「歌声を封印されたM・カラスが、呪力を喪ったメディアと被る。まるで胸躍らないアルゴ探検隊後日譚。」王女メディア じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
歌声を封印されたM・カラスが、呪力を喪ったメディアと被る。まるで胸躍らないアルゴ探検隊後日譚。
不世出のソプラノ歌手、マリア・カラス。
彼女がパゾリーニから本作のヒロイン役をオファーされたとき、まさか自分が国立民俗学博物館のビデオルームで流れているような蛮族の生贄儀式を主宰させられるって知ってたんだろうか?
もともとカラスは、ケルビーニの『メデア』のタイトルロールを代表的な持ち役としていた。
カラスにはルチアやノルマなど、他にも彼女ならではの持ち役があったから、必ずしも「カラスといえばメデア」というわけではなかったが、「メデアといえばカラス」というのは、おそらく世界の共通認識だった。彼女が演じたことで、ほぼ歴史に埋もれていたこのオペラは復活を果たしたのである。
さらに彼女はアメリカ生まれではあるが両親はギリシャ系。学校もアテネ音楽院に通っている。
この映画のヒロインとしては、変化球ではあるがまさにドンピシャのはまり役でもあった(『Shall we ダンス?』の草刈民代みたいな?)
しかも、彼女は王女メディアと境遇まで似ていた。
彼女は夫を捨てて大富豪オナシスのもとに走ったが、9年後の1968年、45歳のとき、オナシスはジャクリーン・ケネディ未亡人と電撃結婚を果たし、とうの立ってきたカラスは捨てられてしまう。
ちょうど、国の秘宝を持ち出してまでイアソンに尽くしたメディアが、2人の子を成したのち、領主の若い娘との婚姻を進めるイアソンに捨てられてしまうのとそっくりだ。
カラスのプライヴェートに起きた屈辱と悲哀をもちろん十分知ったうえで、パゾリーニは「わざわざ」君にしかこの役はできないとアプローチをかけてきたのだと思う。ずいぶん意地の悪いキャスティングだが、そのぶんたしかに役に魂はこめやすそうだ。
もうひとつ、このキャスティングには妙味がある。
映画においてカラスに課せられた呪縛が、作中の王女メディアのそれと呼応するからだ。
マリア・カラスは世界の歌姫だ。
でも本作で、カラスが歌うシーンはない。
前半の山場である生贄の儀式では「無言」。
後半の復讐劇では「台詞」のみ。
彼女の最大の武器であり、レゾン・デートルである「歌」が封印されているのだ。
いっぽう、作中のメディアもまた、「呪力」を喪った存在だ。
(もともとのギリシャ神話においては、メディアはコルキスを出てもバンバン魔術を使いまくっているし、オペラでも呪力喪失のくだりはさして強調されてなかったような。パゾリーニの解釈? 前例あり?)
前半のコルキスにいる間のメディアは、強大な呪力をその手に有しながら、それを内に秘めた状態で君臨している。カラスのたとえでいえば、「歌えるけど、歌わずにいて、歌えるということを全員が信じ、崇めている」状態にある。
だが、アルゴ探検隊とともにコリントスに移ってからの彼女は、もはや呪力を喪ってしまった。
黄金の羊毛を簒奪し土地を離れたことで、原初の太陽神の恩寵を喪った巫女は、ただの女になってしまったのだ。彼女は海岸でその事実を知って、慄き、絶望し、狂乱する。
歌えないカラスと、呪力を喪ったメディアは、現実と仮想で向き合う、一対の写し鏡だ。
そもそも、「歌えない」という意味では、本作出演時のカラスは、もはや実際に「歌えなかった」。
まさに、王女メディアと同じ「能力の喪失」という絶望をまざまざと味わっている最中だったのだ。
カラスは全盛期の短かった歌手だ。50年代にピークを迎えたあとは、過激なダイエットや喉の酷使(ノルマの歌いすぎetc.)で高音域の安定を喪い、スキャンダラスなキャンセルなど繰り返したのち、1965年に42歳でオペラの舞台から去った。
その意味で、カラスは、恋人を喪った女としても、魔力を喪失した魔女としても、メディアそのものといえる存在だった。
だからこそ、カラスはメディア役のオファーを「これだけは断ることができない」といって引き受け、人生でただ一度の映画出演を、「女優」として果たしたということなのだろう。
加えて、僕の観たイタリア語版では、英語で台詞を話しているカラスは、(イタリア映画の通例として)何某かのイタリア人女優によって吹き替えられていて、「歌」どころか、「声」まで封印された存在となっている。
二重、三重にも「メディア」と境遇のかぶるカラスを映画に出演させるにあたって、パゾリーニはその魔術を封じ込めるかのように彼女から歌を奪い、イタリア国内版では声まで奪ったのだった。
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映画は、イアソン(ジャゾーネ)の幼年期における、ケンタウロスの賢者ケイロンのやたら能弁な語り聞かせで幕を開け(張りぼて臭い馬の下半身が味わい深い)、成長したイアソン率いるアルゴ探検隊は、きわめて軽装のピクニック気分で、簡便な筏に乗ってコルキスを目指す。
