詩人の血のレビュー・感想・評価
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演劇を観ているよう
ジャン・コクトー特集にて鑑賞。 詩的で抽象的な内容なのは想像通りだが、様々な視覚的なトリックと、限られた舞台を転々としていく様は舞台のようでもあり、作品として楽しめた。 微かに理解できる比喩も当時が垣間見える。 とはいえ、理解できない部分が多いのは間違いないけれど笑 2023年劇場鑑賞60本目
もっとヒリヒリするような前衛が観たかった!
かれこれ、もう30年以上、ついつい観る機会を逸していた本作。 やっぱり、こういう映画はスクリーンでないとピンとこない。 しかし… う〜ん… もっと前衛的で、コクトーならではのマジックがあると思ってたが、そうでもなかった。 だいぶ昔に、特に前衛ではないが、より完成度の高い『オルフェ』や『美女と野獣』等を見てしまっているのもあるとは思うが… そういった意味で言えば『オルフェ』のプロトタイプと言えなくもないが(鏡へのダイブとか、フィルムの逆回転とか、それに竪琴…) であれば、もっとプロトタイプらしく先鋭的に攻めて欲しかった。 アイデアは諸々と良かったのだが、鮮烈な印象を残すようなショット(構図やライティングも含めて)がチョット足りない。 (これも先に『オルフェ』を見てしまっているせいかもしれない) 映画で詩を表現しているというよりは、どちらかというと観念的で説明的。 あと、音楽がイマイチ退屈だったのもマイナス要因。 あの世界観のサウンドトラックに合うような、もっと前衛的な作品、当時は他にもあったのに。 まあ、『オルフェ』好きは、参考までに観ても損はないかも。 あと、リー・ミラー、喋って動いてるの初めて観たけど、やっぱりイイ女だねえ。
コクトーによる、詩人と女神が織り成す前衛映画。「映画」につらなるギミックの数々に注目。
『オルフェ』に引き続き視聴。 ただし、こちらのほうが大分古い映画である。 ノリとしては、明らかにブニュエル&ダリの『アンダルシアの犬』(1928)や『黄金時代』(1930)の向こうを張るような前衛映画で、実際に本作は『黄金時代』と同時期に、同じパトロンのシャルル・ド・ノワイユ子爵の全面的な出資によって製作されている(製作時期の被る『黄金時代』との影響関係は定かではなく、コクトー自身はブニュエル自体を観たことがないと言い張っていたようだ)。 パトロンとしては、ブニュエルに実写映画、コクトーにはアニメーションを依頼したらしいが、結局コクトーの撮った映画もまた実写であった。 『アンダルシアの犬』と『詩人の血』を、似たり寄ったりの作品と考えるか、似て非なるものと考えるかは、語り手の立ち位置や論の立て方で、正直どちらともいえるものかもしれない。 少なくとも、シュルレアリストたちと激烈に対峙していたコクトーからすれば、「いやいや、あいつらと俺とではやり方がぜんぜん違うだろうが」と言いたいところだと思うが。 コクトー自身は、「表情、形式、身振り、音楽、幕数、場所を自由に選び、非現実的な出来事を現実にした記録映画である」と述べているそうで、夢の自動筆記として意識下の深層心理に分け入ろうとするシュルレアリスムとは、若干異なる方法論を呈示している気もする。 ただ、その詳細について僕にはまったく知識がないから、ここでは深入りしない。 映像表現として素人感覚で観て素直に感じたのは、意外なくらい『オルフェ』と似たような印象であった。 すなわち、こんなあたりだ。 ① トリック撮影への子どものような純粋な関心と興奮の発露 ② 同性愛者としての美意識や感性、距離感の発露 ③ 詩人としての自意識とわがままさの野放図な発露 『アンダルシアの犬』が、どこかグロテスクでショッキングな暴力描写の頻出する、「元祖スプラッタ映画」とでも呼びたくなるような殺伐とした作品であるのに対して、『詩人の血』のほうは、同じく暴力的な描写や人死にも出てくるものの、総じてずいぶんと牧歌的であっさりした印象を与える。この印象差の淵源としては、『詩人の血』が『アンダルシア』ほど「観客をドキッとさせる」「ぎょっとさせる」こけおどしに主眼を置かず、「面白いトリック撮影やシチュエーションを見せつけてやろう」という「稚気」のほうを前面に打ち出している部分が大きいように思う。 もちろん、ジョルジュ・オーリックによる、ミヨーやプーランク風のちょっと陽気で軽快な音楽の印象も大いに影響を与えていることだろう。 