが定着したようですねぇ。ふーん。
本作が作られた1941年といえば、アメリカでテレビ放送が本格的に始まった年。もちろんインターネットはまだない為、情報メディアは新聞かラジオくらいのもの。
ハーストは新聞のみならずラジオ界にもその版図を広げており、映画業界でも絶大な影響力を誇った。
そんな相手を敵に回しては、今後の映画人としてのキャリアがどうなってしまうのかは想像に難くない。
しかし、それでもこんな作品を作っちゃったんですよ!オーソン・ウェルズという人は!
この漢気!長いものには巻かれないという決意!
権力には靡かないという精神、正しいものを描こうという志、これこそが真に讃えられるべきクリエイター魂でしょう。
これは本来メディアが取るべき態度であるはず。しかし、ありもしない事実を作り上げ、終いには「米西戦争」という戦争まで引き起こしたハーストにはこの精神が欠けていた。
真実を伝えるべきであるにも拘らず、金や名誉の為に信憑性を欠いた情報を垂れ流すメディアの欺瞞を、虚構を娯楽として提供する映画という媒体が明らかにするという構図はなんとも皮肉なものですね。
凄さの二つ目は撮影手法や演出の先進性。
時系列が行ったり来たりするという、直線的ではない作劇法。
長回しやパン・フォーカス、ローアングルの多用といった撮影手法。
自由自在なカメラワーク、etc。
周りがあまりにも真似してしまったことにより、画期的だった技法が一般化され、現代の観客の視点では「うーん、何が凄いのか分からん。」となってしまう、「手塚治虫現象」(と自分が勝手に呼んでいる)が起こってしまっているのは、仕方がないこととはいえ損しているよなぁ〜、と思ってしまう。
今から80年前の作品だということを鑑みれば、とんでもないことをしていると気付くんだけどねぇ。
撮影手法に詳しくない自分でも、本作ではやけにローアングルが使われているなぁ、というのは気付いた。
当時の馬鹿でかいカメラを使って、どうやってローアングルで撮影しているのかしらん?と思って調べたら、穴を掘ってそこにカメラを突っ込んで撮影するという、シンプルでパワフルなやり方のようだった。
『戦場のメリークリスマス』で、大島渚がローアングル撮影の為に穴を掘っていたところ、それを見ていたビートたけしが「役者を台の上に立たせりゃいいんじゃないですか?」とつぶやいた。
それを聞いた大島渚がすごい剣幕で「なんでもっと早く言わないんだ!!」と怒鳴った、という笑い話をたけしがしていたのを聞いたことがあるけど、なんかそれを思い出した。大島渚も『市民ケーン』を観ていたんだろうなぁ。
凄さの三つ目。
それはやはりオスカーも獲得した脚本の見事さ!
ハーストの妨害があり、オスカーでは作品賞も監督賞も主演男優賞賞も撮影賞も取れなかったというのが定説。
しかし、
そんな中でも脚本賞だけは受賞せざるを得なかったという事実。これだけでも本作の脚本が素晴らしい完成度だという証明になっている。
①大富豪の死というキャッチーな起点。
②「バラのつぼみ」というロマンティックだがどこか不穏なダイイング・メッセージ。
③その真相を探る探偵的な人物の登場。
④ケーンの人物像は本人を取り巻く他者からの証言でのみ構築される。
⑤結局「バラのつぼみ」に明確な解答は与えられていない。
この5つのポイントが、非常に上手く絡み合って作品を向上させている。
①②③は、物語を盛り上げる為の重要なファクターではあるが、そこまで真新しいものでもない。
ポイントは④と⑤だと思う。
④により、ケーンという人物の主観は徹底的に排除されている。
それぞれの証言がどれだけ信憑性に足るものなのか、それを判断するのは観客である。彼らの発言はそれぞれの人物のフィルターを通して語られているものであり、そうである以上、本作で描かれているケーンの姿が、本当に真実の姿がどうかはわからないのである。
これは『ゴッホ 最期の手紙』というアニメ映画がそのまま使用していたなぁ🙄
本作で描かれるケーンの姿は不確実なものである。そうである以上、「バラのつぼみ」に明確な一つの答えを出すことは出来はしない。
