桜桃の味のレビュー・感想・評価
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人それぞれの「桜桃の味」
「桜桃の味」はイラン映画だ。だからどうした、と言われればそれまでなのだが、まだ血気盛んな生意気盛りの頃、イラン映画を観て「何だかよくわからなかった…」と意気消沈した記憶がある。というか、そんな記憶しかない。
そんな私だから「桜桃の味」を観よう、という運びになって感じたプレッシャーは並大抵のことじゃない。趣味なんだから、重圧を感じるくらいなら観なきゃいいのに、おかしな話ではある。
結果から書くと普通に、いや思ってた以上に面白かった。そしてそれは「桜桃の味」という映画が持つメッセージともシンクロした体験だった。
自殺を助けてくれる人物を求め彷徨うバディ。狭い車中と土埃の立つ剥き出しの山道。閉ざされた世界と荒れ果てた風景。
最初に車に乗せたクルド人兵士は逃亡し、次に乗せたアフガニスタン人神学生とは山中の小屋で別れた。二人に協力を断られた後、どうやらトルコ人の老人が手伝いをしてくれるらしく、バディの車は彼を送り届ける為に街へと向かう。
このゲバリという老人が登場して、映画は大きく転換する。
有り体に言えば、ゲバリの話を聞くうちバディの心に変化が訪れるのだが、その演出が良い。
乾いた不毛の世界から生命力溢れる街へとナビゲートする道のり。
二人を乗せた車は樹のある方へ、花のある方へ、家のある方へと進んでいく。全面荒れ果てた世界だと思っていたのに、よく見れば世界は枯れてなどいなかった。
カップルに写真を頼まれたバディは、運転席の窓ガラスを5センチほど更に開ける。たった5センチ広げるだけで二人の笑顔が、満開の花壇をバックにはっきりと目の前に現れるのだ。
ほんのちょっと視野を広げただけで、世界は美しい事に気づくことが出来る。
映画に対する心構えも同じ。「難解だ」という色眼鏡を外して、ほんの少しおおらかな心で臨めば、見えていなかった美しい映像が物語の世界に連れていってくれる。
私にとっての「桜桃の味」とは、どうせわからないからと諦めていた映画に、本来の映画を観る楽しみを思い出させてくれた体験なのだ。
蛇足な上に掘り下げきれないのだが、イラン映画には「政府批判」が織り込まれていることが多い。冒頭の職を求める働き盛りの男性の多さは、イランが抱える問題をさりげなく写し込んでいるのだろう。
バディにイラン男性の証とも言える「髭」がないのは、完璧を求める事への疲弊や、イランの現状が完璧たり得ていないことの現れのようにも思える。
クルド人やアフガニスタン人に協力してもらえない、というのもイランにイスラム国家の盟主としての魅力がない、という批判のようでもある。
「桜桃の味」の裏テーマを読み解けるようになるためには、もっと視野を広げる必要がありそうだ。
合わなかった
土埃が舞う道を運転してるバディは、人々に声をかけては、自殺を手伝って欲しいと依頼していた。クルド人の兵士もアフガニスタン出身の神学生も拒絶するが、老人バゲリは依頼を承知の上で、自分の過去についてバディに語り、てな話。
ここの評価は高いから私の感受性が低すぎるのだろうと思う。
訳わからず眠かっただけ。合わなかった。
語る を信じること
自殺の協力者を探すバディは道行く人々に声をかける。しかし人々は彼の願いの内実を知るなり踵を返してしまう。なぜ彼の願いは聞き入れられないのだろうか?
