英国式庭園殺人事件のレビュー・感想・評価
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ブラウスの袖が気になった。洋服綺麗。
暇で閉じられた世界って、頭おかしくもなるというか。
ほんと暇つぶしで、気に入らないものもおかしなもの同士でいたずらのように処理する、
非現実的なことが実際も起きていたかもしれない。
画家がかっこよかったのと、洋服が綺麗だったのと、フレーミングした庭園が美しかったということだけでも満足。
内容は意味不明でもいいのだと思う。
リアル話っぽいのに、そんなの現実では違うから!って思うような映画より、
カルチャーとしての映画として楽しめる。
名が体を表さない「意地悪な」非ミステリー。独特の美意識と様式感に彩られたカルト作!
かつてピーター・グリーナウェイが猛烈に持て囃されていた時代があった。
ホントだよ(笑)。
『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)がヒットしたのが大きかったと思うんだけど、カルチャー界隈では『ZOO』(85)の評判がとにかく高かった。
マイケル・ナイマンの音楽とセットで、グリーナウェイは軽い「ブーム」を巻き起こしていた。当時は頭でっかちのシネフィルのみならず、ちょっとアートフィルムに興味がある程度の学生まで、こぞってグリーナウェイを礼賛していた。
さて、いまはどうなんだろうか?
今回、久しぶりの劇場公開とのことで、イメージフォーラムはほぼ満席だった。若い層もけっこういて、とてもいいことだと思う。
グリーナウェイの場合、ヴィジュアルイメージの面白さは折り紙付きで、スティール写真を見るだけでも、一見忘れがたい印象を残す。
奇矯なファッションと極端な色彩感覚。
シンメトリーへの病的なこだわり。
泰西名画を本歌取りした画面構成。
細部に込められた偏執狂的な情報量。
その個性的な「絵づくり」は、映画好きなら誰しもハートを鷲づかみにされるはずだ。
イギリス風のフェリーニ? あるいは理系アスペっぽいフェリーニ?
美意識のクセの強さだけは、どんなほかの監督にもひけをとらないだろう。
ただ何ぶん、どの作品もストーリーがすこぶるわかりにくい。
単に難解というより、最初から物語としての関節があちこち外されていて、ちゃんと筋が追えるように脚本が書かれていない印象がある。
映画って、衒学的であれ難解であれ「なんとなくわかるように」さえ撮っていてくれたら相応に愉しめるものなのだが、グリーナウェイの場合はその逆。「一見普通に筋があるように見えるのに、思わせぶりなセリフの応酬を聞いているうちに、なにがなんだかわからなくなる」感じとでもいったらいいのか。
この「はぐらかされている」感覚にイラっと来るのもまた確かで、感情的に反撥する人が一定数いるのもわかる気がする。
『英国式庭園殺人事件』はもともとチャンネル4用に撮られた16ミリのフィルムを35ミリに焼き直したものらしい。よくこんなクセの強いのをテレビでやろうと思ったなあといったところだが、劇場公開したことで結果的に「カルト」としての命を得ることとなった。
この映画の場合、いちばんのポイントは「名が体を表していない」ことだろう。
すなわち、「ミステリーのように見せかけて毫もミステリーではない」。
一見してイギリスのマナーハウス(ケント州にある由緒あるグルームブリッジ屋敷で撮影されている)を舞台とした王道の本格ミステリーのように見せかけつつも、その実、ちっともミステリーとして成立していない。
ふつう、こんな美しい大邸宅が出て来て、幾何学的な植栽が施された英国式庭園が出て来て、画家が唐突に招聘されて12枚の連作を描かされるのだが、そこにあるはずのないものが描き込まれていて……などど言われると、アガサ・クリスティやドロシー・セイヤーズやロナルド・A・ノックスやアントニイ・バークリーの書くような英国本格ミステリーさながらの世界が展開するだろうと、おおいに期待してしまうものだ。
ところが、物語は「それらしい言説」ばかりをまき散らしながら、ロジカルな推理や体系だった証拠調べなどを「一切行わないまま」ラストの「あれ」になだれこんでしまうのだ。
まず、描かれている絵のなかに「殺人事件を示唆する証拠が描き込まれている」というのだが、落ちているシーツや部屋に立てかけられているハシゴが、直截的な殺人の証拠としては機能するとは思えない。そもそも、被害者が旅行から帰って来てから殺されたのだとすれば、そこまでに起きた事象や置き忘れられた証拠品は、何一つ「殺人の証拠」にはなり得ないはずだ。
