サクリファイス(1986)のレビュー・感想・評価
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タルコフスキーの『渚にて』
昨日『渚にて』を見て、タルコフスキーのこの映画を思い出して、もう一度見てみた。
スウェーデンのバルト海の渚にて、島はリンドグレーンの『わたしたちの島で』の様なところだろうか。
多分、タルコフスキーはほぼ自然光のみで撮影したのではないだろうか。この時期は白夜ではなくとも、一日目薄っすらと明るい。そう言った季節的には良い時に起こった暗い出来事。
この映画の約一年前にチェルノブイリ事故が起こり、この映画はそれに警鐘を鳴らした感じだ。本来はウクライナで撮影したかったのかもしれないが、彼はソ連から亡命をしていて、それが不可能だったかもしれない。
遺作だけあって、『ソラリス』 『アンドレイ・リブリョフ』 その他 自身の過去作品をオマージュしていると言った感じだ。つまり、死を予感しているのかも。
タルコフスキーの作品にしては捻りが無い作品だが、彼の遺言の様な昨日なので評価したい。
僕の記憶では、あの『日本の木』と『その後方にある小屋』がもろとも焼けるって思っていた。そして、後方の小屋はムーミンに出てくる『水浴び小屋』の様な所だと思っていた。
10年ぶりくらいで見たが、僕の時間が『サクリファイス』したようだ。
ネタバレありさ。
そのタルコフスキーの遺言に、息子さんの言葉が添えられている様な気がする。
『はじめに言葉があった。でも、何故なのパパ』
最終戦争勃発
アレクサンデル(ヨセフソン)と、喉を手術したため口のきけない息子とのツーショット。海辺でその“子供”と一緒に枯れた松の木を植え、枯れた木に3年間水を与え続けた憎の話をするアレクサンドル。誕生会には医師のヴィクトルや、元教師で暇なときに郵便局員をするオットーも参加する。
平和な日常の中、突如起こった核戦争。白夜なのか映像全体が白んでいて、それが死の灰が降ってくるかのような冷たい空気に包まれている。人々はパニックに陥り、ヴィクトルが鎮静剤を打ったりする。これまで神を信じてこなかったアレクサンデル。自分も家族も、そして持つ全ての物を放棄するから愛する者を守ってほしいと神に祈り、力尽きて眠ってしまう。オットーに起こされ、「魔女のマリアと寝なければ世界は救われない」と教えられ、梯子で2階から降り、自転車で召使マリアの家へと急ぐアレクサンデル。母の想い出を語り、ついにはこめかみにピストルを当てるアレクサンドルに対して、マリアは服を脱がせ抱き合った。ベッドに寝たはずの二人は徐々に回転しながら宙に浮いてゆく。
何事もなかったかのように朝が訪れる。1日前に戻ったのだ。そこでアレクサンデルは自らを犠牲にする約束を果たすため、家族がでかけた隙に家に火をつける・・・
バッハの「マタイ受難曲」とJVCのオーディオから流れる尺八の音楽。映像が切り替わる度に暗から明へと雰囲気が移行。ラストの火災映像から子供の映像に切り替わるところが切なさとともに明るい未来をも映し出してくれるのだ。タルコフスキーの日本びいきのところも、松の木、尺八、和服(着方が間違ってるけど)などに表れている。
1日戻ったのか、それとも新しい日を向えたのかはヴィクトルの会話などで判断するしかないのだが、喋れなかった子供がラストシーンで喋っているのが謎だった・・・まさか夢オチということはあるまいが・・・
感想
私はこれを、都内の映画館でリバイバル上映された際に鑑賞しました。
なのでタイトル通り、映画の感想を述べたいと思います。
この映画を鑑賞して、どこにテーマがあるのかと考えたとき「調和」と「その均衡が破られ」そして「新たな調和がもたらされる」ということだと思えました。
最初は調和というか均衡の保たれた状態でした(良くも悪くも)。が、戦闘機の轟音のようなものが最初に轟いたとき、部屋の中のミルクが瓶ごと倒れて床に散らばり、世界(worldではなくuniverse)に変化が訪れる象徴が現れました。
そして電気が通らず、通信も不能になった中、皆が「調和した世界」を求めました。主人公の妻には鎮静剤が注射され、娘にも注射が打たれますが、ここで重要なのは、娘が自身で注射を拒否したのにも拘わらず、他者が少しの無理を強いてでも注射をして鎮めようとした場面です。
ここで、この映画に少なくとも二つの軸が提示されているように思えます。
それは、
・多少押さえつけられてでも皆が静かに暮らせている、という意味での調和
