「蔑ろにされる側に立つ」王女メディア talismanさんの映画レビュー(感想・評価)
蔑ろにされる側に立つ
パゾリーニの映画は「テオレマ」とこれしか見ていないのでまだよくわかりません。でも、どんな風に見ると楽しめるかほんの少しわかっていけるかなと思いました。
古代世界が舞台の「メディア」で破壊されたのは、神々と大地と太陽と石と交流し神の知で満ちあふれていた女王であり巫女であるメディアの力。それが旅の行程ではよそ者扱い、一人で孤独。イアソンは同行の青年達とキャンプしているみたいに楽しんでいる。次に訪れた町の広場でも輝くような笑顔で幸福感に満たされてイアソンは男の子達と楽しくダンスしている。男は男と居るのが一番気楽で幸せ。まさにホモソーシャルの世界。それを目の当たりにしたメディアは無視され蔑ろにされ軽んじられ奪われた側になったことを認識して涙を流す。
イアソンへの愛ゆえに金羊皮を自ら盗み手渡し故国をも捨てた。金羊皮を受け取ったイアソンの叔父は権力者は必ずしも約束を守るとは限らないと言う。イアソンにとって叔父の言葉は何の意味もなさない。故国を離れた金羊皮に意味などないと嘯くイアソンは子どもっぽく単純で傲慢だ。金羊皮はメディアが渡してくれたものでイアソンの努力と闘いの結果ではない。子どもの頃からイアソンを育てた知恵者のケンタウロス(役者、かっこいい)ですら青年イアソンに呆れ果てる。もはや話さない馬の方のケンタウロスの眼差しは悲しみに満ちている。
古代の話でなくて今の現代の話だ。そういう風にパゾリーニは解釈しメディアのターニング・ポイントを設定しイアソンをお目出たい男として映す。メディアは自分の子であってもイアソンの子でもある以上、亡き者にする。子どもが女の子だったらそうはしなかったかも知れない。
音楽と映像の重なりが良かった。ブルガリアの女声コーラスも仏教のお経の節も美しかった。日本の三弦と琴と唄が流れる場面は、馬での移動だったりイアソンがメロディーに合わせて口笛を吹いたり登場人物が弦を手に歌うシーンで使われていて、映画の中によく溶け込んでいた。三味線の音色と唄の声が美しく、よくこんな曲を選んだとパゾリーニのセンスに驚いた。
この映画を見て坂東眞砂子の小説『朱鳥の陵』がひたすら思い出された。夢解きの女である白妙に過去の自分を探られた持統天皇は「メディア」と同じ系譜にある。
パゾリーニの映画をもっと見たい。