もちろん、そこには倫理的な抵抗感という素朴な理由がある。自殺幇助もまた部分的には殺人と大差がなく、できればそんなことには加担したくないのが人情というものだろう。
しかしそれだけではないと私は考える。思うに、バディにはある決定的な欠陥がある。それは語りへの不信だ。彼は協力者候補たちに「君しかいないんだ」とさも必然や運命があるかのように語りかけるが、もちろんそれは急場凌ぎの方便に過ぎない。
バディは自身の抱えた苦痛や絶望について何一つ語ろうとしない。スクリーンの中の登場人物に対してだけでなく、それを見ている我々に対してさえ何も教えてくれない。漠然と物悲しげな雰囲気を漂わせているだけだ。
また、彼のコミュニケーションには概してプロセスが欠如している。バディが自殺を仄めかすと、協力者候補たちはさまざまな観点からそれを否定するが、彼は「御託はいい」とそれを遮る。聞こうともしない。
なぜ彼は自分のことを語ろうとしないのか?他者の話を聞こうとしないのか?語りの力を軽視しているからだ。自分が何事も語らないことと、他者に何も語らせないことは表裏一体の行為である。
しかし語りとは人間の本質の一つだといっていい。語りが、物語がなければ人は人として生きていくことができない。協力者候補たちが彼の申し出を断ったのは、彼が人としての精彩を欠いた冷血漢に思えたからなのではないか。
平たく言えば、バディは人間をナメている。そういう人の手助けをしようと思えるかといえば、それは難しい。いくらお金を積まれても。いや、むしろお金を積まれるからこそ。
しかし最後には彼に救いの手が差し伸べられる。博物館で働く老父だ。彼はバディを見捨てることなく、語りの持つ力を彼に再び示そうとする。彼の語りはどこまでも恣意的で個人的だが、力強さがある。バディは彼の話を無視し続けるが、それでも彼は語ることをやめない。すると論理を超えた何かー「何か」としか形容できないーが二人の間に立ち現れる。そして実際、バディの心境には変化が兆しはじめる。
バディの変調に沿うように、きらびやかな夕日が画面いちめんを満たしていく。無味恬淡に思えた農村の光景が、実はドラマチックな精彩を秘めていたことが判明する。バディもまた老父やそれまでの登場人物たちと同様に、どうしようもなく「人間」なのだということが、情景描写を通じて示される。
この辺りのシーンの何がすごいかといえば、ラストカットに至るまでBGMが一切流れないことだ。そんなもので映像を糊塗する必要はまったくないのだという、監督の人間に対する信頼の強さが表れている。
バディが結局どのような選択をしたかについては最後まで明かされない。そこに本質はないのだから、こういうオープンエンドな終わり方でいいと私は思う。
ラストカットのメタ描写(この映画の撮影班のオフショット)には短絡的との批判もあるだろうが、私はもう少し肯定的に捉えたい。
誰も彼もがのびのびと雑談に耽っているさまは、バディが映画内で絶えず味わわされる緊張とは真逆のものだ。つまりラストカットは今際の際に彼が空想した儚い夢だと解釈することができる。しかしそれはこの映画を見ている我々にとってはむしろ現実の光景である。バディはスクリーンの外側にいる我々を羨んでいるのだ。
こういう描写は監督の才智が勝ちすぎていると一気に興が醒めるものだが、アッバス・キアロスタミの場合はあくまでヒューマニズムが万物の底流を成しているからそういう感じがしない。彼の映画においては、トリッキーな演出もまたヒューマニズムの一形態なのだ。
セント・ジェームズ病院
アッバス・キアロスタミの作品は1つのテーマがあるので、分かりやすい。兎に角、シャレている!
アームストロングよりも、カウント・ベイシーとディジー・ガレスピーの方が凄く良いと思います。
見てのお楽しみ!
う〜ん、時間泥棒か?
「友だちのうちはどこ?」も、たかだか2、3㎞の村や森の中を行ったり来たり・・・
こちらも、ひたすら(多分)2、3㎞の風景の中を行ったり来たり・・・
見終わって、しばし、いや、これからもずっと、言葉がない・・・
う〜ん、これは、私の時間泥棒か・・・
クルド人の若い兵士の運転席側からの横顔が美しい。
アフガン人の神学生の、黒い瞳と、黒い眉と、黒々とした髭が美しい。
友だちのうちを探す少年の瞳が美しい。
みんな死ぬことの、本当の怖さを知らない若さ、というか、それこそが、美しい。
生の頂点から、死に向かう坂道を転げ落ちるような頃から、美しさは、それこそ、死の怖さと引き換えのように、はがれとられていく。
あえて言えば、そんな感じか、私にとっては・・・
美しいものは、やっぱり美しい。
それにしても、やはり、アッバス・キアロスタミ監督は、馬鹿な私のような人間には、非常に意地悪で、狡猾な、時間泥棒としか言いようがない。
土埃