普通なら明確な答えをオチに持ってこないとミステリー映画は成立しないんだけど、本作ではその不明瞭さ自体が物語のバランスを保っている。
不確実な人物像、不明瞭な解答、何が真実なのかわからないふわふわとした空虚さは、ケーンの作り上げた新聞記事のようだ。
明確なものはわからないまま、全ては炎の中に消えていく。
ただ一つの真実として描かれているのは、少年時代に遊んでいたそりに「バラのつぼみ」という文字が描かれていたことだけである。
このたった一つの真実を下に、「さあ観客の皆さん考えてくださいよ」という姿勢が、本作を真にミステリアスに仕立て上げており、それこそがこの作品が未来永劫にわたり鑑賞されるであろうことの、強力なバックボーンになっているのだろう。
これら5つのポイントに加え、ケーンの収集癖と妻スーザンのジグソーパズルという趣味が物語全体のメタファーになっている点も興味深い。
とにかく、色々なことを考えられる映画史に残るマスターピース。
でも、面白いか面白くないかで言えば全然面白くはない。
結末は最初から明示されており、そこへどのように収束していくのかを描いている作品なので、まぁ物語への求心力はない。
それに、一つ一つの回想が冗長でダレる。
スピーディーでテンポ感のある現代の作品に慣れ親しんでいる自分のような現代人には、この2時間はなかなかに長く感じるだろう。
冒頭の10分とクライマックスの10分、ここは素晴らしいと言えるのだけど、間の100分は眠かったなぁ〜…😪💦
『機動戦士ガンダム』のギレン・ザビの演説の元ネタは『市民ケーン』だったんだ〜。という感じの感想です。
映画史に興味のある人なら必見の一作だけど、それ以外の人にはおすすめ出来ないっす。退屈するよ🥱
映画の内容には関係ないけど小言。
DVDで鑑賞したんだけど、あまりにも字幕のクオリティが酷いっ!!
パブリック・ドメインの作品だからというのもあるのかも知れないが、誤字脱字のオンパレードで頭が痛くなった。
なんで「チャールズ・ケーン」が「ケーン・ケーン」になるんだ!?
途中からは、分かりもしない英語を必死にリスニングしていました。
映画をもっと楽しむ為に、英語を習得するのは必須事項なんだということを実感した一作でした。
けっこうよかった
高校の時にリバイバル上映で見た時は歴代1位の大傑作というので期待して見たせいか、全然ピンとこなかった。改めて『マンク』を見るに際して、アマゾンプライムビデオで見たら、なんと里親映画だった。実のお母さんの計らいでいい教育を受けられたのにも関わらず、愛情に飢えてしまうのは、親元から離れるのが早すぎて愛着障害があったかのような描かれ方だ。
わからん。。
私のこの点数は善し悪しとかじゃなくて自分的にハマったかの指標なんだけど、この4.0をつける時は普通に面白かった時と、よく分からなかったけどこの作品に3点台とか失礼、という意味があります。この作品は後者でした。町山さんの解説聞いて勉強してからもっかい見ます。.
新聞社を経営し、政治活動も活発に行い、晩年は1人の女優に入れ込み大豪邸に住んでいたじいちゃんが「バラのつぼみ」という言葉を最後に亡くなり、その意味を調査しながらケーンの人生を描く話。
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最初に言ってしまうと「バラのつぼみ」という言葉は、ケーンを表すパズルのピースにすぎない(劇中で誰かが言っていた)。この映画、調査のために、仕事仲間やケーンが愛した女優などいろんな人が出てきてケーンの話をするけど
、それぞれが見たケーンが描かれているだけ。
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人は色んな面があるし、100人いれば100人分のケーンの話がある。皆同じ話はきっとしない。そういうことを「バラのつぼみ」という言葉が表してたんかな。シャレてるな。
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