「ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー」ゴッドファーザーPARTII マーク・レスターさんの映画レビュー(感想・評価)
ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する
「感情の相似 ― 似ている点」 と
「環境の相違 ― 違う点」
が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。
しかし、
「感情の相似 ― 似ている点」 は跡形も無く消え去り、
「環境の相違 ― 違う点」 のみが強調され、
“憐れなほどの格差” に苛まされることになります。
第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、
今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。
実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。
前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ
マイケル の “その後の物語” と、
一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親
ヴィトー の “若かりし日の物語” がリンクする、
非常に意欲的な構造を今作は成しています。
そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。
この時点で、ボクは
今作の性向を察知
するべきだったのです。
ファーストカットからして、 マイケル は
“物憂い” 表情 という、
判りやすい態度でいてくれたわけですから。
【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”
と
父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】
そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、
大きな勘違い
をしてしまったのです。
一方は、“成長と成功” を獲得していくが
他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。
今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。
この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに
結実させていたのです。
“象徴的なモノ” それは、
マイケル が座っていた
書斎の 重厚な椅子。
その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。
先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、
2世代の物語を俯瞰していく
今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。
しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。
椅子が暗示するもの
それは、 「地位」 。
若かりし ヴィトー が如何にしてこの 「地位」 を築き、
若き マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に
堕ちていくのか。
そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、
ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ヴィトー 9歳時の過酷な運命を語ってきました。
辛い経緯の後、シシリー島を追われるように彼は、9歳の身で単身アメリカに逃れてくるのです。
移民船がニューヨークに近づき、デッキの移民たちが無言で一つの方向を
見つめている。
勿論、幼きヴィトーもいる。
その視線の行き着く先に、 自由の女神 が静かに姿を見せてきたのです。
この映像を、郷愁を湛えた音楽が包み込んでいきました。
「不安と夢」 が混ざったこの船上に、自分の命を守る為に9歳の男の子がいることに、
言いしれない 哀しさ
を感じたのです。
検閲官に名前を聞かれ、ヴィトー が英語を話せないでいると、
“コルレオーネ村の ヴィトー・アンドリーニ” という名札を誤解され、
台帳に ヴィトー・コルレオーネ と記入されてしまいます。これが彼の本名となっていきました。
それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては
“何もできない存在” だったのです。
今作は、天然痘の疑いでエリス島に隔離された収容所の窓越しに、 ヴィトー
が自由の女神 を虚ろに眺めている
1901年 から “ オーバラップ ” という技法を用いて、 もう一つの時制、
1958年 2代目・マイケル の時代に、移行 していきました。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
先行する 【 カット 「 A 」 】 が徐々に薄くなるや、
次なる 【 カット 「 B 」 】 が現れ始めて、
2つのカットが重なりあいながら
ゆったりと場面移行をしていく表現手法を指します。
この手法を今作は、
「 A 」 で生じた 感情 を 持続 させながら、
「 B 」 という 状況 に 移行 する為に、
効果的に活用しているのです。
9歳時の ヴィトー からの “オーバラップ” 先 は 同じ年頃の アンソニー・ヴィトー・コルレオーネ のキリスト教儀式の場でした。 名前に ヴィトー の文字がある通り、彼は ヴィトー の孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。
英語が話せず、孤独で不安、粗末ないでたちの ヴィトー と、
キレイに着飾った孫の アンソニー。
その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と
一人寂しく隔離されている ヴィトー 。
このように、
同じ年頃 ではあるが、
違う環境 にいる 二人の、
57年間の 大きな隔たりを繋ぐ “オーバーラップ” の見事さに
感動したのです。
この “オーバーラップ” の素晴らしさに触れて、ボクは、早くも今作の ”映画のルール” を見つけた思いになったのです。 それは
【 父親・ヴィトー と 2代目・マイケル の時代は、
二つの時代に共通する要素を 「ブリッジ」 にして、
“オーバーラップ” で繋いでいく 】
というものでした。
そして、このような “ルール” で活用されていく “オーバーラップ” という
表現手法は、 2つの時代に共存している
「相似」 点 ― 似かよっている点 と
「相違」 点 ― 違いがハッキリしている点 の
コントラスト をしっかりと描いていくはず。
とこの時点のボクは 大きな期待を持ったのでした。
2代目・マイケル の時代に今作のストーリーを推進していく事件が勃発しました。
あろうことか、マイケル の自宅にマシンガン攻撃がなされたのです。
驚愕する マイケル 、騒然とする “ファミリー” の面々 。 平静を装って子供を寝かし付ける彼の横顔に
“オーバーラップ” してくる
青年の姿がありました。
時は 1917年 ヴィトー 25歳。
今作は1児の父親となっていた ヴィトー の時制へと “オーバーラップ” していったのです。
9歳の時、自分の名前を主張できずに ヴィトー・コルレオーネ という名前になってしまった、あの何もできなかった孤独な少年が ロバート・デ・ニーロ に成長していたのです。
今回の時制移行が、それ以降の “オーバーラップ” 表現の指針となったわけですが、
この、2代目・マイケル と デ・ニーロ 演じる若かりし日の 父親・ヴィトー の2つの時制を結ぶものが
寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける
「父親の顔」 と
デ・ニーロ 演じる ヴィトー の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る
「父親の顔」 への
“オーバーラップ” となっていたのです。
時代は違えど、子供を気遣う 普遍的な感情 を見て、心が暖かくなっていきました。
これがボクの言う
「相似点」 ― 似かよっている点 を
象徴するカットだったのです。
しかも、 “似通っている点” の中でも、 “人の想い” に注目していることから、
今作は
【 「感情の相似点」 - 時代は違えど、共通する 人の想い - を
「ブリッジ」 にして2つの時制を “オーバーラップ” で繋いでいく 】
という、映画のルール によって進行するものと、思い込んだのです。
制限文字数では語り切れず。完成版はこちら
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