前半の山場は、なんといってもコルキスにおける生贄儀式の詳細な描写だ。
カッパドギアをロケ地とする強烈な異境感のもと、カメラは執拗に祭祀の過程を追う。
それは、さながらフェイク・ドキュメンタリーの如きリアリティをたたえ、実際に自分が探検隊の一員になって、蛮族による人体破壊儀式に立ち会っているような擬似感覚にとらわれる。
考えてみれば、本作封切りの1969年といえば、まさに「異境物」の映画が矢継ぎ早に公開され、異国の神秘や珍奇な儀式を知ることに民衆が熱狂していた時代だ。
ヤコペッティの『世界残酷物語』が1961年。その続編と『世界女族物語』が1963年。『さらばアフリカ』が66年で、本作公開までに20本以上のモンド映画が公開されている。
あと、『アントニオ・ダス・モルテス』(長大な土俗的な祭りのシーンがある)が69年で同じ年。『ラ・ヴァレ』(パプアニューギニアの祭祀が記録されている)が72年。
『王女メディア』は、明らかにこういった「映画の中の秘境」をめぐるコンテキストのなかに位置づけられる作品だ。
この時代のインテリやヒッピーはこぞって、高度に文明化された西洋と、いまだ発見されざる未開の異境を対比し、あるものはロマン主義的なエキゾチシズムに耽溺し、あるものは異境に理想のザナドゥを見出そうとした。一方で、その憧憬は植民地時代から続く第三世界に対する差別と侮蔑の感情とも裏表だった。
そもそも、西洋人にとっての「マージナル(周縁)」や「フロンティア(辺境)」は、遠くギリシャのアルゴ探検隊の時代においても、ジョン・マンデヴィルやマルコ・ポーロの東方記だけが拠り所だった中世においても 、大航海時代においても、大西部時代においても、常に憧憬の対象であると同時に、軽侮の対象でもあったのだ。
パンフの解説で町山さんや四方田先生が触れている「土俗による都会への逆襲」という要素は、まさにこの「西洋とマージナル」の長い思想史に対する、パゾリーニなりの回答ということになるだろう。
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後半は、メディアの狂乱と謀略をめぐる、後味の悪い物語が(ほぼエウリピデスの悲劇通りに)展開する。竜車に乗って立ち去るクライマックス前に、映画版はかなり恐ろしいところで尻切れトンボで終わるが、リアリティに寄せて撮られた本作においては、まさにこの刹那が締めどころと判断したか。
総じてわかりやすい話ではまったくないし、シーンのつながりのよくわからないところも多いが、上映後に行われた20分くらいのトークショーで老齢の女性評論家さんは、この映画は「白昼夢」ないしは「幻想」のシーンがシームレスに入ってくるので混乱するのだ、と指摘されていた。メディアが黄金の羊毛を盗りに行ってイアソンがひょっこり入ってくるシーンや、イアソンとケイロンの三回目の邂逅、一回目の姫と王の焼殺シーンは、「実際に起きたことではなく」メディアもしくはイアソンによる「幻視・空想」だとのこと。そういわれると確かに筋立てがスッキリする。
最近、同じような白昼夢を挿入するナラティヴで、一筋縄ではいかない作りをしていた映画を観たっけなあと記憶をたぐってみたら、ルイス・ブニュエルの『昼顔』だった。
四方田さんが書かれている、メディアは若い娘にNTRされてキレたのではなく、イアソンが少年たちと遊ぶ光景を観て、ホモソーシャルに敗れたことで復讐を決意した(息子殺しもそれと関連する)のだという指摘も、なるほどと思わされた。たしかに、アルゴ探検隊自体が極めてホモソーシャルに描かれているし、四方田さんが指摘するシーンは、中世の原始的な「モリス・ダンス」を想起させる円環状の生の舞踏で、そこに陽性の生命力とホモソーシャルな気配を感じ取るのはたやすい。
個人的には、やはりアルゴノーツの仲間や子供のお付きの少年が三弦の楽器をつま弾いて歌ったら、日本の地唄(平家物語)が音源として流れてくるギミックにはまあまあ驚いた。
すごい異化効果。ちょっと前衛演劇みたいなことしてる。
ここで使われているのは、海外で発売された伝統音楽LPシリーズに入っていた地唄もしくは箏曲の音源らしいが、『平家物語』を歌う琵琶法師は、まさにギリシャでいうところの吟遊詩人みたいなものだし、奢れるイアソン&コリントスは久しからずって話で、内容ともよくあっている。何より『平家物語』もまた、安徳の入水という「大人の諍いと都合による子殺し」で終わる話である。
先述の映画評論家のおばあさんは、客に「日本の地唄の使用はなぜだと思いますか?」と訊かれて、「野蛮人の音楽だと思ったからじゃないですか」と一刀両断しててすげえ面白かった。
なるほど、イタリアから見た日本なんて、マルコ・ポーロの『東方見聞録』でも、まさにマージナル中のマージナルの扱いだもんね(笑)。
ちなみに、映画鑑賞の翌日、未読棚からタイトルも見ずに一冊持ち出して電車で読みだしたら、法月綸太郎の星座を冠した短編ミステリ集で、一話目にいきなりメディアが出てきたばかりか、二話目にはアルゴノーツが出てきて、マジでびっくりした。
こんなこともあるんだなあ。