「下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 時代を先取りしすぎたことで、逆に凄さが分からなくなってしまったという感じも…。」市民ケーン たなかなかなかさんの映画レビュー(感想・評価)
下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 時代を先取りしすぎたことで、逆に凄さが分からなくなってしまったという感じも…。
メディア王チャールズ・ケーンの遺した最後の言葉「バラのつぼみ」。編集者のトンプソンが、ケーンの関係者に話を聞いて回りながらこの言葉の真相を解き明かそうとするという、ミステリー調なドラマ映画。
第14回 アカデミー賞において、脚本賞を受賞!
第7回 ニューヨーク映画批評家協会賞において、作品賞を受賞!
「史上最も偉大な映画とは何か?」
という突拍子もない問いの答えとして、いの一番に挙げられるのがこの作品。
後の映画作品に大きな影響を与えたと言われているのも納得の、堂々とした映画でした!
本作の凄さは主に3つ。
一つは、時の権力者「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストに真っ向から喧嘩を売ったこと。
作中でこそ名前がチャールズ・ケーンとなっているが、モデルがハーストであることは一目瞭然。
ケーンは私設動物園が併設された「ザナドゥー」という城に居を構えているが、これも事実。
ハーストの住んでいた城は今ではカリフォルニア州サン・シメオンという街の観光名所になっている、らしい。
ちなみに「ザナドゥ」=上都とは、後に元の皇帝となるフビライ・ハーンが南宋を攻略する為に設けた都(モンゴルは遊牧国家なので、夏の都は上都、冬の都は大都=北京と定め、皇帝は季節移動していた)。
何故、ケーンの建造した大邸宅がザナドゥと呼ばれるのか疑問だったが、どうやらマルコ・ポーロが「東方見聞録」の中でザナドゥを紹介したことにより、ヨーロッパ人の中では歓楽の都=ザナドゥというイメージが定着したようですねぇ。ふーん。
本作が作られた1941年といえば、アメリカでテレビ放送が本格的に始まった年。もちろんインターネットはまだない為、情報メディアは新聞かラジオくらいのもの。
ハーストは新聞のみならずラジオ界にもその版図を広げており、映画業界でも絶大な影響力を誇った。
そんな相手を敵に回しては、今後の映画人としてのキャリアがどうなってしまうのかは想像に難くない。
しかし、それでもこんな作品を作っちゃったんですよ!オーソン・ウェルズという人は!
この漢気!長いものには巻かれないという決意!
権力には靡かないという精神、正しいものを描こうという志、これこそが真に讃えられるべきクリエイター魂でしょう。
これは本来メディアが取るべき態度であるはず。しかし、ありもしない事実を作り上げ、終いには「米西戦争」という戦争まで引き起こしたハーストにはこの精神が欠けていた。
真実を伝えるべきであるにも拘らず、金や名誉の為に信憑性を欠いた情報を垂れ流すメディアの欺瞞を、虚構を娯楽として提供する映画という媒体が明らかにするという構図はなんとも皮肉なものですね。
凄さの二つ目は撮影手法や演出の先進性。
時系列が行ったり来たりするという、直線的ではない作劇法。
長回しやパン・フォーカス、ローアングルの多用といった撮影手法。
自由自在なカメラワーク、etc。
周りがあまりにも真似してしまったことにより、画期的だった技法が一般化され、現代の観客の視点では「うーん、何が凄いのか分からん。」となってしまう、「手塚治虫現象」(と自分が勝手に呼んでいる)が起こってしまっているのは、仕方がないこととはいえ損しているよなぁ〜、と思ってしまう。
今から80年前の作品だということを鑑みれば、とんでもないことをしていると気付くんだけどねぇ。
撮影手法に詳しくない自分でも、本作ではやけにローアングルが使われているなぁ、というのは気付いた。
当時の馬鹿でかいカメラを使って、どうやってローアングルで撮影しているのかしらん?と思って調べたら、穴を掘ってそこにカメラを突っ込んで撮影するという、シンプルでパワフルなやり方のようだった。
『戦場のメリークリスマス』で、大島渚がローアングル撮影の為に穴を掘っていたところ、それを見ていたビートたけしが「役者を台の上に立たせりゃいいんじゃないですか?」とつぶやいた。
それを聞いた大島渚がすごい剣幕で「なんでもっと早く言わないんだ!!」と怒鳴った、という笑い話をたけしがしていたのを聞いたことがあるけど、なんかそれを思い出した。大島渚も『市民ケーン』を観ていたんだろうなぁ。
凄さの三つ目。
それはやはりオスカーも獲得した脚本の見事さ!