しかも、「被害者は旅行に行っている」という妻からの伝聞情報は一切検討されないし、最後まで「けっきょくいつ殺されたか」についても確認される気配がない。
要するに、思わせぶりに「絵の中に証拠が」「巧妙に仕組まれた罠が」とか口々に言うだけで、誰一人として「まるで推理しない」「いっさい論証しない」ように、この話は出来ているのだ。
これがタルマンがいうように「絵のなかに浮気の証拠が描き込まれている」のだとしても、同様にぜんぜん証拠としては意味を成していない。浮気しているのは画家なので、自分のアヴァンチュールの痕跡を絵にわざわざ描き入れる理由がないからだ。なにゆえそんなことをしないといけないのかについて、糾弾者が問うことはないし、この仮説は妻に適当に言い負かされて、そのままうやむやにされてしまう。
事件の真相すら、作中できちんと語られることはない。
ざっくり言えば、本事件の真犯人は何となく●●●●●●●と●だということは示唆されているし、そこで張り巡らされた陰謀も「たぶんこういうことだったのだろう」という当てはつく。だが、グリーナウェイはほとんどそこに興味がないかのように、最後までちゃんとは説明をしてくれない。
いかにも本格ミステリーのように見せかけながら、
一見ミステリーらしい謎かけは謎かけとしてまるで機能せず、
魅力的に思われた絵画の謎は、謎ですらないうえ解かれもせず、
手段も機会も動機もアリバイも証拠も一切調べられないまま、
ただ絵を描いて、セックスして、食事をして、散歩しているうちに映画が終わってしまうのだ。
これだけ「それらしい伏線」を山ほど張っておいて、まるで解決されないどころか言いっぱなしのまま手もつけられないというのは、まあまあ観客を小馬鹿にしているというか、間違いなくきわめて底意地が悪い映画ではある。
むしろ、グリーナウェイがやりたかったのは、ミステリーでもなんでもない。
本当の主眼は、権力者と平民の階級差と踏みにじられる尊厳についての思考だったり、階級差があるなかでの『カンタベリー物語』的な性の探求だったり、うまくやっているつもりの人間が最初から大きな罠にはめられて搾取される側に過ぎなかったというシニカルな韜晦だったり、ということになるのだろう。
冒頭から、貴族に対してきわめて挑発的にふるまう画家のネヴィル。
彼は、依頼主の女貴族ハーバード夫人を性的に食い物にし、魯鈍な入り婿のタルマンを愚弄しまくる。
しかし、彼のやりたい放題は、思い切り「上げてから下げる」ための前段に過ぎない。
食い物にされていたはずの夫人とその娘には「とある目的」がある。
貴族たちはどんなに平民にイキられようが、絶対的な権力者であることに変わりはない。
おイタの過ぎた画家には、相応の因果応報が待ち受けることになる。
『英国式庭園殺人事件』は、画家とパトロンの関係性(映画監督と出資者の関係性とパラレル)を描くことで、芸術家と富裕層の関係性をシニカルに考察した作品であるともいえる。
画家(映画監督)はいろいろと「契約」を結んで、自らの芸術性を担保として専横な振る舞いを取ることができるが、最終的に権力と決定権を握っているのは「金を持っている」連中であり、最後は彼らの掌のうえで踊ってみせるしかないわけだ。
そして分不相応の振る舞いで相手の逆鱗に触れると、寄ってたかって打ち据えられてしまって、わきまえさせられることになる……。
なお、ここでは「画家」と呼称しているが、原題にも出てくる『Draughtsman』というのは「製図工」とか「素描家」と訳される単語で、油彩画をメインとしてアトリエで製作する『Painter』とはやることが異なるし、おそらく格付けとしても当時としては『Painter』より低位におかれる職種である。あくまでモノクロの写実的なドローイングを「写真」のような記録目的で描くアルチザンであり、芸術家としてはたいして重視されていなかった可能性が高い。
一方で、ここに出てくる貴族たちもいわゆる地方の郷紳(ジェントリ)であって、ロンドンにいる本物の大貴族たちと較べれば、しょせんは田舎貴族にすぎない。
要するに本作では、「たかが田舎貴族」と「たかが画家もどき」が必死でマウントの取りあいを繰り広げているということになろうか。
さらには、17世紀末英国の文化的状況を刻印しようという意図も感じられる。
当時、英国はフランスと比べれば間違いなく文化的後進国だった。
とくに美術に関しては、バロックを代表する画家はイタリア、フランス、フランドル、スペインあたりに集中していて、英国は移住してきた海外の画家に依存している部分が大きかった。そのあたりははっきりと作品内でも語られている(終盤にはオランダからやってきた造園家が幅を利かせているシーンも出てくる)。
