悲しみの青春のレビュー・感想・評価
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心と身体が引き裂かれるユダヤ女性のナチスへの抵抗を描いた、デ・シーカ監督晩年の知られざる秀作
悲劇と喜劇のいづれも熟し、大衆の視点に寄り添った映画作りを知り尽くした職人的な名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督晩年の秀作である。かつてのネオレアリズモ映画全盛時代の鋭くも情感豊かな演出タッチは、この70年代の映画にはなく、前年の大作「ひまわり」のような心を揺さぶる感動もない。ジョルジュ・バッサーニの小説「フィンツィ・コンティーニ家の庭」を脚色した物語そのものも取り立ててドラマティックで無く、デ・シーカ監督としては珍しい上流階級の描写は、同じくネオレアリズモ映画でイタリア映画界を支えたルキノ・ヴィスコンティ監督の貴族趣味の貫禄に遠く及ばない。
しかし、ここには映画作家デ・シーカ監督が長年抱いていたであろう第二次世界大戦とファシズム、そしてナチズムへの想い、その本音のようなものを青春回顧の感傷として静かに語る味わいがあり、そこが何とも言えない映画美を繊細に表現していた。名人芸の余力というものが間違いなくある。「ひまわり」が戦争で引き裂かれた恋人たちの哀切なる愛のドラマに対して、この作品は悩み多き青春期のこころと身体が引き裂かれる苦しみの青春映画となっていた。日本題名が感傷的過ぎて甘く安易なイメージのタイトルではあるが、内容を考えると合っている。
主人公はユダヤ人の青年ジョルジュ。北イタリアに住む裕福なユダヤ人一家コンティー二家の長女ミコルに好意を寄せている。北欧的な気品と何処か醒めた眼差しが美しいドミニク・サンダが演じているが、このミコルという女性がこの映画の本当の主人公である。彼女には病弱な弟アルベルトがいる。これをヘルムート・バーガーが演じてはいるが実際の年齢より大分若い設定であり、弱弱しく扮していて違和感はそれほど感じない。この美しく淑やかで気丈な姉と気弱な弟の対照的な生き方、その後の運命が物語を進める。時はユダヤ狩りが進む不穏な時代。ジョルジュは友人関係からミコルと付き合い始め二人は相思相愛のように見受けられるが、ミコルはジョルジュの要求を拒む。戸惑い悩むジョルジュ。貞淑を装うミコルだが、何故かプレイボーイの男に簡単に身体を許してしまう。これは罪深き行為ではないか。好きでもない行きずりの男と結ばれるミコルの本意は何処にあるのだろう。ユダヤ人のミコルはナチズムによって運命づけられる未来に対して、彼女なりの闘いを挑んだのだろうか。青春期の淡い初恋を想い出にするような生き方を選ばず、悪に対して身体を汚すことで立ち向かったとすると、なんと悲しい選択をしたものか。このミコルの強い精神力と覚悟には、男として言葉がでない。自暴自棄に見えて、全くそうではないところに女の怖さと想いの深さがある。この場面の前にある、夜の暗がりの中庭を歩くナイトウェア姿のミコルを部屋から見詰めるアルベルトのショットが凄くいい。結局アルベルトは家族がナチスに強制連行される前に病気で亡くなり、短い一生を終える。しかし、悲劇はこれだけではなく、彼女を純粋に愛していた温厚なユダヤ青年ジョルジョがその生々しい情事のミコルを見てしまったことだった。彼はどうにか生き延びるも、この衝撃の出来事を戦争の記憶として一生引き摺らなくてはならないのだ。ナチズムの呪縛から解放されることなく、人生を通して彼女を理解しようとするジョルジュの物語は、二重の意味で悲しく重い。
小説として読んでもこの内容なら心に刻まれるだろう。それでもミコルそのものを演じたドミニク・サンダの魅力と妖しさがあるこの映画は、より衝撃的で具体的な為理解し易いと思う。その意味で、これは映画として忘れられないし、デ・シーカ監督の落ち着いた演出と静かなタッチは作品の世界観を美しく残酷に創作していた。あまり知られていないが、デ・シーカ監督の代表作の一本に挙げたい。
1976年 12月11日 池袋文芸坐
歴史的悲劇の向こう側にある青春
アカデミー外国語映画賞を獲った本作。
ムッソリーニが次第に頭角を現し、戦争に突入していく当時のイタリア。
子供の頃の精神的な愛情と肉体的行為を切り離し、大人になっていく初恋の女性。
イタリアもドイツと手を組み参戦するようになり、ユダヤ人迫害が始まっていく。
主人公ジョルジュは逃げ、ミコルは捕まってしまう。ミコルを最後に見たのが彼女の弟の葬式の姿。
監督自身の思い出を描いた作品なのかも。忘れられない青春の思い出と、歴史の1ページが重ね合わせて描かれる。
ドミニク・サンダがあまりにも薄情な女に見えてしまうかもしれないけれど。
精神的な愛と肉体的行為を切り離す気持ち、男には分かるかなー。分からないかも!?
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