「無声映画愛と美術史的文脈に裏打ちされたソリッドなカメラワーク。もう一つの『女は女である』悲劇篇。」女と男のいる舗道 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
無声映画愛と美術史的文脈に裏打ちされたソリッドなカメラワーク。もう一つの『女は女である』悲劇篇。
ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』観て、衝撃受けるのよくわかるわぁ。
俺もそうだったもん! あれはマジで人生変わる映画。
ゴダールが『女は女である』のあとに撮った、長編第4作。
同じ映画館で続けざまに観たということもあってか、本当に対になるような映画だった。
『女は女である』はカラー、『女と男のいる舗道』はモノクロ。
『女は女である』は喜劇、『女と男のいる舗道』は悲劇。
『女は女である』はPOP、『女と男のいる舗道』は古典。
同じミシェル・ルグランの音楽にのせて、「男女のすれ違い」と「女性であることの生きにくさ」というほぼ同一のテーマを、似たような皮肉のきいた視点から描いた作品でありながら、両作から与えられる印象は正反対といっていいほど異なる。
いちばん異なるのは、撮り方だろう。
『女は女である』は、じつは入念に計算された撮り口ながらも、表面上はあくまでPOPで「即興的」に見えるよう、設えてあった。ちょうどゴダールの書く台詞と同じように、本当は練り上げられていても、「成り行き」まかせで「即興」に見えるよう、わざとがちゃがちゃと散らしてあった。
だが、『女と男のいる舗道』はちがう。
1シーン、1シーンが偏執狂的に作り込まれ、一分の隙もない構図どりと、考え抜かれたカメラワークを極めたうえで、いかにも「これみよがしに」それを見せつけてくるのだ。
やたらギミックを重視するそのやり口は、どちらかというとアルフレッド・ヒッチコックやオーソン・ウェルズに近いかもしれない。
いわゆる「ギミック地雷原方式」とでもいうのか。
要するに、観客がギミックに「気づいて」「見抜いて」「したり顔になる」一連のマウント行為から得られる悦楽それ自体を、作品の魅力として先験的に取り込んでいるタイプの映画である。
ヒッチコックの『断崖』を子供と観てるパパが、「おい、知ってるか、あの牛乳光って見えるだろ、あれ中に電球が入ってたんだぞ!」と自慢して、息子が「すごいね、パパ!」と返すようなアレである。それが本当に「サスペンスフル」かどうかは誰にもわからないが、少なくともそういう仕掛けに「気づく」ことで「サスペンスフルなものを観た気」にはなれる。
ゴダールがやっていることも一緒で、ここで駆使されるギミックのおかげで、本当に男女のディスコミュニケーションや女性の生きる苦しみが表現できているかは実のところわからないが、少なくとも観客が「それに気づく」よう仕向けることで、ゴダールが「何をやりたかったか」は伝わる、という仕組みだ。
とにかく本作で、ゴダールは徹頭徹尾「撮り方」にこだわっている。
すべての撮り方に「意図」がほの見える。
それは、『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』あたりと比べても、明らかに顕著な傾向であり、この「技巧性」「作為性」「ギミック性」こそが、「スタティックで古典的な画面作り」と合わせて、本作独自の個性だといってもいいくらいだ。
加えて、ゴダールは本作で、しきりと「絵画的」(正確には「美術史的知識に裏打ちされている」)と思わせるようなショットを入れてくる。
技法の意味性。ソリッドで静的な画面作り。無声映画へのリスペクト。絵画芸術の引用。
要するに、彼は『女と男のいる舗道』において、「オーセンティック」さ――過去の芸術につらなる、自らの芸術の「正統性」を主張しようとしているのかもしれない。
●古典・無声映画への回帰
オープニングのスタッフクレジットからして、遊び心いっぱいだった『女は女である』と比べても、実に落ち着いたスタティックなつくりだ。
タイポグラフィや文字組も、無声/モノクロ時代の定型に、敢えて当てはめてある。
全12章のタイトルが挿入される『スティング』みたいな作りも、サイレント映画へのオマージュだろう。
アンナ・カリーナが作中で観る『裁かるるジャンヌ』の部分引用は、まさに無声映画へのリスペクトそのもの。さっき見たWikiによれば、ヒロインのショートボブやラストの唐突な展開にも、『パンドラの箱』という無声映画に元ネタがあるらしい。やっぱりね。
画面作りにおいては、横長の画面を柱や壁の端で三分割するような構図どりが頻出し、そのどこかにアンナ・カリーナを押し込んでいく。どこを切り取っても「絵」になるバランスの良い構図感覚は、ヴィスコンティにも負けていない。
●凝りに凝ったカメラワーク
