「小コント集でつづる、中世清教徒団のリアル」神の道化師、フランチェスコ パングロスさんの映画レビュー(感想・評価)
小コント集でつづる、中世清教徒団のリアル
アッシジのフランチェスコについては、ゼフィレッリが監督した『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972年)で知ったクチである。
彼の大ヒット『ロメオとジュリエット』(1968年)と同じく、ヴィスコンティの弟子ながら、フィレンツェの英国人コミュニティ育ちの経験を活かした、ハリウッド製ウェルメイド歴史劇として青年層に受けた作品だ。
ドノヴァンによるタイトルそのままの主題歌は今でも口ずさめるほど身体に染み込んでいる。
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【以下ネタバレ注意⚠️】
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ロッセリーニの作品は、本作が初めてだろうか。
自覚的に映画を観はじめたころ、まだ健在だったヴィスコンティ、フェリーニ、パゾリーニらの新作が毎年のように劇場にかかっていた。
「サヨナラおじさん」こと淀川長治が、彼らの作品を推奨していたこともあって、何も分からないなりに、都心の劇場まで通ってそれらを観ることが何よりの冒険でもあった。
彼らのことを勝手に「イタリア御三家」などと呼んで、映画入門を始めた格好になる。
だが、その後、興味関心の中心が、オペラや歌舞伎、能狂言などの生の舞台芸術にシフトして行ったため、特段シネフィルにもならないまま今に至っている。
だから、「御三家」の先輩ないし師匠格にあたるロッセリーニについては、名前だけは認識していたが、作品は何か観たかも知れないが程度。デ・シーカに至っては、シネフィルの必修科目『自転車泥棒』(1948年)ですら多分観ていない。
ということで、初ロッセリーニに本作が適当だったかは措いて、もともと聖フランチェスコには関心があったので、興味深く観た。
まず驚いたのは、本作はキリスト教史における最も著名な聖人を扱いながら、実は、まったく宗教映画ではなかった事実だ。
パンフレットで中条省平氏が指摘しているが、ロッセリーニは神をまったく信じていないと断言していたらしい。
最近、ブリッツ・バザウーレ版『カラーパープル』やリュック・ベッソンの『DOGMAN 』におけるキリスト教、アリ・アスターの『ボーはおそれている』におけるユダヤ教など、強迫観念としての宗教を前面に出した作品が相次いでいる。
ところが、先のヴィスコンティ、フェリーニ、パゾリーニにしても(そのあとの世代、例えば、ベルトリッチにしても)バチカンのお膝元でありながら彼らの作品には、まったくと言って良いほど宗教色がないことに気づく。
これは、イタリア映画界に浸透していた骨がらみの左翼性、マルキシズムの宗教否定の思想が、彼ら映画人に共有され血肉となっていたからに相違なかろう。
これに対して、早くイタリア映画界からハリウッドに転身したゼフィレッリは、臆面もなく、聖人としてのフランチェスコや宗教カリスマとしてのローマ法王を描いて恥じることがなかった。
実は、小生、レクイエムや受難曲といった宗教曲や、日本の能に代表される宗教劇に滅法弱い(ここでは感動してしまうという意味で)。
その事始めが、『ブラザー・サン シスター・ムーン』だった可能性があるのだ。
聖人やローマ法王の起こす、奇跡・秘蹟のもたらす法悦とか宗教的陶酔とかに、とにかくイチコロになってしまうのである。
マルキストの立場からすれば、そういった受動性こそ、反動そのものだと指弾されることになるだろう。
ということで、聖フランチェスコをタイトルロールとし、おまけにナザリオ・ジェラルディ以下、実際のフランチェスコ会の修道士たちが劇中でその役を演じていると聴けば、いかほどの宗教劇だろうかと人は期待するだろう。
しかし、ロッセリーニと共同脚本のフェリーニは、その期待を見事に裏切って、奇跡も見せなければ、彼らの教説を説得的に示そうともしない。
法王も登場しないし、暴君ニコライオが修道士ジネプロを解放するのは、その教えに帰依したからではなく、ニラメっこに負けたからだと描かれる。
そもそも修道士フラ・ウゴリーノの『聖フランチェスコの小さな花』と『兄弟ジネプロ伝』から採った10の断章を、無声映画の字幕よろしく各章の最初に表示するが、
◇プロローグ 「住んでいた小屋をロバに占拠され」とあるが、実際は、たまたま雨宿りで入った小屋にいたロバを飼う主人の農夫に追い出される。
◇エピソード8 「聖フランチェスコが兄弟レオーネと共に完全なる歓びを体験した」とあるが、実際は彼らが教えを説こうとした相手に拒絶されて泥沼のなか身悶えながら「これこそ完全なる歓びなのだ」とヤケクソのように自分たちに言い聞かせる。
など、ことごとく、実際に映し出された彼らは、断章の言葉を裏切って見せるのだ。
要は、本作は、中世における聖フランチェスコと彼に付き従う修道士たちのコミュニティをリアルに再現したものなどではなく、そうした設定に、実際の修道士たちを投入して作り上げたシチュエーションコメディ、一種のコント集というべきものではないか。
ロッセリーニの作風は不勉強で何も分かっていないが、ニコライオの一件を観ても、どうにも『道』のザンパノのごとき、フェリーニ風の実存的コメディの風味を感じてならない。
修道士たちの姿を見ても、ありがた味を何ら感じず、ちょこまか歩き回る彼らの姿にコント味を覚えるのは、おそらく正しい鑑賞法だったのだ。
「神をまったく信じていない」ロッセリーニとフェリーニが作り出した、聖フランチェスコをお題としたシットコム、それが謎多き本作の正体である。
✴︎聖フランチェスコと高山寺の国宝肖像画に描かれた小鳥やリスとともに坐禅する明恵上人との共通性や、じゃいさんがレビューで指摘された聖愚者というテーマから敷衍される、エラスムスの『痴愚神礼讃』、ワーグナーの『パルジファル』、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』、一休宗純や松尾芭蕉らの「風狂」についても言及したかったが、蛇足が過ぎそうなので、この辺までとしておきたい。
かばこさん、コメントありがとうございました。
貴レビューへもコメントさせていただきましたが、かばこさんの文章が、ステキにユーモラスで、作品の楽しさを思い返すことができました。