男と女(1966)のレビュー・感想・評価
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ルルーシュ監督との衝撃的出会い ~ 恋愛映画の金字塔
クロード・ルルーシュ監督の異色のデビュー作。
まず注目すべきは人物設定の妙。それぞれに配偶者をなくし子供を同じ寄宿学校に通わせるという共通点をもつアラサーの男女を冒頭から交互に映し出すことによって二人が運命的に出会うことを無言のうちに暗示する。モノクロームの車中、だがそれぞれの配偶者の職業とその死をそれぞれに語る時、鮮やかなカラー映像に変わる。二人の間は子供を介して少しずつ距離が縮まってゆく。影のある女アンヌはジャン・ルイよりも亡き夫をこころに堅く閉ざす。二人の距離が決定的に縮まったのはジャン・ルイが過酷なラリーを制しそれにアンヌが祝電を送ったとき:ブラヴォー、愛しています。それを受けたジャンは狂喜しパリまでの 6000キロをひたすらにとばす。そして宿命の地ドーヴィルで再会。子供たちを寄宿学校に預ける。子供たちの無知で無邪気に遊ぶ姿はいじらしく、かえってこころ痛む。ともに食事をして部屋をとり、ついに二人は結ばれる。しかしそのめくるめくときにもアンヌの脳裏には亡き夫の深い影がよぎる。これはカラーで映しだされる。アンヌのノリの悪さにジャンは「なぜ?彼は死んだんだよ」。気まずい雰囲気になる・・・。二人は憮然として別れる。しかしこのままではどうしても納得のいかないジャン。パリの駅まで車で先回りしてアンヌを待ち受ける。ジャンはアンヌを見極めると、駆け寄って抱擁する。だがこれだけで二人の愛はこの時、真実のものとなったといえるのか。多少の疑念は残るが…。この斬新な映画の劇中に流れるフランシス・レイの音楽はまさに革命的。
これぞルルーシュ監督の鮮烈で革新的な映像美だ。ルルーシュ監督に絶賛の拍手を送りたい。
風化した感は否めない。
雰囲気に満ちた作品である。随分と大胆にセリフをカット。音楽と映像だけで見せるところがクールで惹かれる。30年前に見たときは、もっとクルクル回っていたように感じた。が、その後マネされまくったせいか回転数が少ない印象になってしまった。映画ってのは本当は脚本を楽しむもんじゃないってことが良く伝わって来る良作です。フランス語だし。英語と感じが全然違う。この映画はフランス語じゃなかったら成功してなかったでしょう。
娘を持つ母親(アヌーク・エーメ)と息子を持つ父親(ジャン=ルイ・ト...
娘を持つ母親(アヌーク・エーメ)と息子を持つ父親(ジャン=ルイ・トランティニャン)、それぞれ子どもと休日を過ごし寄宿舎に送った後に出会ってしまう。この出会いのタイミングが自然で、すごくいい。辛い過去と子どもを持つ男女の恋愛の始まりがどうなるのか引き込まれました。
50年前の作品とは思えない程、今を感じるファッション、風景、ストーリー。
モノクロとカラーの使い分け、音楽、
シンプルなムートンコートをこんなにも大人っぽく素敵に着こなせるアヌーク・エーメの魅力。大好きな作品です。
ムスタング ・ア・ゴー!ゴー!