イランはずっと、土埃舞うこの映画のイメージ。いま見ると、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人と、イランにいる多様な人たちが出ていることに気づく。
季節は紅葉の秋、桃は夏の果物だから、また来年の夏も生きてみない?って意味かなあ。老人の話を聞いた後は、紅葉が鮮やかに映し出される。ぐるぐると赤茶けた道を走る。ちょっと道を変えただけで、景色は変わる。
アフガン風オムレツ見たかったな。美味しそう。
公開当時見に行きそびれてようやく観られました。シネマライズに行列できたんだよねえ。いまは映画に並ばないから、大ヒットしてもわからない。
人生の味
緊急事態宣言の下、自宅で約20年ぶりに鑑賞。
生きていれば高確率でなんらかの困難にぶち当たる。
人間にとって不変のテーマ。
3人目のお爺ちゃんが全部言ってくれました。
砂煙の舞い上がる道をくねくねと上がったり下がったりして進む様子は、まさに人生そのものにも見えた。
その道は行ったことのない道かもしれないが、行ってみたら新しい発見があるかもしれない、考えが変わるかもしれない。
生命ある限り、甘くても酸っぱくても苦くても、その味を味わいたいものだ。
ゴールは必ず向こうからやってくるのだから。
……にしても最後のおまけみたいなのんはなんだ?イラン人のセンス?俺たちもこうやって生きてるんだよってことなのかな……。
芸術活動の勉強のために観る
アッパス・キアロスタミ?イラン…まったく不勉強エリア
こういう乾いた土地の砂埃舞う映画
見てて喘息出そうで得意じゃない、西部劇とか
だけど面白いんだよね、ノマドランドもそう
自殺を看取ってくれる人を探して
乾いた道路を彷徨う
神が与えた命を捨てる男に
さくらんぼの味を思い出させる
ものの見方で人生は変わるよ。
最後まで観ないとアッバス・キアロスタミ監督の凄さがわからない。彼の主な作品は最初の20分は何を言いたいのか、これはなんなんだと試行錯誤する。途中でやめてしまう人も出てくるだろう。なぜ、こんな深く話を追求できて最後にオチを上手に持ってくるのか?
アヤトラ ホメイニの死後の作品だが、イスラム宗教色は強く引き継がれ、勝手に解釈して申し訳ないが、監督としてはイランで生きていく上において、自殺や自殺の幇助は宗教上ご法度だし、検閲も厳しいから、この最後のシーンに工夫を凝らさなければならないと考えて、『笑い』に変えたと思う。あとで、この映画のインタビューがあったら、聞いてみて補足する。これはあくまでも主観。
アッバス・キアロスタミ監督って、先へ先へと意味のある追及力が持続する。博物館で剥製の仕事に携わっている、Bagheri バックグヘリという高齢者の言葉で例えると、『映画(人生)は汽車のようだ、最後の字幕まで(終着駅)まで走り続ける。終着駅は死だ。途中で話が止まらず、次から次へと続く。(追求する)これだけ、私の好奇心やモーチベーションを下げない監督は数少ない。今となっては、彼の功績を振り返って、作品に思いをはせるしかないが、私の心の深淵に響くかれの才能に感謝している。
それに、不思議なことには登場人物で、主人公Badii を除いてはイラン人じゃなく、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人(アザバジャン)。この三人の選択にしても、イランに住んでいる移民、難民、少数民族を取り入れて、テヘランの北ダラバッドDarabadから歩いてきたというグルド兵士、ある青年はアフガニスタンのマザリシャリフからで、戦争で学べないためイラン(イラク?)にイマンになる勉強に来た学生、最後は自殺しようと試みた老人と、アッバス・キアロスタミ監督は多様性のある取り組みをしている。
後半で、ブルトーザーが砂や石を落としているが、影となって主人公Badiiに石や砂が降ってくる状態を写しているのがかっこいい。主人公は地に埋まっていく自分を想像して圧迫恐怖感をもっているところで、 バックグヘリに会う。 バックグヘリはその後、時間はかかるが美しい景色が見えるところを通って、自然歴史博物館まで乗せてくれる。
道中の会話は圧巻で、私はこの バックグヘリの話に集中した。首吊り自殺をしようと思って、何度もロープを木にかけたが、できず、最終的に木に登りロープをかけようとしたところ、柔らかいものに触った。それが、桑のみ(?)一口食べたら美味しくて、次から次へと、、、食べてるうちに、朝日が上り、この美しい光景に心が打たたれる。学校にいく子供たちがそこを通り、木の枝を揺すってくれと。子供たちも学校に行く前、熟れた桑の実をたくさん食べる。ー彼が死んでいたなら、子供たちはこの実を食べられなかった。死のうとしている人が子供を幸せにしている。
そして、家族にも持って行こうと桑の実を拾い集めたという話。そしたら、Badiiは『家族が木の実を食べて幸せだったでしょ』と。深くないなと私は思った。そうすると、バックグヘリは