さらに、ある種のアクション性(動き)があって、実験的ではあるがすこぶる「映画」らしかった『アンダルシアの犬』と比べると、『詩人の血』のほうはずいぶんと「絵画的」――より正確にいえば、静止画の三次元化と特撮のアイディアを数珠繋ぎにしていくような、「タブロー・ヴィヴァン」(活人画)的なあり方が際立っているように思う(実際、冒頭の字幕で出てくるのは、ピサネッロ、パオロ・ウッチェロ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、アンドレア・デル・カスターニョといったルネサンス期の画家たちである)。 「タブロー・ヴィヴァン」とは、19世紀に大流行した、舞台上で人間によって絵画(とくに裸体像の出てくる神話画)および彫刻を「再現」してみせる見世物で、のちの映画芸術にも深く影響を及ぼした。グリフィスなど無声映画の監督のほか、ゴダールやグリーナウェイなどもこの手法を援用しているし、最近観た映画だとパゾリーニが、短編『リコッタ』や長編『カンタベリー物語』で活人画を表現として用いていた。 この映画を観ていると、どこか、四つのセクションに分かれた現代芸術の展覧会でも見て回っているような気分になってくるのも、この「タブロー・ヴィヴァン」っぽいアプローチゆえのことだろうと思う。 さらに言えば、「ミロのヴィーナス」のような、手のない女性の彫像がしゃべるとか、白塗りにした女性が彫像役を務めるとか、逆に詩人が彫像化して校庭でハナ肇になる、といった作品内のギミック自体が、そのまま「タブロー・ヴィヴァン」に由来するものだ。 内容的なことをいうと、しょうじき筋はあってないようなものだが、「詩人」と「女神」の駆け引きがあって、「女神」が鏡の向こうの世界へと「詩人」をいざない、そこで経験した奇怪な出来事を踏まえて、「詩人」は桂冠を得て「彫像」と化す。「詩人」を象徴するのは「竪琴」で……って、あれ? 考えてみると『オルフェ』とそっくりじゃないのか、この話? たとえば、最初のエピソードは、こんな感じだ。 冒頭、煙突が崩れ始めるショットのあと、どこかの部屋で古臭い貴族のかつらをつけた上半身裸の美青年が、水森亜土みたいに裏から透けるキャンバスに絵を描いている。まんまコクトーのタッチなので、男がコクトーの分身であることがわかる。描かれているのも、おそらく男の自画像だ。 手袋をぬぐ、描いた口が動くので慌てて口を手で消す、ドアから似た風体の男が現れ握手しようとするが、手が汚れているので逆回しで消える、かつらを脱ぐ、といった一連の動作のあと、男は自分の掌に「口」が乗り移っていることに気づく(二重露光。ここはすげえ「アンダルシア」っぽい)。 男が慌てて水で手を洗おうとすると、「口」は泡を吹いておぼれかけ「空気を!」と叫ぶ。窓の外で空気を吸わせた男は、だんだんと自らの分身が気に入ってきたのか、そのうち掌で口を覆ったり(接吻)、胸を撫でたり(乳首舐め)、自己愛的/自慰的動作を見せて恍惚とした表情を浮かべる。 明らかにこのへんは、ホモセクシャルな香りのする部分だ。 「口」は「詩」だったり、「芸術的衝動の言語化」のメタファーなのかもしれない。 その後、瞼に目を描いて眠る詩人(常に覚醒状態にある詩人の徴? 睡眠時の幻視を表す?) 仮面の表裏がくるくるまわるショット(ヤヌス神の二面性?←この映画の製作は「ヤヌス・フィルムス」 あるいは、詩人の意識/無意識の表裏関係?) 彫像化する詩人(古典的芸術への憧憬と同化を示す象徴的ショット?) などを経て、男は両腕のない女神像の口を手で覆うことで、女神像に「掌の口」を移すことに成功する。「口」を得て受肉した女神は、男を鏡の向こうの世界へといざなう。 男は鏡の中に飛び込み(壁に立っている鏡に見えて、本当は床のプールに飛び込むトリック・ショット。『オルフェ』でも類似のギミックがあった)深くその奥へと沈んでゆく(自らの精神世界・潜在意識・集合的無意識への潜行を表す?)。 「彫像」という属性は、古典作品の引力と影響力を示し、芸術家としての名声の確立(桂冠)と形骸化といった要素を象徴すると同時に、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の騎士団長のように、「死の世界」へ招くもの/「死の世界」に属したものの姿をも示しているのかもしれない(まさに『オルフェ』!)。 鏡の中の世界。そこには、四つの扉が並び、男は「屋根裏の散歩者」のごとく、それぞれの部屋のなかを順番に窃視してゆく。「屋根裏」というのは、見た目には扉が並んだ壁でも、実際には扉を並べた「床」を男は「這いずり回っている」のであり、このビックリハウスかドリフみたいなショット(立った状態で布団に入ってしゃべってるアレ)は、のちの『オルフェ』でもふたたび「鏡の中の世界」の描写として繰り返されることになる。 