「エリア・カザンの問いかけ」エデンの東 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
エリア・カザンの問いかけ
エリア・カザンの作品を初めて観た。この人の名前は、第二次大戦後のアメリカ、とりわけハリウッドの映画界に吹き荒れた赤狩りで告発者側に連なっている。他になんの予備知識もなく、タイトルの「エデンの東」が旧約聖書にまつわるものであることを知っているくらい。
父/神に認められる兄と、疎まれる弟。父の誕生日に婚約者を紹介する兄。父がビジネスで失った金を穀物相場の投機で稼いできた弟。この二人に対する父親の対応がまさに、「旧約」のカインとアベルの物語に相似する。父親は婚約者/肥えた羊の初子という家族的な財産を贈った兄には無上の感謝を表し、戦争によって高騰した穀物で得た金を持ってきた弟を罵倒する。
そして、映画/聖書から消えるのは、(映画と聖書では兄と弟が反対だが)羊を贈ったほうである。聖書では、穀物を贈って無視されたカインが、羊を贈ったアベルを殺害するのだが、映画では殺されるのではなく、志願兵として戦地へと赴き家族の前から姿を消す。
聖書と相似形の物語を紡いでいながら、最後は異なる展開にしたのは、まさにこの点にこそ物語を通じて訴えたかった主張があるのではないだろうか。
この作品は赤狩りが終わった1954年の直後に撮られた。赤狩りに対する否定的な世論は、当然、告発する側に立ったカザンも批判の対象としたことだろう。そんな中どのような思いでカザンはこの作品を撮ったのだろうか。この聖書と映画とのズレには何が込められているのだろうか。
映画の中で父親が非難するように、穀物への投機の成功は戦争のおかげであり、その戦争によって多くのアメリカの若者が命を落としている。そんな言わば汚れた金など受け取れないというのが、人格者を自認する父の考えだ。
しかし、この父がそもそも大きな損失を抱えるようになったのは、西部のレタスを冬場野菜不足となる東海岸へ送って相場の違いをそっくり利益にしようという投機的な企みだった。もちろん、父の中では冬場にビタミン源を失う人々に野菜を提供するという善意の行為ではあったが。
弟が穀物価格の高騰を見越して成功したのも、戦争によってヨーロッパの穀物需要が高まるという、海の向こうの人々の飢えを予想したからだ。
このように、父による弟への非難は、そのまま自分自身への批判となって跳ね返る。どちらにせよ、資本家が当たり前に考えることを実践したまでなのだ。
そして、全てがこのようなマネーゲームに回収される資本主義経済に、家族愛や家庭的な温かみを奪われていくアメリカ社会とは、資本の蓄積に長けた弟に、婚約者を奪われる兄そのものではないか。
婚約者を奪われて自暴自棄となり、戦争へ自らを送り込む兄の姿こそ、資本主義の浸透によって家族を失ったアメリカ社会が、自ら積極的に対外戦争へと突き進むことを、極めて冷徹に予測している。旧約のアベルの如く、弟に殺害されるまでもなく、自ら死地へ赴くのだ。
カザンが赤狩りによって守ろうとしたものが、実は資本主義社会ではなく、その資本主義によって血縁と地縁と家族愛を奪われた、強い紐帯の残る社会であったとしたら。映画は、この時代のアメリカ人に対して、この紐帯を捨てて戦争の続く時代を生きる覚悟を問うている。
「エデンの東」は、20世紀前半のアメリカ農業社会が資本主義経済に飲み込まれていく様を、その作品でつぶさに描いた小説家ジョン・スタインベックの原作なのだ。
赤狩りの波に乗って、資本主義社会を揺るがす恐れがあるとして映画人を追放したカザンその人が、反資本主義的なスタインベックの小説を映画化したということが、自らの批判に対する回答だったのではないだろうか。