『たかが普通の桑の実、全然大事じゃない桑の実、この桑の実が私を変えた』と。そして、ものの見方で人生は変わると。結局、神の創造した、自然の恵に救われたという自殺をしようとした個人の経験談は力強い。
その後、カメラアングルはバックグヘリの話した経験をだどるようにBadiiの目に自然や子供などを追わせる。一見、生きる希望が湧いてきたようにみえる。生に未練を持つようになる。
でも、彼は、夜、死のうとしている洞穴に戻っていく。
問題を抱えている人に会って話しかけられると、兵士のように人の話を聞くのが怖かったりしたり、関わりたくなかったりで、逃げていくものもいる。また、それとは逆に説得をする人もいる。イマン志望の学生は、Badiiを友達の小屋に呼び寄せ一緒に食事をして多分コーランの話をしようとする。しかし、自分の経験談を話すだけことがいかにパワーがあるか改めて知らされる。これがアッバス・キアロスタミ監督の言いたいことだと思う。
じわじわボディブローのように効いてくる作品。
じわじわボディブローのように効いてくる作品。
序盤から基本は車での会話。それが至近距離の圧迫感のある画の連続なので、結構疲れる。そして、荒涼とした大地や砂埃ばかり。おもしろくもなんともない。主人公の表情もそれらと同じく。
しかし、終盤のじいさんのあたりから変化が出始める。走っている車を遠くから撮りつつ、じいさんの話が乗っかるのだが、これが見ている側へ話しているような感覚になる。そして、映像もそれまで映さなかった空や鳥、グランドを走る人、木、夕暮れ、と開放的なものを映していく。説明もなにもないが、それが主人公の視線、心境の移ろいを表現している。
ずいぶん前に読んだのでうろ覚えだが、漱石を思い出した。死のうかと相談に来た男。話を聞き終え沈黙のあと、夜空の月を示して漱石が「あの月を見て美しいと思うか」とたずねる。男は月を見上げ「はい」と答える。漱石は言う「それでは生きていなさい」。
どういうことか、は言っていなかった。この映画もそう。でも、桜桃の味はどんなに絶望していようが美味しいと思えるだろう。じゃあ生きていたら、ていう。
でも最後はどういうこと?
自殺を真剣に考えた事が無いから解らない?
解る人には解る映画なんだと思います。期待して観たんですが??のまま終わってしまいました、どうしてこんなに評価が高いのでしょうか?自分は自殺を考えた事はそりゃ人間ですから無かった事は無いですが真剣に考えた事は無いです、だからなんでしょうか?何故死にたいのか?どうして他人を巻き込まなきゃいけないのか?それって酔っぱらって死にたいと見ず知らずの隣の客に絡んでいるのと変わらないじゃないか?どうしてクルド人とかアフガン人とかトルコ人とかマイノリティなイラン国民ばかり出てくるのか?聞いていたほど映像は大したことない(悪くは無いけれど)?と思っている間にいきなり真っ暗になってあの結末です、訳が解らないうちに終わってしまいました。監督は昔教育テレビで偶然見た「鍵」の脚本家、あれは衝撃的な面白さだったので後から知ってビックリしました。でもこの作品は私はダメです、ベルイマンの中期の暗い作品群もこの作品と比べると全然エンタティメントしていますねぇ。
旅は道連れ 世は情
こういう映画、嫌いじゃないですね。
音楽なし、会話は途切れがち。
口ごもる若者との気詰まりな特殊なドライブ。
淡々とした導入。
舞台は徹頭徹尾土砂採掘場。
そして同じ道を何度も何度も通るものだから、ヘッドライトしか見えない真夜中にその道を通るシーンでも、どの道のどのカーブの辺りを車が走っているのか判るという繰り返し感ね。
僕も今までずいぶんたくさんのヒッチハイカーを乗せてきたんですが、乗り合わせた異(い)なる人生との出会いはそれぞれ不思議な思い出になっています。
やかましくないイラン映画。
「オリーブの林を抜けて」と同じ監督さん。
何故か安心して観ておれる。
無音の“間”を恐れず沈黙を生かし、心情の機微のはかなさ、美しさを見つめるその国民性は、かつての日本映画と通じる何かを感じます。西のイランと東の日本の間を脈々と流れるシルクロードの“アジアの血”を実感させるのです。
本編より余韻の時間のほうが長いというこの“読後感”は、監督の魔法にかけられた証拠かも。
・・・・・・・・・・・・
知らない俳優さんによって演じられる海外の映画は、余計な先入観に邪魔されずに物語そのものに没入させてくれる効果があるのだと途中で気付きました。
日本で撮れば主演は役所広司?渡辺謙?辺りかな。でも旧知の俳優だとこの脚本は寝てしまう恐れあり。
だから原作や脚本は国産でも外国で撮ることでストーリーがプレーンになる、
そういう逆のパターンも、ありそうですね。
TSUTAYA 良品発掘の棚よりレンタル。
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