ハーストの妨害があり、オスカーでは作品賞も監督賞も主演男優賞賞も撮影賞も取れなかったというのが定説。
しかし、
そんな中でも脚本賞だけは受賞せざるを得なかったという事実。これだけでも本作の脚本が素晴らしい完成度だという証明になっている。
①大富豪の死というキャッチーな起点。
②「バラのつぼみ」というロマンティックだがどこか不穏なダイイング・メッセージ。
③その真相を探る探偵的な人物の登場。
④ケーンの人物像は本人を取り巻く他者からの証言でのみ構築される。
⑤結局「バラのつぼみ」に明確な解答は与えられていない。
この5つのポイントが、非常に上手く絡み合って作品を向上させている。
①②③は、物語を盛り上げる為の重要なファクターではあるが、そこまで真新しいものでもない。
ポイントは④と⑤だと思う。
④により、ケーンという人物の主観は徹底的に排除されている。
それぞれの証言がどれだけ信憑性に足るものなのか、それを判断するのは観客である。彼らの発言はそれぞれの人物のフィルターを通して語られているものであり、そうである以上、本作で描かれているケーンの姿が、本当に真実の姿がどうかはわからないのである。
これは『ゴッホ 最期の手紙』というアニメ映画がそのまま使用していたなぁ🙄
本作で描かれるケーンの姿は不確実なものである。そうである以上、「バラのつぼみ」に明確な一つの答えを出すことは出来はしない。
普通なら明確な答えをオチに持ってこないとミステリー映画は成立しないんだけど、本作ではその不明瞭さ自体が物語のバランスを保っている。
不確実な人物像、不明瞭な解答、何が真実なのかわからないふわふわとした空虚さは、ケーンの作り上げた新聞記事のようだ。
明確なものはわからないまま、全ては炎の中に消えていく。
ただ一つの真実として描かれているのは、少年時代に遊んでいたそりに「バラのつぼみ」という文字が描かれていたことだけである。
このたった一つの真実を下に、「さあ観客の皆さん考えてくださいよ」という姿勢が、本作を真にミステリアスに仕立て上げており、それこそがこの作品が未来永劫にわたり鑑賞されるであろうことの、強力なバックボーンになっているのだろう。
これら5つのポイントに加え、ケーンの収集癖と妻スーザンのジグソーパズルという趣味が物語全体のメタファーになっている点も興味深い。
とにかく、色々なことを考えられる映画史に残るマスターピース。
でも、面白いか面白くないかで言えば全然面白くはない。
結末は最初から明示されており、そこへどのように収束していくのかを描いている作品なので、まぁ物語への求心力はない。
それに、一つ一つの回想が冗長でダレる。
スピーディーでテンポ感のある現代の作品に慣れ親しんでいる自分のような現代人には、この2時間はなかなかに長く感じるだろう。
冒頭の10分とクライマックスの10分、ここは素晴らしいと言えるのだけど、間の100分は眠かったなぁ〜…😪💦
『機動戦士ガンダム』のギレン・ザビの演説の元ネタは『市民ケーン』だったんだ〜。という感じの感想です。
映画史に興味のある人なら必見の一作だけど、それ以外の人にはおすすめ出来ないっす。退屈するよ🥱
映画の内容には関係ないけど小言。
DVDで鑑賞したんだけど、あまりにも字幕のクオリティが酷いっ!!
パブリック・ドメインの作品だからというのもあるのかも知れないが、誤字脱字のオンパレードで頭が痛くなった。
なんで「チャールズ・ケーン」が「ケーン・ケーン」になるんだ!?
途中からは、分かりもしない英語を必死にリスニングしていました。
映画をもっと楽しむ為に、英語を習得するのは必須事項なんだということを実感した一作でした。