「シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』中に登場する、「臆病者は何度でも死ぬが、本当の勇者は一度しか死なない」のセリフがこの映画の本質の全てを象徴している」新荒野の七人 馬上の決闘 アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』中に登場する、「臆病者は何度でも死ぬが、本当の勇者は一度しか死なない」のセリフがこの映画の本質の全てを象徴している
映画の締め括りにクリスがマックスたちに残していった言葉について「クリスはなんて言ったの?」と少年エミールに尋ねられマックスが教えたクリスの去り際の言葉は、「臆病者は何度でも死ぬが、本当の勇者は一度しか死なない。」だった。
因みに、この言葉には何か語源があるのではと考え、参考までにと長年探したが、初見から随分と経ってからウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の中に登場する、ほぼ同内容の言葉「臆病者は、本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない。」というものを見つけた。
意味合いとされるのはやはり「臆病者は死を恐れるあまり何度も死の苦しみを味わうが、勇者は死を恐れていないので、死ぬのは一度きりである。」というようなもので、だとするなら私の考えもあながち見当違いでも無かったと思える。
それは一度きりの命を(その動機や、理由を問うことなかれ)虐げられた人々のための戦いで落としていった仲間へのたむけだろうか? 彼らが真の勇者なのだと。
映画を締め括るこの言葉に、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
知名度からは、シリーズ中最もマイナーな存在で評価も得られてない作品だが、なぜかさめざめと泣けてくるような気持ちになるのだ。
大筋は、メキシコで圧政に抵抗する反対派や苦しむ農民たちの精神的支えであったリーダーが捕らえられ、その救出を図るべく助けを求めてガンマンたちを雇い、砦のような牢獄に囚われの身の反対派の面々とリーダーの救出をはかるというもので、ストーリー上も、前2作との繋がりは無く、唯一反対派の若者マックスにより劇中で語られる「“クリス”が過去にメキシコの農民を助けたという事を、従兄弟から伝え聞いた...」というのみ。
内容からして当然、その見せ場は終盤の敵砦(牢獄)への総攻撃と脱出計画であり、そこが最大の見せ場であろう事が想像できる。
この映画のクライマックスは確かに「敵砦への総攻撃」だが、砦を構えて武装したメキシコ正規軍が相手でそもそも多勢に無勢、主人公たちはたちまち劣勢となって勝ち目は殆ど無い状況に。
その後の展開はというと、クリスとの対立の結果、ボスが救出作戦への協力を拒否した“メキシコ人山賊”たちが、ボスを見限ったサブ・リーダーに率いられて援軍に駆けつけ、それで形勢は大逆転となったのであった。だが、それと前後してクリスが敵であるディエゴ大佐を倒しはしたものの、七人のガンマンの殆どは既に討ち死にしてしまっていた。
このように書いただけでは、ストーリーも単純で主人公たちの活躍も乏しく、どうしようもないような印象を受ける事だろう。
しかし、この映画の“見どころ”はそうした部分ではなかっただろうと現在は確信している。
その根拠に、本作『新』の脚本家のハーマン・ホフマンがアソシエイトプロデューサーだった’55年の『日本人の勲章』があるが、この映画は奇しくも『荒野の七人』第一作の“ジョン・スタージェス監督”作品。
この映画はただのアクション活劇などとは毛色が違っていて、むしろ社会派の人間ドラマだと言える映画だった。
『新』が公開されてまもなく、第一作が初回リバイバルされたタイミングに私はロードショー館で第一作を観た。その際に買ってもらい繰り返し聞いたレコードの、そのジャケットは何か違っていて写っているのは知らない顔ぶれ....?
