王女メディアのレビュー・感想・評価
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中世風景の再現は見事!
ギリシャ悲劇「メディア」を主演マリア・カラスで映画化したピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品。 「メディア」=「妻を裏切った夫への復讐劇」だが、中世風景を再現した映像は衣装・ロケ地など含めて、女の情念を描き切ったあたり、本当に見事! ミノタウロス(上半身は人間、下半身は四つ足獣)の語りから始まり、王女メディアと周りの男達による「青年の生贄シーン」というシーンへ移るが王女メディアの「種に生命を与え、種とともに蘇れ!」というセリフから「五穀豊穣を祈る中世の儀式」と分かる。 ミノタウロスが語った国王の遺児が、国を乗っ取った叔父に「国を返して欲しい」と頼むと国王から「遠い所にある“黄金の山羊の毛皮”を取ってきたら国を返そう」と言われて金羊毛皮を探しに行く。 メディアと一緒に金羊毛皮を取って戻ると、国王には約束を反故にされた男はメディアと国外で愛し合う。 その後、時を経て、男がメディア以外の女性(ある国王の娘)と愛し合うようになったため、メディアは男への復讐を誓って……といった悲劇。 この映画では様々な音楽が流れるが、日本の三味線を使った音楽などは「えっ!」というささやかな驚きあり。 もちろん音楽だけでなく映像面でも意表を突かれる場面多数あり。 やはり、終盤がインパクト強烈だった!
パゾリーニ初体験。勉強のために鑑賞した。
評価するに難しい映画だ。正直、私は何を言いたいのかわからない映画だ。神話を古代信仰のままに映像化したのかなとも思ったりする。 マリア・カラスを除けば、出演者は素人ではないかと思った。カラスだって本業はオペラ歌手だ。また、神話の残虐なこと。この映画のように表すのが真実ではないかと感じる。 一度はパゾリーニ作品を鑑賞しなければと考えていたので、良い経験だった。但し、私の好みではない事は確かだ。
パゾリーニとマリア.カラスとのこの時期だからのコラボ
あの心捉える歌声のカラスを 見たくってこの映画を観にやって来た。 残念ながら、 歌声は全くなくセリフも殆どない。 そして、顔がデカイ。 この時代のスターは舞台晴れするように、 顔がデカイ。 映画の内容は分かり難くドンドン終盤に進んで行く。 でも、進むにつれこの復讐劇はカラス自身の離別の人生であること感じられずにはいられない。 そのことをパゾリーニはそれを狙ってカラスに出演を懇願したことがヒシヒシと感じてくる。 この辺のところのオナシスとカラスな別離の話を下調べすること。 そしてカラスの精緻な歌声をYouTubeで確認すること。 いよいよ、 その最期の壮絶なラストのオペラ風にカラスが絶叫! 貴方は何を感じるか? ワーオー ブラボー 👏👏👏👏 パゾリーニは、 カラスのためにこの映画🎞残したかったのだろう。 もう、歌えないカラスのために…。 こんな見方もありかなぁ 世界中のシネフィルに支持される異才ピエル・パオロ・パゾリーニ。 生誕100年を迎える2022年、 世紀の歌姫マリア・カラスとの奇跡のコラボレーションによって生まれた復讐劇『王女メディア』 この企画が本格的に動き出したのは、一切のオファーを断り続けていた歌姫マリア・カラスが、「この映画だけは断れない」とメディア役を承諾したため。 当時カラスは、9年にわたり愛し続けた恋人に裏切られた時でした。失意の底で落胆していた彼女でしたが、ひとりの女性としてのメディアを描こうとするパゾリーニに応えるように、愛の苦悩を背負う壮絶なヒロイン像を演じ切りました。
ついていけなかった
いきなりケンタウロス出てきてこの作品の雰囲気に惹かれた。 しかし、私の理解不足なのだが、登場人物の感情についていくことが出来なかった。 観ていたら実はこのシーンが幻想?だった部分とか分かりづらかったなぁ。
邦楽(能、長唄)みたいな音楽が良かったかなぁ?それくらい。
