劇場公開日 1998年1月15日

「ギレアデの香油。」この森で、天使はバスを降りた Galoisさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5ギレアデの香油。

2025年1月19日
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「There Is a Balm in Gilead(ギレアデに香油あり)」。

パーシーが丘の上で歌っていた「ギレアデに香油あり」は、旧約聖書、エレミヤ書第8章22節からの引用で、アフリカ系アメリカ人の霊歌だそう。確かにニーナ・シモンもこの曲を歌っていた。
旧約聖書では、ギレアデの香油はイスラエルと罪人のための霊薬を象徴している。
なるほど、ジョーが地元の木が薬用に使われていると言っているのは、この香油のことを指していそうだ。製作側も脚本に聖書要素を加えるよう修正しているらしい。

パーシーは罪人である自身を、このギレアデの地に癒してもらおうと考えていたわけだ。

作品の本筋としては、贖罪、疑い、ベトナム戦争の退役軍人、等等、複数のテーマが包含されている。
製作側が強く聖書要素を意図していたように、中でも私はこれは贖罪の話だと思った。
パーシーの一連の事件によって人々の意識が変わっているのは、やはり「なんてバカな疑いをかけていんだ」という罪の意識からだと思う。

少なくとも最後に来た新入りに対しては、町の反応がパーシーが来た時とはまるで違う対応になっている。これは間違いなく周囲に無意識に贖罪を促した、パーシーの功績だ。

皆それぞれあらゆる人生はあり、ここまで起こらないと罪の意識を改めないのと言うのはホモサピエンスへの皮肉すら感じるが、確かにこれ程の事件が起きず普通に生きていたら、自分への「罪への意識」など生まれるはずがないのかもしれない。

なぜなら我々日本人にとっては特に、罪というのは個人の主観ではなく、法律という客観によって定められているのだから。皆自分は「真っ当な人として」生きていると思い込んでいるはずだ。

でもどうだろう、「プライベートでもパブリックでも、何かに対して無碍な反応をした」という風に敷居を下げてみると、罪かも?と思うことはあるかもしれない。その土台で考えるのが、敬虔なタイプのクリスチャンだ。
私もそこに立ってみて考えてみたら、映画が終わってみて、罪の意識をひしひしと感じた。
同時にもう一度「ギレアデに香油あり」を聴くと、なんだか神聖な何かに赦されるような、そんな心地もした。

一言でこの映画は「トピックは何にせよ、主観的に考え罪の意識を下げたら、あなたの罪はなんですか?」と問いかけてくるような余韻があった。
それに対し明確なカタルシスがあるわけではないが、観る者によっては胸に深く刻まれる内容であった。

Galois