リバイバル版のパンフレットをみても続編には触れられておらず、入手したポスターにもなぜか「あの面白さ、あのメロディに乗って”本物の七人”が帰ってきた」とまで。
そのレコードこそが『新・荒野の七人』との出会いだった。
詳細は『続』のレビューに書いたが、“渋谷パレス劇場”にて悲願の鑑賞を果たす。
大きな期待で観終わった後の当時の感想は、『続』は前作の生き残り、リーダーのユル・ブリンナーと他の2人も別俳優だが登場し、内容繋がりなので興味深く大いに満足した。
しかし『新』については、前二作と同じリーダーは「クリス」だが、雰囲気も容姿もにても似つかない俳優に違和感を覚え、知ってる顔も出てこないしストーリーも前述のように悲惨な結末で、爽快感も乏しい展開。従って『続』の方が面白かった、『新』はそれには劣る、というのが正直な当時の感想。
だが、この時の印象は後年、徐々に変化をしていくことに。
特に『続』はブリンナーのワンマン映画的な印象で他のメンバーの個性が弱まった感と、空の青さや雨など何となく画面の印象も暗い。
『新』は、初鑑賞時にあまり印象に残らなかったうえ、中々再見機会もないまま過ぎていったが、その後大幅カットのTV初放送を挟み、池袋の“地球座”にて劇場での最後の再見を果たした記憶だが、その頃からだろうか?
この映画の七人のキャラクターを何だか興味深く感じて惹かれるようになり、そこにこそ、この映画の狙いが込められているように思えてきたのは....
この二代目“クリス”を演じたのは、前年の’67年『暴力脱獄』でアカデミー助演男優賞受賞の“ジョージ・ケネディ”で、容貌は大柄でどちらかというとモッサリトした印象の、およそ活劇調西部劇に登場の“早撃ちガンマン”には見えなかった。その理由がいくら受賞した演技派だからだとしても、何だかなぁと。
また、この映画の題名のこととも意味深なようも思える。
シリーズの第一作はそのタイトルを“The Magnificent Seven” =“素晴らしい七人”、二作目も単純に“Return of the Seven”=“帰ってきた七人”とされ、主役はあくまでも“七人”=人間であるが、しかしこの第三作は“Guns of The Magnificent Seven”=“素晴らしい七人の銃”となっており、当時のポスター等のアート・ワークでもズラッと扇状に広がるように並んだ、タイプの違った七人それぞれの銃がシンボライズされていて、主役は人間ではない。
このことが意味することを考えたとき、私には“七人の銃”が使われる目的・意味ということが浮かんできた。
この“銃”はいったい何のために使われたのか? それを問いかけているように思えた。
まるでボロボロの集団の様相で、「人助け」どころか「自分自身が救われていない」ような有様の彼らの銃が、“弱き者を守るために”また“人間の尊厳を守るための戦いに”使われたという事。
そう考えたとき、この映画の原題は意味深いものなんだと理解出来た気がした。
“キーノ”は、かつては保安官もやったことがあり妻子もあったらしいが、クリスと出会ったときから何を尋ねられても「何も質問するな」と返すばかりの、“殆ど素性のわからない男”、その死に際に残した最後の言葉ですら「何も聞くな」だった。
“マックス”は、助力を願った当事者でありながらその行動力から七人の一人となってるが、戦いは殆ど素人同然、最後の戦いのさなか、“キンテロ”を守るために重傷を負う。
“レビー・モーガン”は初老にもかかわらず、家には若いインディアンの妻と息子を養っており、大仕事で今後の生活を支えるのための資金が欲しかった。 得意技は「ナイフ投げ」でガンマンではない。
“スレーター”は、元南軍くずれの「片腕の早撃ちガンマン」だが、現在は銃を撃つにも一人ではタマ込めもおぼつかないし、“素手の喧嘩なら、子供にも負ける”と嘯く。世間からカ◯ワと蔑まれていると感じ、自らを卑下しているような屈折した性格。
“キャッシー”はメンバー唯一のクロ◯ボであり、鉱山ハッパ係としても蔑まれ搾取され、差別が一生ついて回り、逃れることが出来ないと悟っている。
この、“元南軍くずれ”と“黒人の若者”の2人の絡みと関係は、このドラマの1つの焦点である。
“スコット・トーマス”は出発直前の酒場で「仕事」の詳細を聞くこともなく“クリスに任せる”と合流した。その経歴も殆ど分からず、見た目はまだ若いのに肺病病みのために、自らの命がそう長くはないと理解しているように見える。得意とするのは「ロープ投げ」。
そしてリーダーの“クリス”だが、キーノと関わった際、相手に「お前、知ってるぞ、クリスだなっ!」などという言われ方をするような、“有名”ではあるとしてもあまり有り難い意味での事では無さそうで、どちらかというとまるで“煙たがられて”いるような人物みたいである。以前の2つの事件の後、彼は何処で何をしていたのだろうか?