映画館で見る映画ではないし、ギリシャ悲劇を知らないと、なんだか判らない映画だった。2回見て理解できるかなぁ。でも、二度と見たくない。泣けるわけでも笑えるわけでも無い。つまり、僕には合わない。けれど、おどろおどろしさを、邦楽(能、長唄)であらわしているのが良かった。 オペラの『メデア』を見た。マリア・カラスを使った意味が分かった。オドロオドロしさは間違っていなかった様だ。3月に鑑賞しているが、あの邦楽の長唄は耳に残っている。評価を上げる事にする。オペラを鑑賞して、あらすじを知って、パゾリーニの抽象的表現が理解出来たと独断する。もう一度見てみたい。 まぁ『アラビアンナイト』『王女メディア』『テオレマ』『ソドムの市』4本見たが、知識を正しく蓄えて、しっかりした気持ちで見ないと、容易に理解出来る作品群ではないが。
とん祭り
いきなりケンタウロスが出てきて長々と話し、途中で人になる(予算不足?)。奇祭が始まる。音楽は倍音や琴? 軽装&やぎを連れて外の国に略奪に行く。 位置関係が全然わからない。 子どもたちがかわいかった。
歌声を封印されたM・カラスが、呪力を喪ったメディアと被る。まるで胸躍らないアルゴ探検隊後日譚。
不世出のソプラノ歌手、マリア・カラス。 彼女がパゾリーニから本作のヒロイン役をオファーされたとき、まさか自分が国立民俗学博物館のビデオルームで流れているような蛮族の生贄儀式を主宰させられるって知ってたんだろうか? もともとカラスは、ケルビーニの『メデア』のタイトルロールを代表的な持ち役としていた。 カラスにはルチアやノルマなど、他にも彼女ならではの持ち役があったから、必ずしも「カラスといえばメデア」というわけではなかったが、「メデアといえばカラス」というのは、おそらく世界の共通認識だった。彼女が演じたことで、ほぼ歴史に埋もれていたこのオペラは復活を果たしたのである。 さらに彼女はアメリカ生まれではあるが両親はギリシャ系。学校もアテネ音楽院に通っている。 この映画のヒロインとしては、変化球ではあるがまさにドンピシャのはまり役でもあった(『Shall we ダンス?』の草刈民代みたいな?) しかも、彼女は王女メディアと境遇まで似ていた。 彼女は夫を捨てて大富豪オナシスのもとに走ったが、9年後の1968年、45歳のとき、オナシスはジャクリーン・ケネディ未亡人と電撃結婚を果たし、とうの立ってきたカラスは捨てられてしまう。 ちょうど、国の秘宝を持ち出してまでイアソンに尽くしたメディアが、2人の子を成したのち、領主の若い娘との婚姻を進めるイアソンに捨てられてしまうのとそっくりだ。 カラスのプライヴェートに起きた屈辱と悲哀をもちろん十分知ったうえで、パゾリーニは「わざわざ」君にしかこの役はできないとアプローチをかけてきたのだと思う。ずいぶん意地の悪いキャスティングだが、そのぶんたしかに役に魂はこめやすそうだ。 もうひとつ、このキャスティングには妙味がある。 映画においてカラスに課せられた呪縛が、作中の王女メディアのそれと呼応するからだ。 マリア・カラスは世界の歌姫だ。 でも本作で、カラスが歌うシーンはない。 前半の山場である生贄の儀式では「無言」。 後半の復讐劇では「台詞」のみ。 彼女の最大の武器であり、レゾン・デートルである「歌」が封印されているのだ。 いっぽう、作中のメディアもまた、「呪力」を喪った存在だ。 (もともとのギリシャ神話においては、メディアはコルキスを出てもバンバン魔術を使いまくっているし、オペラでも呪力喪失のくだりはさして強調されてなかったような。パゾリーニの解釈? 前例あり?) 前半のコルキスにいる間のメディアは、強大な呪力をその手に有しながら、それを内に秘めた状態で君臨している。カラスのたとえでいえば、「歌えるけど、歌わずにいて、歌えるということを全員が信じ、崇めている」状態にある。 だが、アルゴ探検隊とともにコリントスに移ってからの彼女は、もはや呪力を喪ってしまった。 黄金の羊毛を簒奪し土地を離れたことで、原初の太陽神の恩寵を喪った巫女は、ただの女になってしまったのだ。彼女は海岸でその事実を知って、慄き、絶望し、狂乱する。 歌えないカラスと、呪力を喪ったメディアは、現実と仮想で向き合う、一対の写し鏡だ。 そもそも、「歌えない」という意味では、本作出演時のカラスは、もはや実際に「歌えなかった」。 まさに、王女メディアと同じ「能力の喪失」という絶望をまざまざと味わっている最中だったのだ。 カラスは全盛期の短かった歌手だ。50年代にピークを迎えたあとは、過激なダイエットや喉の酷使(ノルマの歌いすぎetc.)