王女メディアのレビュー・感想・評価
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期待度◎鑑賞後の満足度○ 期待していたものとは少し違っていたけれども映像で語るとはこういうことかと再認識させてくれたので評価は高いです。ただ、観る前に少しギリシャ悲劇の知識を持っていた方が宜し。
①ギリシャ悲劇『王女メディア』を知っていること前提というか、“『王女メディア』の話を知らん人が観て、“話がわからん”と言われても“、“わしゃ知らんわ”というスタンスの映画と言っても良いくらい(それはそれで潔いとは思う)、説明がない映画である。(そういう点では最近の映画はあれやこれやと説明し過ぎかもしれない。想像力や考察力衰えます。)
冒頭、ケンタウロスがイアソンにこれまでのいきさつを説明するがギリシャ神話によほど通じていないとチンプンカン。
こんなややこしい話を子供にしてもなぁ、と思っていたら案の定子供は眠ってしまいました…
舞台設定もハリウッド版ギリシャ神話映画とは違い、プリミティブというか簡素というかだから様式美の極みと言えるような能の音楽を使っているのかもしれない。
②基本、ドロドロ人間関係ものが好きなのと、故淀川長治先生が絶賛されていたので観たが、想像していたものとはちょっと違っていた。
マリア・カラス主演なので少しヴィスコンティっぽいものを期待していたのかもしれない。
マリア・カラスは少し年を取ってからのメディアにはピッタリのキャスティングだと思うが、はじめから見るからに大年増なので(出演時40代)若いイアソン(ちょっと平井堅似)が恋に落ちるにはやや不自然な感じは否めない。(黄金の羊皮欲しさにろう絡したのかも知れないけれど。でもそうであっても分別のなさそうな若い娘をキャスティングしたら説得力が出たと思う。まあ、アリア・カラス有りきの企画だったのでしょう。)
もっとマリア・カラスに合うような精力的な壮年の役者に演じさせた方が良かったようにおもうけど、イアソン役の役者、監督の好みだったのかな。
それとも、分別を失くす程の年上女の深情け(思い詰め)を表現したい意図があったのか。
③メディアが呪い(?)を込めた衣装を着たイアソンと結婚する予定の王女が命を落とすシーンが2回繰り返される。
最初は既視感を襲われ、続いてスマホが勝手に再生したのかと戸惑ってしまった。王女の末路が違っていたので同じシチュエーションで違うことを描いたのが分かったけらども。
最初の火に包まれる、あの火はメディアの嫉妬の焔(焔)。
2回目に衣装に身を包んだ王女が落涙したあと自ら飛び降りるのはメディアの底知れぬ哀しみ。
メディア自身の言葉・行動を直接描く代わりに王女の末路を描くことでメディアの嫉妬・怒りの深さ、哀しみの深さを表す演出と編集。
映像だからこそ描ける人間の業である。
タイトルなし(ネタバレ)
古代ギリシアの神話の時代。
山深い湖の畔で、ケンタウロス(半人半馬)に育てられたイアソン。
繰り返し聞かされた話は、
イアソンは王子であり、幼い時分に叔父に父を殺され、王座を奪われた。
成長し、然るべき時が来たならば、王位返還を要求するのだ、
という話。
何度も繰り返し繰り返し聞かされたものだから、幼いイアソンは眠ってしまうのもしばしばだった。
たくましく成長したイアソン(ジュゼッペ・ジェンティーレ)は叔父王のもとを訪れ、王位返還を要求するが、叔父王は王位返還の代わりに国の繁栄を約束する「金毛羊皮」を手に入れて来いと条件を出した。
兵士たちと筏船で異郷の地を目指したイアソンであったが・・・
といったところからはじまる物語で、ありゃりゃ、これは『アルゴ探検隊の大冒険』の物語じゃありませんか。
たしかに、あれもギリシア神話でしたね。
血沸き肉躍る特撮大活劇・・・になるはずはなく、
イアソンがたどり着いた異教の地は若い青年を生贄にして神に捧げるという世にも恐ろしいところ。
金毛羊皮は山頂の素朴な宮殿に祀られている。
難攻不落のようであったが、儀式を司る巫女メディア(マリア・カラス)は、イアソンを一目見た瞬間に激しい恋情を抱き、金毛羊皮を盗み出してイアソンに捧げ、彼ともどもイアソンの王国に立ち戻る。
しばしの間は熱烈な恋情に溺れたイアソンとメディアであったが、ひとの心の移ろいやすいは常のこと。
メディアとの間に三人の子どもをもうけたイアソンであったが、隣大国の王(マッシモ・ジロッティ)に見込まれ、娘グラウケー(マルガレート・クレマンティ)の夫として白羽の矢を立てられると、イアソンの心はメディアから離れていく。
メディアはグラウケーと父王に呪いをかけ、ふたりに非業の死を遂げさせ、子どももろとも我が家に火を放ち、燃え盛る炎の中、イアソンへの呪詛の言葉を叫びながら焼き尽くされるのであった・・・
という物語となる。
とあらすじを書いたのは、後半、物語がよくわからないからで、その原因としては、パゾリーニが映画的文法を無視して、場面場面を繋いでいくことによる。
特に、メディアの台詞場面になるとマリア・カラスのアップとなり、周囲の状況がわからない。
時間が経過したのも、場所が変わったのもほぼわからない。
メディアがグラウケーと父王に呪いをかける件などは、同じような描写が繰り返されるので、ありゃ、フィルムが間違って繋がれているんじゃないかと思ったほど。
なので、後半のストーリーテリングだけみれば、なんじゃこりゃ的映画なのだけれど、映画全体で観ると、前半がすこぶる良いのである。
特に、メディアが執り行う儀式は、セリフもなく、説明もなく、古代ギリシアかくあるべし、とでもいうような荒涼たる風景の中で、原初の様相をした人々が、生と死、大地と人間の循環を表わすような態で行っており、この部分が素晴らしい。
この土俗的な描写は、後の『デカメロン』をはじめとする艶笑三部作にも引き継がれていきますね。
というわけで、前半は大傑作、後半はなんじゃいな、な評価かしらん。
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