新ドイツ零年 : 映画評論・批評
2025年12月23日更新
2025年12月20日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
孤独:あるいは不統一の記憶の変奏
2022年9月14日、ジャン=リュック・ゴダールが安楽死によってその生涯を閉じたという報に接したとき、筆者が想起したのは「新ドイツ零年」(Allemagne 90 neuf zéro, 1991)において引用される「使徒行伝」第16章28節の一節であった――「自らを殺めてはいけない。私たちは皆、まだここにいるのだから」。このテクストは、結果として彼の最期と逆説的な緊張関係をなすものとして、作品の主題を新たに照らし出す。
「新ドイツ零年」は、フランスのテレビ局アンテーヌ2(現 :France 2)から「孤独」を主題として依頼されたテレビ作品でありながら、ジガ・ヴェルトフ集団解散後の70年代以降のゴダール自身の映画史における実践の流れの中に位置づけられる。とりわけ80年代後半以降の「絵画」という美術への接近や、1988年から98年にかけて制作された「映画史」全8章が示すような既存のイメージを引用・切断・再配置する方法論は、本作においても踏襲されている。トーマス・マンのテクストからF・Wムルナウの映画に至る様々な作品の引用を通してドイツという歴史的な空間を横断しながら、文学、哲学、音楽、映画の断片が等価に接続されるというあり方は、映画を通じて歴史を思考するというゴダールの姿勢を端的に示すものである。

(C)BRAINSTORM 1991. Licensed through ECM Records GmbH
本作における「孤独」をめぐっては、すでに複数の重要な読解が提示されている(一例として、松浦寿輝による「亡霊としての孤独」や、平倉圭による「見ることが科学であると確信することによる孤独」が挙げられる)。例示した両者の側面は、「新ドイツ零年」において相補的に作用しているだろう。なぜなら、歴史の痕跡が風景として沈殿する一方で、それを「見る」行為が共有されないという二重の断絶が、本作の孤独を構成しているからである。この二重性は、本作の語り手でもあるアンドレ・S・ラバルトがかつて擁護したエッセイ映画――科学(ドキュメンタリー)とフィクションの混合としての映画――の定義とも呼応する。すなわち、「新ドイツ零年」における孤独とは、記録と想像のあいだに生じる裂け目そのものを指しているのではないのだろうか。
この観点から見れば、本作で強調される「ドイツ」という場もまた、単なる国民国家の表象ではない。レミー・コーションが「西洋(West)」の所在を問い続ける運動は、帰還の物語ではなく、イメージが集積する地点を探索する思考の運動である。ゴダールがインタビューで「この映画の台本は歴史である」と応えているように、「新ドイツ零年」は、統一されたものを拒否し、断片化された歴史の痕跡を読み解く試みとして構成されている。哲学者アリストテレスの「詩学」第8節の冒頭を想起してみよう。「筋は、一部の人々が考えているように、一人の人物にまつわるものであれば統一があるというものではない。なぜなら、一人の人物には多くの、数かぎりない出来事が起こるが、これらの出来事のあるものからは、統一ある一つのものはけっして生まれないからである。同様に、一人の人物でも多くの行為を――そこから統一ある一つの行為が生じることはけっしてない多くの行為をなすからである」(松本仁助・岡道男訳、41頁)。この記述は、まさに現在の西洋世界の状態と奇妙な形で共鳴している。すなわち、一つの主体(国家、地域、文明)には無数の出来事が降りかかるものの、その総体が「統一」の物語を形成するとはかぎらない。むしろその多元性ゆえに「孤独」は深まり、統一の名はもはや空虚な標語へと変質する。