で高音域の安定を喪い、スキャンダラスなキャンセルなど繰り返したのち、1965年に42歳でオペラの舞台から去った。 その意味で、カラスは、恋人を喪った女としても、魔力を喪失した魔女としても、メディアそのものといえる存在だった。 だからこそ、カラスはメディア役のオファーを「これだけは断ることができない」といって引き受け、人生でただ一度の映画出演を、「女優」として果たしたということなのだろう。 加えて、僕の観たイタリア語版では、英語で台詞を話しているカラスは、(イタリア映画の通例として)何某かのイタリア人女優によって吹き替えられていて、「歌」どころか、「声」まで封印された存在となっている。 二重、三重にも「メディア」と境遇のかぶるカラスを映画に出演させるにあたって、パゾリーニはその魔術を封じ込めるかのように彼女から歌を奪い、イタリア国内版では声まで奪ったのだった。 ー ー ー 映画は、イアソン(ジャゾーネ)の幼年期における、ケンタウロスの賢者ケイロンのやたら能弁な語り聞かせで幕を開け(張りぼて臭い馬の下半身が味わい深い)、成長したイアソン率いるアルゴ探検隊は、きわめて軽装のピクニック気分で、簡便な筏に乗ってコルキスを目指す。 前半の山場は、なんといってもコルキスにおける生贄儀式の詳細な描写だ。 カッパドギアをロケ地とする強烈な異境感のもと、カメラは執拗に祭祀の過程を追う。 それは、さながらフェイク・ドキュメンタリーの如きリアリティをたたえ、実際に自分が探検隊の一員になって、蛮族による人体破壊儀式に立ち会っているような擬似感覚にとらわれる。 考えてみれば、本作封切りの1969年といえば、まさに「異境物」の映画が矢継ぎ早に公開され、異国の神秘や珍奇な儀式を知ることに民衆が熱狂していた時代だ。 ヤコペッティの『世界残酷物語』が1961年。その続編と『世界女族物語』が1963年。『さらばアフリカ』が66年で、本作公開までに20本以上のモンド映画が公開されている。 あと、『アントニオ・ダス・モルテス』(長大な土俗的な祭りのシーンがある)が69年で同じ年。『ラ・ヴァレ』(パプアニューギニアの祭祀が記録されている)が72年。 『王女メディア』は、明らかにこういった「映画の中の秘境」をめぐるコンテキストのなかに位置づけられる作品だ。 この時代のインテリやヒッピーはこぞって、高度に文明化された西洋と、いまだ発見されざる未開の異境を対比し、あるものはロマン主義的なエキゾチシズムに耽溺し、あるものは異境に理想のザナドゥを見出そうとした。一方で、その憧憬は植民地時代から続く第三世界に対する差別と侮蔑の感情とも裏表だった。 そもそも、西洋人にとっての「マージナル(周縁)」や「フロンティア(辺境)」は、遠くギリシャのアルゴ探検隊の時代においても、ジョン・マンデヴィルやマルコ・ポーロの東方記だけが拠り所だった中世においても 、大航海時代においても、大西部時代においても、常に憧憬の対象であると同時に、軽侮の対象でもあったのだ。 パンフの解説で町山さんや四方田先生が触れている「土俗による都会への逆襲」という要素は、まさにこの「西洋とマージナル」の長い思想史に対する、パゾリーニなりの回答ということになるだろう。 ー ー ー 後半は、メディアの狂乱と謀略をめぐる、後味の悪い物語が(ほぼエウリピデスの悲劇通りに)展開する。竜車に乗って立ち去るクライマックス前に、映画版はかなり恐ろしいところで尻切れトンボで終わるが、リアリティに寄せて撮られた本作においては、まさにこの刹那が締めどころと判断したか。 総じてわかりやすい話ではまったくないし、シーンのつながりのよくわからないところも多いが、上映後に行われた20分くらいのトークショーで老齢の女性評論家さんは、この映画は「白昼夢」ないしは「幻想」のシーンがシームレスに入ってくるので混乱するのだ、と指摘されていた。メディアが黄金の羊毛を盗りに行ってイアソンがひょっこり入ってくるシーンや、イアソンとケイロンの三回目の邂逅、一回目の姫と王の焼殺シーンは、「実際に起きたことではなく」メディアもしくはイアソンによる「幻視・空想」だとのこと。そういわれると確かに筋立てがスッキリする。 最近、同じような白昼夢を挿入するナラティヴで、一筋縄ではいかない作りをしていた映画を観たっけなあと記憶をたぐってみたら、ルイス・ブニュエルの『昼顔』だった。 