華麗なるギャツビー(1974)のレビュー・感想・評価
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『When You and I Were Seventeen』
『When You and I Were Seventeen』に続き、彼の親父が息子の事を話す『彼は頭が良いので、彼の未来は明るかった』
さて、
エジソンは東部から離れない生活をしたらしい。
『息子は東部が好きだ。出世したのも東部だ』その彼の昔の言葉を親父が話す。
『発明が出来る。勉強をする』さて、エジソンは西のハリウッドが嫌いだったらしい。
まさか、ギャツビーってエジソン?
『友情は死んでしまえばそれまでだ。死んじまえばそれまでだ。』
トムが話す話は『マインカンプ』の一節。
女の子が産まれた時『女の子で良かった。小さなおバカさんで良かった』
勿論、女性はウマシカではない。
話は大団円。男のロマンは経済恐慌と共に終焉を迎える。
原題 The Great Gatsby
製作年 1974年
製作国 アメリカ
劇場公開日 1974年8月3日
上映時間 144分
虚しさがなんとも言えない
出てくる女性がみんな酷いやつなのは、女性としてはなんとも言えない。スコットフィッツジェラルドは昔の人だから仕方ないのかもしれないけど、あんまり気持ちのいいものではない。でも、ロバートレッドフォードが謎めいた雰囲気をよく醸し出していたし、やっぱり何と言っても、ラストのバタバタした感じで一気にストーリーが展開するところは見ものだった。
主人公が鳥に餌をあげているところも、ギャツビーのパーティーの暗喩みたいで面白かった。
ただ、ギャツビーとデイジーのラブシーンで靄がかかったみたいな光の演出がちょっと過剰で、おっさんずらぶみたいなコメディタッチに見えるほどだったのが残念だった。
「男の純情」と 配役の妙
エキセントリックで愚かな、カマトトお嬢デイジーに引っ掻き回される 悲劇である
デイジーと その夫の愛人は 硬貨の表と裏の様で、
これらに苦い思いをさせられる ギャツビーと修理工場の男に同情
また、階級差による 雄の雌を巡る本能的な闘いの様でもあり、上位者(デイジーの夫)が 下位者二人に勝利している
珍しく「男の純情」を美しく 謳いあげた映画である 原作の方が「アメリカンドリームの本質(その、いかがわしさ)」を突いているのだが…
ネルソン・リドルの音楽も 哀愁があり、若いアメリカに想いを 馳せる
ファニーフェイスのデイジー(ファーロー)が 化粧や
衣装や出自で「美人」になり、同系統の愛人
(カレン・ブラック)が 貧乏から「異質」な感じがするのも、皮肉である
綺麗にラッピングされた女 と むき出しの女…
アッパーカットをくらい、鼻血を出す ブラック!
ラッピング女は 殴られないし、彼女の通り過ぎた後は 死体の山である
浮世離れも徹底されると、ある意味 凄い
そして 周囲(上位者)も 被害者(下位者三名)のことは 無かったことに…
これも 階級差とラッピング効果だろうか…
新大陸アメリカに「階級」の構築って、
何がしたい!?… という、話でもある
私は ファーロー、ブラックという 曲者女優が 一つの映画で 正妻と愛人という形で共演していることに、めまいがする
彼女達と 互角に戦っている(笑)デイジーの夫トム役の ブルース・ダーンは凄いのではないか、と だんだん思い始めた
又、泣かされる男達が レッドフォード、スコット・ウィルソンなのも 味わい深い(笑)
配役の妙、である
「恋」って 不思議!
若いアメリカの 価値観の混乱の、その中で 男達の 女に対する「考察」が あんまり出来てなかった時代の話ではある
原作は 無駄な言葉がなく、最も詩的な散文の ひとつ(らしい)
自信のある方、勉強中の方は是非 チャレンジしてみては?