・抑圧から解放されてみんながそれぞれ自分らしくいながらにして調和した世界
(後者は、前者の反証という形での提示かと思いますが)
さて、主人公は奥さんと不和であり、それでも静かに暮らしていたこれまでの世界は、まさしく抑圧を感じながらも静かな世界でした。しかし核戦争という圧倒的なアンバランスがもたらされて、それまでの世界が維持できなくなりました。
召使のマリアがなぜ魔女で、そのマリアと寝ることでどうして世界が救われるのかはわかりませんが、これを映画的な意味から見ていくと、それまで主人公やその周囲の人間を抑圧していたものから解放して、後者の意味での調和世界をもたらすための鍵ではなかったのではないでしょうか。
これを具体的に述べると、
・主人公がマリアと関係を持つことで、主人公とその奥さんはお互いを縛り付けていたものから解放される。
・友人である医師も二人の面倒をみることから見切りをつけて、オーストラリアへ旅立てる。
等々、、、
ということになると考えます。
それが証拠に、主人公がマリアに対し告白する自分の過去――荒れ放題だった庭を、良かれと思って手を加えたことで全く見るに堪えないものへと変貌してしまったことへの後悔――これこそが、この映画の言いたいことを端的に表していると思います。
トドメに主人公が自宅に火をつけるのを、映画サイトなどの解説では神に誓った犠牲の実行と言われていますが、意味的な側面から言えば、これまでの古い調和した世界が消えて、新しい、それぞれがしがらみから解放された自由な世界が始まることの現れと捉えていいのではと思います。
タルコフスキー監督の実生活で求めていたものが、この映画にも色濃く現れているのではないかと思いました。
余談ですが、私はこれまで惑星ソラリスやストーカー、鏡などを見てきましたが、ソ連国籍だったころの哲学的な問答というか、そういう色があまり強くなかったように思いました。何かの心境の変化のでしょうか。
ネタバレ
楽園を追われた人類が背負った原罪(文明)。その究極である核戦争。
無神論者の主人公は、これを食い止めるために、自分が犠牲をはらう約束で、初めて神に祈る。
聖母マリアへの回帰を果たし、願いは聞き届けられた。
そして神との約束通り、彼は家族や家を捨てる。
…というストーリー。
しかし、逆ではなかろうか。
わずらわしい家や人間関係を捨てたい、自由を得たい、マリアと同一化したいという主人公の願望が、願いを叶えるために彼に核戦争を妄想させたのだ。
発狂することで得られる自由。
あまりにも大きな犠牲。
「白痴」のムイシュキンや、ニーチェの名前が出てくるが、ラストでイメージが重なった。
独特の静謐な雰囲気はあるのだが
総合:50点
ストーリー: 45
キャスト: 60
演出: 70
ビジュアル: 70
音楽: 65
話は進まない。日常の世間話がひたすら淡々と進み、物語も何もない。前半は笑いも無く怒りも無く、ひたすら落ち着いた雰囲気の中で世間話だけが途切れることなく決められたように続けられる。その世間話も、俳優たちがかぶることもなく交互に科白を言い合う。まるで舞台の科白回しのよう。
後半になって物語は進みだす。しかしこれは本当に現実なのか。戦争だというのに静謐な風景は変わらない。そして何か現実離れした話がふわふわと出てきて、精神の奥からの告白と叫びが続く。夢うつつの中、何か別世界にでも迷い込んだのか。描き出される場面は中世の風景画か人物画のよう。心の静まる芸術的演出と思いきや、心に秘められていたものが出てきて蠢きだしもする。
だが物語はどうもよくわからない。本当に人類の危機を迎えた状態なのか、それでも猶こんなことをしているのか。やはり現実感がない。最早夢と現実の区切りが消え去り交じり合った状態になっている。そうか、だから結局これは現実ではないのだな。一人の男の錯乱する話なのか。それとも本当にあれは現実で彼が自己犠牲と交換に世界を救った話なのか。
監督・脚本を手がけたアンドレイ・タルコフスキーの真意がどうであるかは知らないし興味もない。それぞれの視聴者の解釈次第なのだろうが、現実主義者の私には前者のように思える。その現実主義者を前にして、映画の持つ謎と神秘はあっさりと精神錯乱で片付けられて処理され、私の中では余韻を残すこともなく終わったのであった。この映画の捉え方は人の好み次第でしょう。
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