元南軍の兵士で南部の「黒人奴隷容認」の立場の男と、その「黒人」の側の若者は、出発前から“スレーター”の無神経な言葉が“キャッシー”を怒らせたてギクシャクした関係に。
だが夜になると“片腕”である現実から悪夢を見る“スレーター”は深夜に錯乱を起こし、眠っている“キャッシー”に銃をの向けたかと思うと次の瞬間には空に乱射し、終いにオノで自らの使えなくなったウデを切断しようとしたが、目覚めた“キャッシー”に殴られて気絶させられたことで止められた。
翌朝そのことをキャッシーに礼を言いつつ詫び、自分が世間から蔑まれていて救われない身であると自らを卑下して語るスレーターに対し「自分は生まれたときから黒人であり、それが生まれてから死ぬまで一生続くんだから、お前なんかまだ良い」とキャッシーは語って聞かせるのである。
この一件から却って二人の間には何らかの“絆のようなもの”が生まれつつあったのだった。出撃前の夜「お前は、死ぬのは怖くないか?、俺は死ぬのが怖い…」とキャッシーはその内心を、心を許し始めたスレーターに打ち明ける。
戦いの日、キャッシーは奪った見張り台のガトリング砲を撃ちまくり、弾丸が尽きそこを離れようとした時に敵の銃撃にあって屋根から転落してしまった。その様を見て駆け寄ったスレーターは、キャッシーが命を落としたのを知って取り乱し、片手で劇鉄を起こして銃をうちながら、まるで放心状態で敵の方向へ向かって歩みを進めるが、そんな無防備な状況にディエゴの銃弾を浴び、キャッシーの後を追うかのように絶命するのであった。
映画の終盤近く、クリス、レビー、マックス意外の仲間の4人までは既に討ち死にし、マックスも深傷を負った直後、クリスが敵であるディエゴ大佐を倒したのと前後して、ボスとクリスとの対立により協力を拒否した“メキシコ人の山賊”たちがそのボスを見限り援軍に駆けつけたことで、この戦いも終焉を迎えることとなるのであるが、それもまた、国を思うマックスの熱い心に打たれて愛国心を呼び覚まされたことと、そのマックスが信じる“クリス”たちの行動あってこそだったことであろう。
しかしそれも、彼らの“七人の銃”がその愛国心を呼び覚まし、「臆病者は、本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない。」様を示した事が、彼らを鼓舞する切っ掛けの礎となったのであり、七人の戦いは見かけ上負けた(失敗した)かのように見えるが、その実、大義において彼らは勝者(勇者)に他ならなかった。
そして以上の事柄を踏まえて考えたとき、そこから主人公である“クリス”役に、アカデミー助演男優賞を受賞して演技派として認められつつあった“ジョージ・ケネディ”を採用した理由が見えてくる気がした。
ただの「ガンさばきが達者な俳優」には無縁なキャスティングだったということ。
そのようなことを求めた作品ではないと。
『新』の公開時、翌‘69年に公開の、終盤に同じような敵要塞内での攻防戦を見せ場とした『ワイルドバンチ』は未登場。“時代の波に取り残された無法者たちの滅びの美学を描いた「最後の西部劇」”などと言い表されるが、登場時期のそのタイミングによる両者の関係は微妙である。
本作の置かれたポジションは決して高いものとは言えず、またその完成度の点から言えば、ストーリー展開、人物描写などや演出についても甘い点も多く、決して想定された思惑通りに成功している作品であるとは言えないだろう。
しかし、それでも私はこの映画を、味のある、忘れられない一本として記憶に留めておきたいと思う。
本作品のために新たに編曲・演奏がなされたテーマ曲が心にしみます...