大人の恋愛話が中心と思いきや遣り取りに時間は使わず二人の過去に車、ナイスな古き良き時代の車のシーンが素晴らしい。
愛犬を連れた男の海辺のシーンを女が言ったセリフに相まって長廻しの撮影が素敵。
過去をカラーで現在をモノクロでセピア色に描くのも映像が綺麗で。
監督の趣味など良いバランスで普通の恋愛映画に収まらない感じが良い。
昔はこんな映画に酔ってたんだね
たとえば、チャップリンの「キッド」(1921年製作)「街の灯」(1931年製作)を観てみよう。
そこには、人間が生きることの根源的な悲しさ。そして時に「愛」は、残酷な一面をみせることも描かれる。
しかしチャップリンは、作品の中で「人生を生き抜くこと」の素晴らしさも同時に伝えようとしている。
これらの作品は大昔に作られている。
一年前、テレビで大流行りだった芸人のギャグは、今はもう、誰も笑わない。
そういう21世紀の日本でも、90年前のチャップリン映画は十分面白く、ときに「ワッハッハ」と笑えてしまうのである。
そこにはつまり、人間であればここはこう思う。人間であればここは悲しく思う。
人間であればこのツボを突けば笑う。
というある種の真理。
どんな時代であれ、人間の普遍性というものは変わらないことに気づかされる。
愛は崇高なものだ。
人間は音楽を愛し、笑いを愛し、そして異性に惹かれる。
愛は時に人間を盲目にさえする。
その逆転パターンがチャップリンの「街の灯」だ。
盲目の貧しい花売り娘は、浮浪者チャーリーを大富豪だと思い込んだ。
チャーリーは彼女に一目惚れし、一念発起、彼女のためにひたすら働く。
その献身的な働きの末、盲目の少女は手術を受けて眼が見えるようになる。
ラストシーン。
彼女の目の前に現れたのは、みすぼらしい浮浪者のチャーリー。
浮浪者は彼女に尋ねる。
「もう、見えるの?」
「ええ、見えます」
一輪の花を手に持ち、彼女の声に、ただ微笑む、浮浪者チャーリー。
映画はここで終わる。
愛はなんと残酷なのだろう。
「眼が開かれる」「現実を見る」ということはなんと残酷なのだろう。
そして愛は、やはり人間が持つ、最も崇高で美しい特質なのだ。
「キッド」や「街の灯」はサイレント映画である。
セリフすらないのだ。
しかし、21世紀の今観ても、やはり「名作」であり、映画芸術の「傑作」であり続ける。
さて前置きが長くなった。
本作「男と女」
公開50年を記念して、デジタルリマスター版での再上映である。
これを観てみたいと思ったのは、五木寛之氏の短編小説集「雨の日には車をみがいて」(僕はこの初版本を未だに大切に持っている)が大好きだったからだ。
この短編集の最初の方に、映画「男と女」のモチーフが引用されている。
五木氏のファンならご存知だろうが、駆け出しのライターである主人公が、愛すべき車に数々出会い、そこにまた、さまざまな女性が絡んでくるという、お洒落で小粋な作品集である。
男は女を愛する。しかし、男の中には、女以上に「クルマ」を愛する人種がいるのである。
本作「男と女」の主人公とヒロインは、カーレーサーと女性脚本家、という設定。
二人は、過去に結婚していて子供までいる。
ただお互いに伴侶を失ってしまった。
やがて二人は恋に落ちる。
この設定からして、まさに絵に描いたような「特権階級」の夢物語映画である。
この作品が作られたのは1966年。
日本公開も同年の10月である。
当時の日本の世情を見てみよう。
テレビでは「ウルトラQ」が放送開始
「サッポロ一番しょうゆ味」が発売開始
そしてビートルズが初来日した年だ。
ちなみに、カーレースでは前年の1965年、日本のホンダがメキシコグランプリで記念すべきF1初優勝を果たしている。
当時のカーレースは、いわば情熱とロマンをエンジンにぶち込んで走っていたようにおもう。
本作でもフォーミュラーカーと一般のスポーツカーが、ごちゃまぜで描かれている。
人々のモータースポーツに対する知識、関心はこの程度のものだったのだろう。
本作の劇中テーマ曲はあまりにも有名だ。
さらには、映画の手法として、ぶつ切りの編集。
手持ちカメラの多用。
二人が愛を語り合うシーンでは、あえてモノクロ映像にしている。
色彩のない明暗だけの映像を使うことにより、二人の燃え上がる愛が、どのような色彩を持つのか?
それは観客の自由な想像に任される。
いわば観客は「愛の色彩」を脳内補完するわけである。
フランス映画なので、登場する車は当然フランス車だと僕は思っていたが、
なんと無骨なフォードのムスタングなのである。
正直これには興ざめした。
ちなみに五木氏の小説「雨の日には車をみがいて」に最初に登場するのは
“たそがれ色”に変色してしまったオンボロ中古車の「シムカ」というフランス車である。別名「走る弁当箱」
1966年当時、駆け出しの放送ライターがマイカーを持つ、ということだけでも奇跡的なことだ。しかも外見はともかく「フランス車」なのだ。
「恋人と愛を語るには最高の演出だ」と五木氏も作中で語っている。
そして作中の「僕」は、1話目のラストシーンで「男と女」を三回続けて観るのだ。
それほどまでに当時、この作品はある種「時代のアイコン」でもあったのだ。
本作を初めてスクリーンで観て、僕がまず思ったのは、
「ああ、古い」
という印象である。
これはあくまで僕の個人的な主観であることを前もってお断りしておきたい。
映画手法としての
モノクロ映像とカラー映像の対比
手持ちカメラ
ぶつ切り編集
車載カメラ
登場人物のモノローグ
セリフと映像の不一致。
これらの手法は、1966年公開当時、まさに「流行」の最先端。
新しい波「ヌーヴァルヴァーグ」が、フランスから日本に押し寄せた!
