「ラスト寸前までは、完璧!」桜桃の味 osmtさんの映画レビュー(感想・評価)
ラスト寸前までは、完璧!
本当にラスト寸前まで、何もかもが全て完璧だった。
もう本当に挙げ出したらキリがないほど素晴らしい要素で溢れていた。
構図、カメラの動き、役者のタイム感、あまりに自然な芝居、素晴らしい台詞の数々、少しずつ徐々に出口へと向かって行く無駄のない的確なプロット、そして台詞の無いシーンも映像それ自体が充分と語りかけてくる。
特に自殺願望ゆえに、近視眼的なカメラワークがずっと続いていた後、主人公に心境の変化が訪れた直後、あの青い空に白い飛行機雲が現れ(その前の天国の門のような学校のゲートから予感はあったが)まさに心の視界がフワーと広がった瞬間は、
「これは今、本当にとんでもない映画を観てしまっているぞ」という感慨で一杯になってしまった。
いつでも死という出口(あるいは来世への入口?)を自分で選択する事が本当に実現可能となると、今度は生きるという選択の可能性も、急に広がってしまうという、まさにこの逆説。
これをここまで見事に表現できた映画があっただろうか?
一体どんなラストが待っているのか?
もう否応もなく、久々に相当ハードルが上がってしまったのだが……
しかし、アレはチョットねえ……
かなり意表を突くラストということは、最初からわかってはいたが……
それにしてもねえ……
いやあ〜 いやあ、わかるよ。わかる。監督の言いたいことは良くわかる。
「所詮これは映画。俺たちは撮影で春を満喫しているぜ。今これを観ている君達はどうなんだ?生きるのか?死ぬのか?どっちなんだ?」と突然ボールをこちらへ投げてみたくなったのは良くわかる。
でもなあ、そういうの妙に説教っぽく、チョットなんとも引いてしまったなあ。
まあ、おそらく検閲が厳しいイラン当局(自殺モノは特に)へのカモフラージュというか「イヤ、イヤ、イヤ、これタダの映画ですから」という作戦でもあったとも思うが。
実際、キアロスタミ自身、インタビューにおいても、観客が完全に受動的になるようなストーリーの映画には全く関心がなく、映画とは観客が能動的に関わって完成するものだから、そのための仕掛けも作っておく必要があるというような事を言っていたが、しかしそれは、あまりに観客の映画リテラシーを軽視しているようにも思える。
どんなストーリーの映画にも(単純でも複雑でも典型的でも)そこで観客が発見するリアルは100人が観れば、100通りのリアルがある訳だし、共通項は有るにせよ、まずそこに全く同じ真実は無く、そこには必ず何らかの能動的な心の動きがあるのだから。
その部分まで、作家が敢えてワザワザと介入してくるというのも、おせっかいが過ぎると思う。
観客が自由に解釈できる余白を作ること自体は良いと思うが、今回のような所謂「第4の壁」を破るようなフッテージは蛇足だったと思う。
まあ、こればっかりは、観る人次第か。
ちなみにイランの春には、雨が良く降るらしく、どうしてもラストにおける春のイメージには雨が必要だったみたいで、それで主人公は夜空を見上げ、雷を聞きながら、春の雨に打たれラストを迎えた訳だが、
そんなん言われなきゃ、外国の人間にはわからんよな。
せっかく夕方の飛行機雲の登場で、心の視界は広がっていたのだから、雲の隙間から現れる月の光は車から降りた直後に見せて、寝転がって見る夜空は、雷雨が去った後、すっかり晴れ渡った大宇宙に広がる星空にして欲しかったな。
そっちの方がずっと普遍的だし。
そして、その状況で主人公は、死ぬことも生きることも、どちらも自由に好きな方を選択できることに深い感銘を覚え、
そこで、改めて満天の星空を見上げて、
「なんて、生きるということは、自由な選択と可能性で溢れているんだ…」といったような余韻(勿論イメージだけで台詞は無し)でもって、やはりオープンエンド&ミニマムに終わって欲しかったな。
この映画の公開時、かつて「鬼火」を撮ったルイ・マルは、もう亡くなっていたと思うが、観ていたら、何とコメントしただろう?気になるところだ。
あと、開始10分ほどから真っ黒い画面に赤いペルシャ語が暫く続いたが、字幕が全く入らなかった。たぶんスタッフのクレジットだと思うが、あそこで字幕を全く入れないのは不親切というものだ。
ストーリーに関わるキャプションかも?と思えたので、アレは未だにモヤモヤ気になってしょうがない。
とまあ、あまりに意表を突かれ過ぎて、本当に色々と考えさせられてしまった。
これも監督の作戦?
とにかく、この映画、また何度も観たくなるだろうし、これから歳を重ねて行くごとに、間違いなくボディブロウのように深く効いてくる作品だと思う。