「今見たらダンスだけじゃない、立派な青春映画だった」サタデー・ナイト・フィーバー いも煮さんの映画レビュー(感想・評価)
今見たらダンスだけじゃない、立派な青春映画だった
映画冒頭でトニーの歩く足元から場面がスタートしたと記憶していたが、数十年ぶりに見直してみたら実際はブルックリンブリッジを挟むニューヨークの街並みからだった。
これがこの映画の象徴。
イーストリバーを越えた向こうに夢を馳す。
1977年公開当時のヒットはディスコムービー、ダンス映画としての受け入れ方が強かったが、今見れば明日を夢見る若者の青春映画という位置付けだ。
週給百数十ドルでペンキ店で働いて週末の夜にディスコに繰り出すのが唯一の楽しみであるトニー(ジョン・トラボルタ)。頼まれたペンキを買いに出ても靴を見たりシャツを取り置きしてもらったり、ピザを食べたり、女の子を口説いたりしてなかなか店に戻らない。店に戻れば30分以上も待たされた客がツノを生やして怒ってる。でも待たせたお詫びに、と10ドル割引いて100ドルちょっとでお譲りします、と。78ドルで卸したペンキに大いに色を付けるトニーはそれなりに口のたつ販売員に違いない。
家に帰れば神父になった兄を唯一の生き甲斐にして崇める母と半年も失業中でこの妻に頭の上がらない父がいる。
そんなブルックリンの決して裕福ではないカソリック教徒の一家に育った彼は、なのに、“お育ち”もよろしくない。
ハンバーガーを頬張りながら大きな声で喋る姿は見ていてちょいちょい不愉快だし、以降口を開けて食べる人を見るとこの映画のトラボルタのことを思い出した。
そんな彼を見下したように話すステファニー。
私とあなたは違うステージに立っている、決して交わらない。
そんな態度で接する彼女も元はブルックリンの貧しい家庭の出に違いない。
その差は何かといえば目標に向かって努力しているかいないか、だ。
「ハイソな自分」を演出するためにきょうはどんな有名人が会社にきたか、話をしたか、をこれ見よがしに語ってみせる。
そんなステファニーの痛々しく強がる姿は、70年代がまだ存分に男性優位社会だったことをうかがわせる。
トニーはステファニーのことを「お高く止まった鼻もちならない女」とだけ捉えてはいない。仲間うちにどんな女性かを聞かれて「それだけじゃない」と断定してることから彼にはステファニーの強がっているとこや弱い部分がわかっていたのだなぁ。
そして、このままでは自分も10年選手でペンキ屋勤務になっていくことが想像できた。昇給したってたかだか4ドル足らず。そんな生活変えたい、と願うようになる。自分も一人暮らしして悪い仲間とは縁を切って橋の向こう側に行くんだ!
トニーがブルックリン橋を2人で見上げてうっとりと語り「この橋のことなら何でも知ってる」というくだりは初見の時からやけに印象に残っていた。数字で語られると女は弱いよね。
そうしてステファニーもラストは友だちとしてトニーを受け容れる。2人で橋の向こう側の世界を目指して。
踊り明かした翌日の抜け殻のようなトニーがむくりと起き上がり股間に手を突っ込む。
故・淀川長治さんのラジオ名画劇場でこのシーンを取り上げて
「この男、起きたら不思議なことをしましたね、パンツの中に手を突っ込んでひと握り。何したんでしょう?位置を直したんでしょうかね、自分の。そういうところを見せてくるんです、このジョン・バダムという監督」
っていうようなことを言って淀川先生も着目してたのを思い出す(笑)。