劇場公開日 2016年10月15日

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「昔はこんな映画に酔ってたんだね」男と女(1966) ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5昔はこんな映画に酔ってたんだね

2016年11月5日
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鑑賞方法:映画館

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たとえば、チャップリンの「キッド」(1921年製作)「街の灯」(1931年製作)を観てみよう。
そこには、人間が生きることの根源的な悲しさ。そして時に「愛」は、残酷な一面をみせることも描かれる。
しかしチャップリンは、作品の中で「人生を生き抜くこと」の素晴らしさも同時に伝えようとしている。
これらの作品は大昔に作られている。
一年前、テレビで大流行りだった芸人のギャグは、今はもう、誰も笑わない。
そういう21世紀の日本でも、90年前のチャップリン映画は十分面白く、ときに「ワッハッハ」と笑えてしまうのである。
そこにはつまり、人間であればここはこう思う。人間であればここは悲しく思う。
人間であればこのツボを突けば笑う。
というある種の真理。
どんな時代であれ、人間の普遍性というものは変わらないことに気づかされる。
愛は崇高なものだ。
人間は音楽を愛し、笑いを愛し、そして異性に惹かれる。
愛は時に人間を盲目にさえする。
その逆転パターンがチャップリンの「街の灯」だ。
盲目の貧しい花売り娘は、浮浪者チャーリーを大富豪だと思い込んだ。
チャーリーは彼女に一目惚れし、一念発起、彼女のためにひたすら働く。
その献身的な働きの末、盲目の少女は手術を受けて眼が見えるようになる。
ラストシーン。
彼女の目の前に現れたのは、みすぼらしい浮浪者のチャーリー。
浮浪者は彼女に尋ねる。
「もう、見えるの?」
「ええ、見えます」
一輪の花を手に持ち、彼女の声に、ただ微笑む、浮浪者チャーリー。
映画はここで終わる。
愛はなんと残酷なのだろう。
「眼が開かれる」「現実を見る」ということはなんと残酷なのだろう。
そして愛は、やはり人間が持つ、最も崇高で美しい特質なのだ。
「キッド」や「街の灯」はサイレント映画である。
セリフすらないのだ。
しかし、21世紀の今観ても、やはり「名作」であり、映画芸術の「傑作」であり続ける。
さて前置きが長くなった。
本作「男と女」
公開50年を記念して、デジタルリマスター版での再上映である。
これを観てみたいと思ったのは、五木寛之氏の短編小説集「雨の日には車をみがいて」(僕はこの初版本を未だに大切に持っている)が大好きだったからだ。
この短編集の最初の方に、映画「男と女」のモチーフが引用されている。
五木氏のファンならご存知だろうが、駆け出しのライターである主人公が、愛すべき車に数々出会い、そこにまた、さまざまな女性が絡んでくるという、お洒落で小粋な作品集である。
男は女を愛する。しかし、男の中には、女以上に「クルマ」を愛する人種がいるのである。
本作「男と女」の主人公とヒロインは、カーレーサーと女性脚本家、という設定。
二人は、過去に結婚していて子供までいる。
ただお互いに伴侶を失ってしまった。
やがて二人は恋に落ちる。
この設定からして、まさに絵に描いたような「特権階級」の夢物語映画である。
この作品が作られたのは1966年。
日本公開も同年の10月である。
当時の日本の世情を見てみよう。
テレビでは「ウルトラQ」が放送開始
「サッポロ一番しょうゆ味」が発売開始
そしてビートルズが初来日した年だ。
ちなみに、カーレースでは前年の1965年、日本のホンダがメキシコグランプリで記念すべきF1初優勝を果たしている。
当時のカーレースは、いわば情熱とロマンをエンジンにぶち込んで走っていたようにおもう。
本作でもフォーミュラーカーと一般のスポーツカーが、ごちゃまぜで描かれている。
人々のモータースポーツに対する知識、関心はこの程度のものだったのだろう。
本作の劇中テーマ曲はあまりにも有名だ。
さらには、映画の手法として、ぶつ切りの編集。
手持ちカメラの多用。
二人が愛を語り合うシーンでは、あえてモノクロ映像にしている。
色彩のない明暗だけの映像を使うことにより、二人の燃え上がる愛が、どのような色彩を持つのか?
それは観客の自由な想像に任される。
いわば観客は「愛の色彩」を脳内補完するわけである。
フランス映画なので、登場する車は当然フランス車だと僕は思っていたが、
なんと無骨なフォードのムスタングなのである。
正直これには興ざめした。
ちなみに五木氏の小説「雨の日には車をみがいて」に最初に登場するのは
“たそがれ色”に変色してしまったオンボロ中古車の「シムカ」というフランス車である。別名「走る弁当箱」
1966年当時、駆け出しの放送ライターがマイカーを持つ、ということだけでも奇跡的なことだ。しかも外見はともかく「フランス車」なのだ。
「恋人と愛を語るには最高の演出だ」と五木氏も作中で語っている。
そして作中の「僕」は、1話目のラストシーンで「男と女」を三回続けて観るのだ。
それほどまでに当時、この作品はある種「時代のアイコン」でもあったのだ。
本作を初めてスクリーンで観て、僕がまず思ったのは、
「ああ、古い」
という印象である。
これはあくまで僕の個人的な主観であることを前もってお断りしておきたい。
映画手法としての
モノクロ映像とカラー映像の対比
手持ちカメラ
ぶつ切り編集
車載カメラ
登場人物のモノローグ
セリフと映像の不一致。
これらの手法は、1966年公開当時、まさに「流行」の最先端。
新しい波「ヌーヴァルヴァーグ」が、フランスから日本に押し寄せた!
と若い観客たちを熱狂させたのだろう。
しかし映画技法が単なる「ファッション」にしか過ぎなかった、という
極めて残念なことが、公開50年を迎えて、改めて僕には感じられたのである。
50年前のファッション作品は恐ろしく古臭く感じる。
しかし、90年前のチャップリン作品には、今なお観る人の心を響かせる、普遍性がある。
わずか数年で賞味期限が切れるような映画作品が、数多く製作される現代、21世紀。
流行という酔いが冷めたとき、22世紀にも鑑賞できる、芸術としての映画作品であるかどうか?
それが、ようやくわかるのではないだろうか?

ユキト@アマミヤ
トミーさんのコメント
2023年10月27日

「街の灯」よりもしっくりくる者も居ますよ。

トミー
スネークハンドさんのコメント
2019年6月17日

今から47年前くらい前に当時、高校生でしたが劇的な展開もないストーリも
何だかわからない映画だと感じ「寝て」しまいました。
当時も名作?傑作?で名画との評判でしたが、最近、観賞しましたが感想として
当時の若者には「受けた」のでしょうが、斬新な映像や演出ですが良く分からない
映画です。女心が解らない、男の映画なのでしょう。

スネークハンド