「ものの見方で人生は変わるよ。」桜桃の味 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
ものの見方で人生は変わるよ。
最後まで観ないとアッバス・キアロスタミ監督の凄さがわからない。彼の主な作品は最初の20分は何を言いたいのか、これはなんなんだと試行錯誤する。途中でやめてしまう人も出てくるだろう。なぜ、こんな深く話を追求できて最後にオチを上手に持ってくるのか?
アヤトラ ホメイニの死後の作品だが、イスラム宗教色は強く引き継がれ、勝手に解釈して申し訳ないが、監督としてはイランで生きていく上において、自殺や自殺の幇助は宗教上ご法度だし、検閲も厳しいから、この最後のシーンに工夫を凝らさなければならないと考えて、『笑い』に変えたと思う。あとで、この映画のインタビューがあったら、聞いてみて補足する。これはあくまでも主観。
アッバス・キアロスタミ監督って、先へ先へと意味のある追及力が持続する。博物館で剥製の仕事に携わっている、Bagheri バックグヘリという高齢者の言葉で例えると、『映画(人生)は汽車のようだ、最後の字幕まで(終着駅)まで走り続ける。終着駅は死だ。途中で話が止まらず、次から次へと続く。(追求する)これだけ、私の好奇心やモーチベーションを下げない監督は数少ない。今となっては、彼の功績を振り返って、作品に思いをはせるしかないが、私の心の深淵に響くかれの才能に感謝している。
それに、不思議なことには登場人物で、主人公Badii を除いてはイラン人じゃなく、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人(アザバジャン)。この三人の選択にしても、イランに住んでいる移民、難民、少数民族を取り入れて、テヘランの北ダラバッドDarabadから歩いてきたというグルド兵士、ある青年はアフガニスタンのマザリシャリフからで、戦争で学べないためイラン(イラク?)にイマンになる勉強に来た学生、最後は自殺しようと試みた老人と、アッバス・キアロスタミ監督は多様性のある取り組みをしている。
後半で、ブルトーザーが砂や石を落としているが、影となって主人公Badiiに石や砂が降ってくる状態を写しているのがかっこいい。主人公は地に埋まっていく自分を想像して圧迫恐怖感をもっているところで、 バックグヘリに会う。 バックグヘリはその後、時間はかかるが美しい景色が見えるところを通って、自然歴史博物館まで乗せてくれる。
道中の会話は圧巻で、私はこの バックグヘリの話に集中した。首吊り自殺をしようと思って、何度もロープを木にかけたが、できず、最終的に木に登りロープをかけようとしたところ、柔らかいものに触った。それが、桑のみ(?)一口食べたら美味しくて、次から次へと、、、食べてるうちに、朝日が上り、この美しい光景に心が打たたれる。学校にいく子供たちがそこを通り、木の枝を揺すってくれと。子供たちも学校に行く前、熟れた桑の実をたくさん食べる。ー彼が死んでいたなら、子供たちはこの実を食べられなかった。死のうとしている人が子供を幸せにしている。
そして、家族にも持って行こうと桑の実を拾い集めたという話。そしたら、Badiiは『家族が木の実を食べて幸せだったでしょ』と。深くないなと私は思った。そうすると、バックグヘリは
『たかが普通の桑の実、全然大事じゃない桑の実、この桑の実が私を変えた』と。そして、ものの見方で人生は変わると。結局、神の創造した、自然の恵に救われたという自殺をしようとした個人の経験談は力強い。
その後、カメラアングルはバックグヘリの話した経験をだどるようにBadiiの目に自然や子供などを追わせる。一見、生きる希望が湧いてきたようにみえる。生に未練を持つようになる。
でも、彼は、夜、死のうとしている洞穴に戻っていく。
問題を抱えている人に会って話しかけられると、兵士のように人の話を聞くのが怖かったりしたり、関わりたくなかったりで、逃げていくものもいる。また、それとは逆に説得をする人もいる。イマン志望の学生は、Badiiを友達の小屋に呼び寄せ一緒に食事をして多分コーランの話をしようとする。しかし、自分の経験談を話すだけことがいかにパワーがあるか改めて知らされる。これがアッバス・キアロスタミ監督の言いたいことだと思う。