純粋で繊細な狡くて悪い男の横恋慕
総合75点 ( ストーリー:80点|キャスト:75点|演出:70点|ビジュアル:70点|音楽:60点 )
村上春樹が絶賛していたので、本人が訳をしている原作を昔に読んでみたが、派手な生活の影でいつまでも心の内で一人悶々と悩み続けるギャツビーの姿に特にはまれず。そんな原作の内容もおおかた忘れてしまったところで本作を鑑賞する。
上流階級の人々が暇を持て余して不道徳と享楽に耽る様子を眺めているのは、『甘い生活』を思い起こさせる。その中で段々と謎の隣人の正体に興味が湧いてくる。一体彼は何者なのか、自分が顔を出さないこの派手な宴会は何の意味があるのか。
彼は貧乏で不幸で小心で劣等感だらけで、それを隠すために噓つきで狡くて、それでも純粋無垢で繊細であった。穢れた大人の世界では、彼は浮いていたし馴染むことが出来なかった。経済的には成功を収めても、過去は取り戻せないし無垢な心が穢れた現実も受け入れられないし真実を捉えることも出来なかった。不幸で貧乏なころに心に残った輝く思い出のあの人は、いつまでも理想のあの人のままでいて欲しかったのだろう。彼は純粋に狡い浅薄な女を愛し、それなのに女も純粋であって彼を愛し続けていてくれたと一方的に思い込んでいた。
金も学歴も地位もある人々との社会格差を、違法行為に手を染めて成金になって学歴詐称をしても猶完全には埋めることが出来ず、それでも思いだけは届いていると信じている。その繊細な男が一人で盛り上がり自滅していき、そして使用されるだけ使用されて命まで失う。彼にとって苦労して手にした金や地位は、たった一人の女のためであった。でも上流階級の人々にとっては、その地位が何より大切であった。その様子に哀れみが感じられて、なかなかに面白かった。
原作を読んだときにはそうでもなかったのだが、人物と映像が視覚的に入ってくると簡単にギャツビーの人物像が理解できた。いずれ原作を読み直してもいいかと思った。
次は原作を読もう
ディカプリオの最新作を先に観て、あらためてレッドフォード主演作と比べてみた。
まず、両作品の類似点の多さに驚く。特にオープニングのシーンなどバズ・ラーマンがあえてジャック・クレイトンに忠実に作ったのかと思えるほど。とはいえ、ジェイがニックに自らの半生を語るところは最新作のほうが丁寧で、逆にラストシーンで登場するはずの父親が出てこないところは大きく食い違う。またデイジーの夫で大金持ちのブキャナンが修理工ウィルソンに女房殺しの「犯人」をそそのかすやり方も多少の違いが見られる。
個人的にはディカプリオのジェイ、ミア・ファーローのデイジーのほうがが印象に残るという困った結果になった。ニックも見た目はサム・ウォーターストーンなんだけど、語り部としての役割はトビー・マグワイアのほうが大きく、うーん悩ましい。
青年の日の夢と野望と社会における階級制度と(涙)
青年の日の夢と野望と社会における階級制度と・・・。(涙)
私の不良少年時代に最も影響を与えてくれた映画です。
最底辺の公立高校ですら、退学寸前だった私は、この映画に出てくるギャツビーの姿に憧れて大学進学を志すようになります。
けれども、一浪後、進学出来たのは明治学院大学社会学部社会学科の夜間。
ANA系の旅行会社の添乗員として働き、4年間成績優秀、奨学金を貰いながら卒業しました。
1980年代後半に学生時代を過ごした私は、運よく学生時代がバブル全盛期と重なりました。大学1年の秋から、六本木のDISCOを借りきってのパーティーを主催。
やがて他大学の友人達と一緒に始めた合同パーティーのリーグは大当たりし、春の新歓、秋の文化祭、クリスマスシーズンなど、毎週のように合同パーティーを主催るようになります。
私は、主催者の一人でありながらも、司会や受付などの表舞台はハンサムな友人達スタッフに任せて、スポンサーと金と、美女と利権を操り、常にVIPルームなどから、パーティの様子を眺めているギャツビーのようになっていったのです。
そして、冬のスキーシーズンには、北海道への格安スキー旅行を企画し、学生ツアーとして大当たりしたのです。
さて、この映画の見所のひとつは、豪華なパーティーシーンや衣裳の素晴らしさ。
ロバート・レッド・フォード演じるギャツビーは、男から見てもそのかっこ良さに痺れてしまいます。
エール大学卒と称するギャツビーの学歴は、勇敢な兵士として、戦場で手柄を立て勲章を貰った褒美として聴講生として通ったもの。
正式な卒業生ではなかったのです。そんな普通の庶民出身のギャツビーが心から愛した運命の女性は、上流階級の美女ディズィ。
ディズィは、優秀な下士官であったギャツビーと恋に落ちるも、エール大学卒の上流階級の男性の元へと嫁いでしまうのです。
転戦し、戦地にてディズィの婚約を新聞記事で知ったギャツビーは、上流階級の人妻となったディズィの心を取り戻すという大いなる野望を抱くのです。
手段を選ばず、金の亡者と化したギャツビーは、ディズィ夫妻の邸宅のある対岸に、豪華な屋敷を建て、毎週のように豪華なパーティーを主催するのです。
全ては、ディズィの心を取り戻すためだけに・・・。
【明日に向かって撃て!】
【スティング】
【華麗なるギャツビー】
を、私は勝手にロバート・レッド・フォード三部作と称しています。
【華麗なるヒコーキ野郎】
や、
【追憶】
よりも、どうしても、私の思い入れの上では、
【華麗なるギャツビー】
の方が強いのです。
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