四方田さんが書かれている、メディアは若い娘にNTRされてキレたのではなく、イアソンが少年たちと遊ぶ光景を観て、ホモソーシャルに敗れたことで復讐を決意した(息子殺しもそれと関連する)のだという指摘も、なるほどと思わされた。たしかに、アルゴ探検隊自体が極めてホモソーシャルに描かれているし、四方田さんが指摘するシーンは、中世の原始的な「モリス・ダンス」を想起させる円環状の生の舞踏で、そこに陽性の生命力とホモソーシャルな気配を感じ取るのはたやすい。 個人的には、やはりアルゴノーツの仲間や子供のお付きの少年が三弦の楽器をつま弾いて歌ったら、日本の地唄(平家物語)が音源として流れてくるギミックにはまあまあ驚いた。 すごい異化効果。ちょっと前衛演劇みたいなことしてる。 ここで使われているのは、海外で発売された伝統音楽LPシリーズに入っていた地唄もしくは箏曲の音源らしいが、『平家物語』を歌う琵琶法師は、まさにギリシャでいうところの吟遊詩人みたいなものだし、奢れるイアソン&コリントスは久しからずって話で、内容ともよくあっている。何より『平家物語』もまた、安徳の入水という「大人の諍いと都合による子殺し」で終わる話である。 先述の映画評論家のおばあさんは、客に「日本の地唄の使用はなぜだと思いますか?」と訊かれて、「野蛮人の音楽だと思ったからじゃないですか」と一刀両断しててすげえ面白かった。 なるほど、イタリアから見た日本なんて、マルコ・ポーロの『東方見聞録』でも、まさにマージナル中のマージナルの扱いだもんね(笑)。 ちなみに、映画鑑賞の翌日、未読棚からタイトルも見ずに一冊持ち出して電車で読みだしたら、法月綸太郎の星座を冠した短編ミステリ集で、一話目にいきなりメディアが出てきたばかりか、二話目にはアルゴノーツが出てきて、マジでびっくりした。 こんなこともあるんだなあ。
蔑ろにされる側に立つ
パゾリーニの映画は「テオレマ」とこれしか見ていないのでまだよくわかりません。でも、どんな風に見ると楽しめるかほんの少しわかっていけるかなと思いました。 古代世界が舞台の「メディア」で破壊されたのは、神々と大地と太陽と石と交流し神の知で満ちあふれていた女王であり巫女であるメディアの力。それが旅の行程ではよそ者扱い、一人で孤独。イアソンは同行の青年達とキャンプしているみたいに楽しんでいる。次に訪れた町の広場でも輝くような笑顔で幸福感に満たされてイアソンは男の子達と楽しくダンスしている。男は男と居るのが一番気楽で幸せ。まさにホモソーシャルの世界。それを目の当たりにしたメディアは無視され蔑ろにされ軽んじられ奪われた側になったことを認識して涙を流す。 イアソンへの愛ゆえに金羊皮を自ら盗み手渡し故国をも捨てた。金羊皮を受け取ったイアソンの叔父は権力者は必ずしも約束を守るとは限らないと言う。イアソンにとって叔父の言葉は何の意味もなさない。故国を離れた金羊皮に意味などないと嘯くイアソンは子どもっぽく単純で傲慢だ。金羊皮はメディアが渡してくれたものでイアソンの努力と闘いの結果ではない。子どもの頃からイアソンを育てた知恵者のケンタウロス(役者、かっこいい)ですら青年イアソンに呆れ果てる。もはや話さない馬の方のケンタウロスの眼差しは悲しみに満ちている。 古代の話でなくて今の現代の話だ。そういう風にパゾリーニは解釈しメディアのターニング・ポイントを設定しイアソンをお目出たい男として映す。メディアは自分の子であってもイアソンの子でもある以上、亡き者にする。子どもが女の子だったらそうはしなかったかも知れない。 音楽と映像の重なりが良かった。ブルガリアの女声コーラスも仏教のお経の節も美しかった。日本の三弦と琴と唄が流れる場面は、馬での移動だったりイアソンがメロディーに合わせて口笛を吹いたり登場人物が弦を手に歌うシーンで使われていて、映画の中によく溶け込んでいた。三味線の音色と唄の声が美しく、よくこんな曲を選んだとパゾリーニのセンスに驚いた。 この映画を見て坂東眞砂子の小説『朱鳥の陵』がひたすら思い出された。夢解きの女である白妙に過去の自分を探られた持統天皇は「メディア」と同じ系譜にある。 パゾリーニの映画をもっと見たい。
古代ギリシアの神話の時代。 山深い湖の畔で、ケンタウロス(半人半馬...