と若い観客たちを熱狂させたのだろう。
しかし映画技法が単なる「ファッション」にしか過ぎなかった、という
極めて残念なことが、公開50年を迎えて、改めて僕には感じられたのである。
50年前のファッション作品は恐ろしく古臭く感じる。
しかし、90年前のチャップリン作品には、今なお観る人の心を響かせる、普遍性がある。
わずか数年で賞味期限が切れるような映画作品が、数多く製作される現代、21世紀。
流行という酔いが冷めたとき、22世紀にも鑑賞できる、芸術としての映画作品であるかどうか?
それが、ようやくわかるのではないだろうか?
おとなの恋の始まり
好みの作品でした。
恋が始まる時のドキドキ、ワクワクそして躊躇いを呼び起こしてくれて柔らかな高揚感に包まれます。
その後の映画作品で、似たような高揚感を抱いた記憶があるので、後世の作品に大きな影響を与えたんだろうなと思いました。
女心は揺れ続けて
フランス映画らしいおしゃれな映像だった。子供を寄宿舎に入れて、プライベートをおろそかにしない生活スタイルは、フランスでは当たり前なのだろうか。揺れ続ける女心と、最後まで追いかけ続ける男心。やはり男女というものがある限り、最高の相方を求め続けるのかも。
いつまでも甘美な余韻が残る映画
音楽も映像も会話もストーリーもアヌーク・エーメも全てが息を呑むほど美しい。アヌークのムートンコートの着こなしが驚くほどお洒落。。
時を経ても色褪せない映画とはこのような映画を指すのだろう。帰路についてもダバダバダがリフレインしている。
ザ・ロマンス!
ロマン主義の本懐、絶対的な関係性における不可能性。要約すると、たとえ運命の人で在ろうとも相手の世界を可変出来ないという絶望。しかし其も含めて抱く(貴方の世界を包むという理想が愛。期待通りのラストに歓喜!
ランデヴー、ザ映画←原理主義観せられた!
老人と犬
砂浜、海、船を捉える横へ流れるカメラワーク。
桟橋、車、老人と犬を捉えるロングショット。
これら全く物語の説明にはほとんど必要のないショットがこの映画の重要部分。男と女の話を説明するショットの合間の、これらのショットは言わば文章の行間のようなもの。つまり、これは行間を味わう映画。
夕暮れの桟橋を、犬を散歩させる老人が歩く。カメラはこれをロングでずっと追い続ける。このショットはCMやMTVのイメージに使える。1966年にこれをやってしまったクロード・ルルーシュは、時代と職業を間違えたとしか言いようがない。20年ほどで映像作家の仕事がようやく彼に追いつく。
それにしても、アヌーク・エーメの魅力には何度観てもやられてしまう。
この作品を初めて観た20代前半の私は彼女に大人の女を感じた。
それから20年経った今、私はスクリーンの中の女・アンヌよりはずいぶんと年上となった。しかし、アンヌは相変わらず自分よりも大人の女であり、その彼女を憧れの目で見つめてしまうのだ。
製作50周年を記念して、リマスターヴァージョンがこの秋公開されると聞く。アンヌにスクリーンで会えるのが楽しみで仕方がない。
クロード・ルルーシュ監督『男と女』の衝撃
クロード・ルルーシュ監督の異色のデビュー作。
まず注目すべきは人物設定の妙。それぞれに配偶者をなくし子供を同じ寄宿学校に通わせるという共通点をもつアラサーの男女を冒頭から交互に映し出しそれによって二人は運命的に出会うことを無言のうちに暗示する。モノクロームの車中、だがそこでの会話はカラー映像で語らせる:それぞれの配偶者の職業とその死を。二人の間は子供を介して少しずつ距離が縮まってゆく。影のある女アンヌはジャン・ルイよりも亡き夫をこころに堅くしまいこむ。二人の距離が決定的に縮まったのはジャン・ルイが過酷なラリーを制しそれにアンヌが祝電を送ったとき:おめでとう、愛しています。それを受けたジャンは狂喜しパリまでの600キロをとばす。そして再会。子供たちを寄宿学校に預けてホテルへ。ついに二人は結ばれる。しかしそのめくるめくときにもアンヌの脳裏には亡き夫の深い影がよぎる。これはカラーで映しだされる。「なぜ?彼は死んだんだよ」。気まずい雰囲気になる・・・。
これぞルルーシュ監督の斬新で革新的な映像処理だ。ルルーシュ監督に絶賛の拍手を送りたい。
全33件中、21~33件目を表示