「誰よりも弱い男たち」シェーン 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
誰よりも弱い男たち
土地権利者vs開拓者という構図で繰り広げられる仁義なき領地争い。既に多くのレビューで指摘されている通り、この構図からはネイティブ・アメリカンの存在がまったく欠落している。
これを都合のいい歴史修正主義と断じることも可能だが、それよりはむしろ、ネイティブ・アメリカンの記憶が全く背景化してしまうほどに熾烈な領地争いが今も連綿と続いていることの示唆としての側面が強いように私は思う。
さて、領土をめぐる各々の思惑はもっぱら男たちの暴力によって代弁される。自らの生活を墨守する手段として認可されたこの暴力は、男たちの間で唯一無二の価値として崇め奉られる。喧嘩が強いとか、銃を持っているとか。
しかし暴力はいつしか手段から目的へと転じていく。酒場での殴り合いのシーンで血まみれのシェーンとジョーが交わす微笑には、暴力に対する恍惚的な満足が明らかに萌していたといえるだろう。
そんな男たちとは対照的に、女たちは「こんな土地捨てて逃げましょう」と哀願する。しかし男たちはそれを聞き入れようとしない。適当な理由をつけて女たちを土地に束縛する。なぜなら暴力を捨てて土地から逃げ去ることは男というコードから降りることに他ならないからだ。
暴力は加速の一途を辿るばかりだ。しかし誰もが男のコードから降りようとしない。というか降りられない。マッチョイズムの不毛なチキンレースは遂に死者さえ出してしまう。
何事も暴力で解決しようとする男と、男の暴力によって口を塞がれる女。その圧倒的な力量差は男vs女という二項対立の可能性すら無効化してしまう。もはや誰も暴力を止められないのか。ここで印象的な役目を果たすのがジョーイ少年だ。
ジョーイ少年は子供だが、そうであると同時に男でもある。したがって周囲の男たちの暴力性にうっすらと憧憬を抱いている。しきりに銃を欲しがったり、酒場の殴り合いに興奮したり。彼が最も尊敬していたのは、男のコードの最上位に君臨するシェーンだった。
シェーンは強い。喧嘩の腕も射撃の才能も並外れている。ジョーイ少年は彼のそんな「男らしさ」を羨望し、シェーンもまた彼に「男らしさ」を伝授しようとした。
しかしシェーンは自分が密かに想いを寄せるジョーイの母親が反暴力を訴えて泣いているにもかかわらず、お構いなしに「射撃ごっこ」に明け暮れるジョーイ少年のことを見て、暴力に対する反省の視点を得る。
無垢な子供であるジョーイ少年が暴力にまみれた男のコードに足を踏み入れようとしていることの危うさに、彼はそのとき気がついたのだ。
シェーンは誰の力も借りず、たった1人で土地権利者の溜まり場に赴く。そして殺し屋共々皆殺しにする。もはや引き下がれない境位にまで暴力に染まりきっていた彼には、そうする以外にジョーイ少年を「男のコード」から引き剥がしてやる術がなかった。彼はその一身にすべての暴力を引き受けたのだ。
そしてその呪われた身体ごと永遠に土地を去る。
シェーンは今生の別れを惜しむジョーイ少年に「もう銃は必要ない」と教える。長きにわたる暴力の独裁が、今まさに終焉を迎えたのだ、と。
そして彼は馬に乗ってどこかへと消えていく。「カムバック!」というジョーイ少年の悲痛な叫びに背を向けたまま。
私はこの映画を見て『真昼の決闘』を思い浮かべた。倫理を主題化した西部劇として、本作と『真昼』はきわめて存在感が大きい。『真昼』は主人公の孤独なダンディズムを妻の介入によって不恰好に阻止することを通じて、西部劇における男性中心主義の部分的解体に成功していた。
これらの作品に共通するのは、「子供」とか「妻」とかいった全き外部性によってしか自らを他者化できない男たちの弱々しさだ。そして暴力はそのフラジャイリティを隠匿するための言い訳に過ぎない。
本作において暴力は、男の力強さを誇示するどころか、むしろ男の根本的な弱さを露呈させるものとしてアイロニカルに描画されているといえる。