この「90度の倒錯」は、「異界の歪んだロジック」や「価値観の転倒」を示す、コクトーなりの視覚的・体感的な表現なのだろう。 また、「鍵穴から覗くと三次元的映像が見える」というのは、まさに「ピープ・ショー」(覗きからくり)の原理と同質のものであり、それはキノーラやミュートスコープ、キネトスコープを経て、「映画」へとつながるギミックでもある。 外に革靴の置いてある最初の部屋では、メキシカンのような男が壁際で銃殺される様子がリピートされている(ゴヤの『1808年5月3日』やマネの『皇帝マキシミリアンの処刑』みたい。後者はソンブレロが一致。短いフィルムの順行・逆行の反復にキネトスコープ感がある)。 二つ目の部屋では、鍵を針金で開けようとする「影絵」が映る(性的隠喩? 影絵もまた「映画」の始祖的な存在だ)。 外にトゥーシューズの置いてある三つ目の部屋では、身体に鈴の帯をつけられた少女が、鞭をもった女に脅されてマントルピースの上に登らされ、さらには天井まで「昇天」してゆく(少しギリシャ神話における強制的な「星座」化を想起させる)。 四つ目の部屋では、いわゆるヘルマフロディトス(両性具有者)がソファに寝そべっているところが、ピープ・ショーで絵柄が差し替えられてゆくように、だんだん「出来上がっていく」過程が二度繰り返される。両性具有者であることは、部屋の前の靴が男ものと女もの(革靴とトゥーシューズ)一足ずつであることと、完成した像(一回目は男、二回目は女)が自らの股間の布を取り払うショットで暗示される。通例、ヘルマフロディトスというとルーブルのうつ伏せの像を思い浮かべる向きが多いかと思うが、寝椅子に片肘をついて寝そべる姿は、むしろ『眠れるヴィーナス』の図像に近しい。 四つの部屋をめぐって覗き終わった男は、壁からぬっと出てきた手に拳銃を渡される。 拳銃でこめかみを撃って自殺した男は、一瞬、桂冠詩人の姿となる(少女の「星座」化と呼応する)。 しかし、それをすぐさまかなぐり捨てて、男は鏡の外へと(逆回しショットで)帰還する。 現実に舞い戻った男は、女神の彫像をハンマーでぶち壊す。すると、なぜか男のほうが彫像へと変容し、次の幕では、彼が彫像として置かれている階段前での子供たちの雪合戦を描かれることに……。 ここまでで、だいたい半分といったところだ。 雪合戦のくだりは、僕がコクトーの『恐るべき子供たち』をきちんと読んでいないので、詳しいことはわからないまでも、おそらくなら「作中作」のように「詩人の生み出した小説の舞台化」のような形で挿入されているのではないか?(だからこそ、コクトーの分身である男は、階段でハナ肇化している) 終盤は、雪合戦で大理石を当てられて血を吐いて死んだ少年の傍らで、正装の男女がカードで対決し、仮面の男がそれを見守り、さらにバルコニーから正装の貴族たちが鑑賞している(「外」かと思われた雪合戦のセットが、いつしか劇場の「内」の扱いに)。男はカードで負け、自らのこめかみを撃ちぬく(こめかみの星形が、冒頭の詩人の肩にある星形と呼応しているところに注目)。女のほうは、マントを羽織って女神としての姿を取り戻し、ヨーロッパ柄の牛(ギリシャ神話に出てくるエウロペの話が元ネタだろう)と世界球を抱えて、画面の奥へと歩み去ってゆく。 しょうじき、終盤何をやっていて、そこにどういう意図がこめられているのかは、浅学の僕にはよくわからなかった。にしても、詩をつかさどる女神が闊歩している以上は、おそらくテーマは「芸術」と「創作」、「詩人」の誇りと自意識、「名声」による死と再生、といったあたりに存在するのではないか。 総じて思ったのは、さまざまなネタのトリック撮影に始まり、影絵やピープ・ショー、キネトスコープときて、終盤は舞台仕立ての劇中劇と、コクトーはとりとめのない幻視を紡ぐふりをしながら、「映画前史」ともいうべきギミックの数々を作中で生かしている、ということだ。全体の「タブロー・ヴィヴァン」風のつくりだってそうだ。 すなわち、彼はテーマとしては「詩人のあり方」についての思索を深めながらも、同時に「映画というメディアができるまで」の技術革新の積み重ね――オプティカルなトリックを用いたギミックを提供することで観客の度肝を抜いてきた山師たちの歴史をも紐解こうとしている。僕にはそういうふうに思えたのだ。 それにしても、同じ鏡の中の世界っていっても、 コクトーと『かがみの孤城』じゃ、ずいぶんと違うもんだ(笑)。 でも、コクトーのこれがなければ、『かがみの孤城』もまた、きっとこの世には存在していなかったのだ。
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