「新ドイツ零年」が制作されたちょうど一年後、1992年のマーストリヒト条約批准をめぐってフランスが激しく二分されたことは、この事実を示した象徴的な出来事にほかならない。マルク高、ユーゴスラヴィア内戦の泥沼化、農業政策をめぐる抗議運動、さらにはミッテラン政権への汚職批判などが重なり、フランスでは条約反対キャンペーンが社会を分断した。この出来事は、西洋的な国民国家の統合がもはや自明ではなく、また理念的な連帯の基盤が揺らいでいることを露呈するものだった。そのことを裏付けるように、21世紀以降のEUは、ギリシャ債務危機やイギリスの離脱など、経済的利益に依存した統合の脆弱性を繰り返し証明した。文化的・政治的な統一を標榜して出発したはずのヨーロッパが、経済合理性の優先によってむしろ分断を深めていく。このような状況は、「新ドイツ零年」においてゴダールが引用するシュペングラー「西洋の没落」──それは第5章第8節「経済生活の形式界」の自由な引用──で語られる西洋の構造的な疲弊を、予言のように思わせるものですらある。
ゴダールは、これに先立つ長い時間をかけて「ヨーロッパとは何か」を問い続けてきた。「映画史」3Aにおける次の言葉は、その姿勢を端的に示している。「一事を教えてやることで、ヨーロッパの諸政府を驚愕させよう。犯罪は犯罪だということを示す。それは個人だけでなく政府にも許されない。ヨーロッパは連帯責任を負う。ヨーロッパでなされることは、すべてヨーロッパがなすことなのだ。」これは、ヨーロッパを単一の政治主体としてではなく、歴史的責任を共有する複数でかつ重層的な空間として理解する試みである。そして「新ドイツ零年」は、その理解の転回点として位置づけられる。ドイツという場への回帰が、単に国民国家の表象ではなく「歴史の痕跡を読み解く」運動であったように、この作品はゴダールにとって思想の越境の場であり、世界の分断を映し返す鏡であったのだろう。
以上の分析から明らかになるのは、「新ドイツ零年」における孤独が、個人の内面を表象する主題ではなく、統一という名の下で生じる歴史の断絶を引き受けるための方法論として機能しているという点である。ゴダールは、統一された世界像を提示するのではなく、分断されたままの世界を映像のうちに保持する。そのとき孤独とは、否定すべき欠如ではなく、思考を持続させるための条件として現れる。本作が今日においても有効であり続けるのは、まさにこの点にある。
最後に「新ドイツ零年」そのものの受容の過程に触れておきたい。1993年の初公開から約十年後の2002年2月25日、本作は紀伊國屋書店よりDVD化された。寺尾次郎による既訳をアップデートする形で新たに字幕翻訳を担当したのは、当時25歳の堀潤之(日本のゴダール研究の大家の1人)であり、彼はすでに「映画史翻訳集団」に参加し、ゴダール研究の新たな担い手として頭角を現していた人物であった。このDVDは、堀と四方田犬彦による共編書「ゴダール・映像・歴史 映画史を読む」(2001年)の刊行の2か月後に発売された。理論的な読解と作品への具体的なアクセスがほぼ同時に可能になったこの出来事は、日本におけるゴダール研究の一つの転換点を示している。
DVDに封入されている堀による字幕とスクリプト採録は、作品と正面から向き合う実践の痕跡でもあった。だからこそ、25年近く再上映されることのなかったこの作品を、堀の手による字幕付きで再び鑑賞できるという現在の状況は、極めて幸福であると言える。作品が時を経て戻ってくるとき、そこには必ず誰かの手仕事がある。ゴダールの映画の持つテクストと、それを読み解こうとした研究者の息づかいが、同じ画面の上でふたたび重なり合う。この偶然がもたらすささやかな祝福もまた、本作をいま見ることの意味であるように思えるのだ。
※作品スクリプト・監督発言の引用に際しては、以下の既訳から引用。
「映画史」テクスト採録/訳・構成:堀潤之・橋本一径/注釈:堀潤之(「ゴダール 映画史 テクスト」郡淳一郎編、2000年)。
「新ドイツ零年」ゴダールインタビュー(細川晋訳)、シナリオ採録(堀潤之訳)、紀伊国屋書店、2002年。
「ゴダール全評論・全発言 III: 1984-1998」(奥村昭夫訳)、筑摩書房、2004年。
(小城大知)
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