古代ギリシアの神話の時代。
山深い湖の畔で、ケンタウロス(半人半馬)に育てられたイアソン。
繰り返し聞かされた話は、
イアソンは王子であり、幼い時分に叔父に父を殺され、王座を奪われた。
成長し、然るべき時が来たならば、王位返還を要求するのだ、
という話。
何度も繰り返し繰り返し聞かされたものだから、幼いイアソンは眠ってしまうのもしばしばだった。
たくましく成長したイアソン(ジュゼッペ・ジェンティーレ)は叔父王のもとを訪れ、王位返還を要求するが、叔父王は王位返還の代わりに国の繁栄を約束する「金毛羊皮」を手に入れて来いと条件を出した。
兵士たちと筏船で異郷の地を目指したイアソンであったが・・・
といったところからはじまる物語で、ありゃりゃ、これは『アルゴ探検隊の大冒険』の物語じゃありませんか。
たしかに、あれもギリシア神話でしたね。
血沸き肉躍る特撮大活劇・・・になるはずはなく、
イアソンがたどり着いた異教の地は若い青年を生贄にして神に捧げるという世にも恐ろしいところ。
金毛羊皮は山頂の素朴な宮殿に祀られている。
難攻不落のようであったが、儀式を司る巫女メディア(マリア・カラス)は、イアソンを一目見た瞬間に激しい恋情を抱き、金毛羊皮を盗み出してイアソンに捧げ、彼ともどもイアソンの王国に立ち戻る。
しばしの間は熱烈な恋情に溺れたイアソンとメディアであったが、ひとの心の移ろいやすいは常のこと。
メディアとの間に三人の子どもをもうけたイアソンであったが、隣大国の王(マッシモ・ジロッティ)に見込まれ、娘グラウケー(マルガレート・クレマンティ)の夫として白羽の矢を立てられると、イアソンの心はメディアから離れていく。
メディアはグラウケーと父王に呪いをかけ、ふたりに非業の死を遂げさせ、子どももろとも我が家に火を放ち、燃え盛る炎の中、イアソンへの呪詛の言葉を叫びながら焼き尽くされるのであった・・・
という物語となる。
とあらすじを書いたのは、後半、物語がよくわからないからで、その原因としては、パゾリーニが映画的文法を無視して、場面場面を繋いでいくことによる。
特に、メディアの台詞場面になるとマリア・カラスのアップとなり、周囲の状況がわからない。
時間が経過したのも、場所が変わったのもほぼわからない。
メディアがグラウケーと父王に呪いをかける件などは、同じような描写が繰り返されるので、ありゃ、フィルムが間違って繋がれているんじゃないかと思ったほど。
なので、後半のストーリーテリングだけみれば、なんじゃこりゃ的映画なのだけれど、映画全体で観ると、前半がすこぶる良いのである。
特に、メディアが執り行う儀式は、セリフもなく、説明もなく、古代ギリシアかくあるべし、とでもいうような荒涼たる風景の中で、原初の様相をした人々が、生と死、大地と人間の循環を表わすような態で行っており、この部分が素晴らしい。
この土俗的な描写は、後の『デカメロン』をはじめとする艶笑三部作にも引き継がれていきますね。
というわけで、前半は大傑作、後半はなんじゃいな、な評価かしらん。
冥界からの謎は続いている
17歳の夏に、この映画を観た。 パゾリーニの映画は全て見ていたが、この映画は、そのどれとも違っていて、心に刻まれたのは女の阿修羅だった。 それから年月を経て『ノルマ』のCDを聴いて、あの修羅の裏側にある聖性を知って、初めてマリア・カラスの凄さを知った。 以来、ティット・ゴッビと歌った『トスカ』の映像はプッチーニのみならずオペラ史上最高演奏として愛して来た。 52年たち、2Kレストアされたのを再見すると、創世記の神話にする為の仕掛に気付かされる 音楽面では地唄の『熊野』がオルフェの竪琴のシーン、またブルガリアの歌唱 これらがメディアの母の哀しみを表し、王の式典ではチベットの法螺が妖しさを増す。 ロケ地はカッパドキアの岩窟寺院やピサの修道院、また水没する前、葦の住処が残るマーシュアラブの湿原地などの荒涼とした世界遺産の地で撮影されているのに驚かされる。 しかし 同じ設定で違うシーンが繰り返されたり、生贄の描写を執拗に描いたり、そして 唐突に迎える最後 パゾリーニは今もって謎を仕込みながら冥界からほくそ笑んでいるように思えた。
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