「フィクションに滲む真実」クローズ・アップ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
フィクションに滲む真実
モフセン・マフマルバフの名を騙り、ブルジョア一家の歓待を受けた青年。真実を知った彼らに訴えを起こされた青年は、法廷で「映画監督になればみんなが自分の言うことを聞いてくれると思った」と陳情する。しかし一方で彼は、君がテーマのドキュメンタリーを撮りたいと申し出てきたアッバス・キアロスタミに「持たざる者の痛みに耳を傾けてほしい」と切実な思いを述べてもいた。
「持たざる者」として長らく存在を無視されてきた彼が、他者との関わりを回復するために映画監督、つまり「持つ者」に成りすまそうとしたことは当然の帰結だといえる。実際、そうすることで青年は一時的にブルジョア一家から尊敬と信頼を獲得することに成功する。
しかし映画監督(のふりをした青年)とブルジョア一家を取り結ぶ関係にもまた持つ者・持たざる者の傾斜がある。青年をマフマルバフだと信じたブルジョア一家は、知性や名声といった点において自分たちを凌駕する彼にほとんど全面的に跪拝する。彼らはところどころで「この人なんか変だな」とは感じつつも、マフマルバフというネームバリューに逆らうことができない。
結局ブルジョア一家は青年が偽物であることを喝破し、彼を警察に突き出すが、翻って言えば、彼がもし本物であったならば、ブルジョア一家は依然として彼の指示に従い続けていただろう。
これら一連の描写には「持つ者」が「持たざる者」と関わることの困難さが露呈している。「持つ者」が「持たざる者」と近づいたとき、「持たざる者」は青年のように自分を誇大広告するか、ブルジョア一家のように盲目的な従順を示すしかない。言わずもがな、そのようにして実現した「関係」にはフラットさが欠如している。
このことはドキュメンタリーにおける「撮る者」「撮られる者」の関係にも敷衍できる。どれだけ作家が虚心坦懐にカメラを向けようが、カメラを向けられたほうは否が応でもそれを、あるいは作家の存在を意識してしまう。そういえば蓮實御大も「カメラに収めてしまった瞬間、何であれそれはフィクションになる」とどこかで言っていた。しかし言わずもがな、カメラを向けなければ作品は生まれない。
このようなジレンマを果たしてどう解決すべきか?アッバス・キアロスタミが用意した解はとんでもなくアクロバティックなものだった。それは、実際の事件の当事者たちに、当時のできごとをフィクションとして再演してもらうというものだ。
これは演者たち、つまり当事者たちにとっては過去の傷を抉られるような苦痛に等しい。しかしそれでもキアロスタミは彼らに演じさせ続ける。カメラを向け続ける。
思えば本作が撮られる直前、キアロスタミは既に他の映画の製作に取りかかっていた。しかし「マフマルバフを騙った男が逮捕された」というニュースを耳にした瞬間、彼はそれまでの製作をすべてほっぽり出して本作の製作を開始した。要するにキアロスタミは純粋に自分の映画監督的欲望から本作を撮りはじめたといえる。敢えて嫌な言い方をすれば「持つ者」としての暴力的な職権行使だ。
しかし彼は、そんなことは初めから自覚していた。既に述べた通り、映画監督という絶対者=「持つ者」として事件によって傷ついた「持たざる者」たちに臨む以上、本作を完全にフラットなドキュメンタリーとして撮り上げることはそもそも不可能だと。
それならばいっそフィクションにしてしまえばいい。演者たちに向かって「君たちは君たち本人として何かを語る必要はありません。君たちはただ、過去の自分を演じてくれればいいのです」と伝えてやればいい。
自分を語ることは難しい。ましてやカメラの前で本音を吐露することなど、よほど傲慢な自惚れ屋でもない限りできない。だから敢えて「演技」させる。何かをそのまま語ることは難しいが、演じるという中間性を介入させることでそれはグッと平易になる。演者たちは自分自身を演じているうちに、自分でも気が付かないうちに節々で本音をこぼしている。
キアロスタミは「撮られる者」つまり「持たざる者」に水準を合わせず(そもそもそんなことは不可能だから)、むしろ「撮る者」つまり「持つ者」の立場から彼らに演じることを、フィクションに徹底することを命じるのだ。それによって逆説的に彼らのノンフィクションな真実が浮かび上がってくる。
「命じる」とは言ったものの、何もキアロスタミは演者たちを顎で使っていたわけではない。むしろ青年とブルジョア一家の確執に自ら斬り込み、自分自身も一人の演者として映画に参画していた。理論はどうあれ事実として他人を巻き込んでいる以上は自分自身も巻き込まれなければいけないだろうというフェア精神がいかにもキアロスタミらしい。冷静さの中にも絶えず温かい人情が流れている。
色々と述べてきたが、本作はドキュメンタリーに対するフィクションの全面勝利を高らかに謳い上げるといった類の作品でもない。青年が本物のマフマルバフと出会う場面からの一連のシークエンスは完全に青年の意表を突いたドッキリだという。泣き崩れる青年に優しく語りかけるマフマルバフ。すると突然隠しマイクが壊れ、音声は途切れ途切れになってしまう。このなんともうまくいかない歯痒さ、もどかしさはドキュメンタリーならではの醍醐味である。これが演出ではなく偶然起きてしまったことだということがひたすら恐ろしい。もはや奇跡というか、映画の神に愛されているとしか形容しようがない。