劇場公開日 1976年4月3日

「「正常」と「異常」を分かつこと」カッコーの巣の上で よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

3.0「正常」と「異常」を分かつこと

2017年4月15日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

泣ける

怖い

知的

 「正常」と「異常」を分かつ線を引くことと、多数決をとるタイミングを決定すること、そのどちらもが「権力」そのものである。
 「多数決は常に民主的である」ということの欺瞞が映画でも喝破されている。たいていの多数決には、徹底的なデータ分析やロジックを掘り下げるという意味での議論は存在せず、ある特定の人(たち)によって、いつ誰によって決めるのかということが恣意的に決定されていくプロセスがある。
 また、その場の雰囲気や、自分に対して権力を持つ者の意向から自由な思考によって行動することは、たいていの人々にとっては難しい。
 映画は、精神病棟の看護婦長と患者たちという関係によってそのことの恐ろしさ、冷たさを表している。
 この婦長は患者たちのことを考えて、良かれと思うことを日々行っている。そして当然のように、いたって常識的で優秀な管理者である彼女によるイエス・ノーがこの病棟のルールでなのだ。
 恐ろしいのは、これが精神病棟特有の事態ではなく、ジャック・ニコルソン演じる主人公がここへ来る前にいた場所、つまり、どこにでもある普通の社会と共通の事態だということである。
 なぜそのようなことが言えるのか。
 なぜなら映画の冒頭で、彼がどうやら年端のいかない少女との性行為に及んだことが示されるが、このことが犯罪行為とされることについて主人公は納得していない。ここでも、何が犯罪とみなされ、どこまでがセーフなのかという線引きに彼自身は参画出来ない。つまり、彼は心底、自分のしたことの何が犯罪に値するのかについて納得していない。
 そして、犯罪者が獄中で期待される振舞いを無視する彼は、犯罪者のレッテルを貼った側にしてみれば、規格外の人間とするよりほかないのである。
 この規格外の人間の送られる先が精神病棟である。
 映画は犯罪者や精神病患者を隔離するシステムの内包する狂気を明らかにする。観客の覚える戦慄はこのことによる。

佐分 利信