「第一章」では、別れた夫婦を背後から一人ずつ撮りながら、嚙み合わない会話と分断された画面で、ふたりのディスコミュニケーションを描くのだが、奥のところに鏡が置いてあって、アンナ・カリーナの顔がずっと映っている(一瞬、夫の顔も映る)。
この、鏡を使って空間全体の情報を盛り込む手法は『女は女である』でも試みられており、それを前作以上に「ギミック」っぽく、観客を惹きつけるフックとして機能させている、ということだ。このあとも、トリッキーな鏡への映り込みは、ホテルでの売春のシーンやエレベーターのシーン、哲学談義のシーンなど、あちこちで見てとることができる。
レコード店のシーンでは、前作で部屋をぐるりとパンしていたのと似たカメラワークで、店内でのヒロインの左右の移動を追う。
写真家とバーで会うシーンでは、冒頭のバックショットと、レコード店のパンショットを混ぜ合わせたかのような形で、ふたりを半分ずつ映す形でパンする。
こうしてゴダールは、ヒロインと世界のディスコミュニケーションの深さを描き出すために、カメラを左右に振りつづけるのだ。
一方で、立ちんぼの集まる街路のシーンや、買春客との会話シーンなどでは、決まって後ろの壁が迫っていて後背にゆとりがなく圧迫感があるのも、アンナ・カリーナの置かれたどんづまりの身動きとれない状況や、見通しの立たない焦燥を「カメラワークを通して」表現しようという試みの一環だろう。
●美術史的文脈からの引用
この映画の原題は『自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画』。本作は出発点からして「絵画」をモチーフにとる映画である。
冒頭のクレジットでは、ヒロインのプロフィール(横顔)を、正面観を挟んでぐるりと見せてゆくのだが、この「プロフィール」自体、古代ギリシャ~ローマから、それを規範としたルネサンス(とくに初期~盛期)における女性肖像画の基本型であることを忘れてはならない。
先に述べた室内に置いた鏡を用いて、死角まで含めた三次元的な全体像を呈示する手法は、おそらくならベラスケスの『ラス・メニーナス』やファン・アイクの『アルドルフィニ夫妻の肖像』などで用いられた、著名な鏡の活用術にインスパイアされたものだろう。
アンナ・カリーナが子どもに会いにいくシーンでは、暗い室内の奥のほうでドアが開き、彼女のシルエットが浮かぶショットが繰り返される。この空間把握は17世紀~18世紀のフランドル風俗画における室内描写に典型的なものだ。
それから、最初の売春のシーンで、机のぎりぎりのところに男がマフラーと石鹸を置く描写があるが、これも、西洋の静物画においてきわめて一般的な、「儚さ」「メメント・モリ」の表現と無縁ではあるまい(静物画に「落ちそうなもの」と「腐りかけのもの」を描きこむことで「人生の儚さ」を表現し、「待ち受ける死を想うこと」をうながす。石鹸=シャボンもメメント・モリ表現の定番)。
●三つの「破調」と物語の終焉
息を押し殺したかのようにスタティックに展開してきた物語で、ふっと息をつくような、開放的な気分にさせてくれるのが、男性客の風船芸のパントマイムと、それに続くアンナ・アリーナのダンスだ。
あのアンナ・カリーナのダンスは、実にいい。
今までよどんでいたものが、一瞬ふっと吹き飛ばされて、視界がぱっと開けるような、爽快さがある。
(一方で、暴発しておしまいの悲喜劇的な風船芸は、アンナ・カリーナのラストをも予兆させる。)
次の章で、アンナ・カリーナは哲学者との「対話」を行う。
ブリス・パランは、実際にゴダールの哲学の師匠だった先生らしく、『気狂いピエロ』にカメオ出演して映画論をぶったサミュエル・フラーの哲学者版といったところか。
ここも、今までのノリからすると明らかに「破調」の要素だが、アンナ・カリーナはここでだけ、男性との会話を「きちんと成立させることができた」わけで、これもさきほどの「ダンス」と同様、アンナ・カリーナに一瞬の解放と救済をもたらす要素といえるだろう。
で、「陽」、「陽」、ときて、ラストのアレである。
いろいろと元ネタは取りざたされているようだが、一義的には『勝手にしやがれ』のセルフパロディ(というか女性版)というべきなのかも。
まあ物語の常として、ずっと浮かばれず、割に合わない人生を送ってきた不幸体質のヒロインに、すぅっと「陽」の光が差した後って、得てしてこういうことになるもんだよね……。
主演のアンナ・カリーナは、コケティッシュな魅力にあふれていた前作と違って、今回は外見も演技もかなり抑えめだ。でも、無表情と薄笑いの背後で常に涙をこらえているような、はかなげで幸薄そうなそのたたずまいは、これはこれで男の感情(と庇護欲とサディズム)を強烈に揺さぶってくる。
アンナ・カリーナ本人は出来上がったこの映画を観て激昂したとか何かで読んだ気がするが、『女は女である』や『気狂いピエロ』とは異なる形で、彼女の魅力を十分に味わわせてくれる映画だと僕は思う。