一方、バロック音楽においては、英国ではヘンリー・パーセルという大作曲家が出て、ちょうどこの物語の設定年(1694年)の翌年に没している。彼は英国音楽にとって最も重要な作曲家の一人であり、このあと帰化するヘンデルと違って生粋の英国人である。
作曲家マイケル・ナイマンは自らのミニマル・ミュージックの手法を生かしつつ、パーセルの音楽をベースとして本作のサウンドトラックを製作した。要するに題材と同時代の音楽であるパーセルの音楽を現代風にアレンジして劇伴につけたわけだ。
マイケル・ナイマンというと、一定のリズムで刻まれるオスティナートを想起する向きが多いかと思うが、本作においてはパーセルを引き継いだ結果だということができる。
いずれにせよ、高雅でありながらエネルギッシュで、聴いていてわくわくしてくるような「波動」に満ちた音楽で、映画の空気感を決定づけているように思う。
衣装に関しては、一見すると奇矯でとちくるった印象を与えるが、実際は時代考証はきちんとなされていて、多少の誇張はあっても、当時の貴族は本当にこんな服を着てこんなかつらをかぶっていたというのが本当のところらしい。
むしろグリーナウェイが、17世紀末のファッションの奇怪さを見出して自作に援用したということだろう。白と黒に統一された衣装が緑の庭園に点在する様は、奇抜であり美しくもある。お互いが競い合い、いきり合っているうちに誇張が止められなくなったようなかつらと、その背後から伸びる触覚のような突起物に、当時の貴族の驕慢が象徴されているように思う。
画面作りに関しては、グリーナウェイの愛する17世紀バロック美術の影響が顕著であり、とくにアヴァンにおける闇と光の描写はカラヴァッジョ、レンブラント、リベーラ、ジョルジュ・ド・ラトゥールあたりを容易に想起させる。また、ザクロ(愛、性欲、子種)や靴、蝋燭、オベリスクといった性的モチーフをちりばめるようなイコノロジー重視のモチーフ挿入も、絵画芸術のクリシェから引き継いだものだろう。
ネヴィルの描いた12枚の風景画は、グリーナウェイ本人の手になる作品ということだが、おそらく当時のドローイングの技法や画法をきちんと反映させているはずだ。ネヴィルが使用している格子の入った製図装置も、実際に17世紀末に用いられていたものらしい。
この製図装置は、画面内にもうひとつの「枠」を持ちこみ、ある種のイレコ構造で「スクリーンの長方形」を画面内で再生産している。これを通して風景を見ることで、観客は映画芸術が絵画同様「枠」で恣意的に切り取られて成立していることを再認識させられるわけだ。
庭園内をうろつきつづける「生ける銅像」群(ハナ肇かw)の果たしている役割は、正直僕にはよくわからない。ただ、作中で携帯電話と思しきものが出てきたり、リキテンスタインのパロディのような絵が出てきたりと、「現実にはあり得ない」錯誤が敢えて仕込まれているところを見ると、似たような「異化効果」を狙っていると見るべきものなのだろう。
演技としては、個人的には中盤に出てくる夫婦喧嘩のシーンが一番えげつなくて良かった。
総じて登場人物全員が、韻文調の美しい英語を美しいキングズイングリッシュで語っていて、とても耳あたりの良い映画なのだが、激昂しながら口にする汚い挑発の語もまた、近年の四文字単語連発とは一味違った「みやびな口汚さ」で、なかなか新鮮でした。
1001映画だから観てみたピーター・グリーナウェイ監督作
1001映画だったから観てみたピーター・グリーナウェイ監督作。
本作のDVD紹介……「広大な英国式庭園のある屋敷に住むハーバート夫人から、自分の指定する様々な角度から屋敷のデッサンを12枚描いてほしいと依頼を受けたネヴィル。一枚仕上げるごとに与えられる報酬と甘美な時間。しかし、このデッサンは謎の殺人事件の真相と繋がっていた…」
「これは面白そうだ!」と思ったが、実際に観ると、確かにDVD紹介文と同じ展開になるのだが、さすが、この映画監督、よく分からない(笑)
出演者たちの雰囲気は、ちょっとチープな『バリー・リンドン』風で、17世紀イングランドを描いている。
ただ、タイトルに「殺人事件」と銘されているにも拘らず、なかなか肝心の殺人事件を見せてはくれずに「おっ、殺されたか?」という雰囲気。
これを「上手い!」と観るか、「なんだかな~」と観るかで評価二分されそうな感。
振り返ると、それなりに楽しめる映画だったと思う。
一応、1001映画だし…(笑)
こじらせすぎて大人になれなかった人向け
安定のグリーナウェイ。
さすがにお金を払ってこれを観た人には同情を禁じ得ない。自分もだけど。
こんなのに使うお金があったら、アルバトロスの案山子男でも観てたほうがまだマシとさえ思えてしまう。
こじらせ系中学生が好きそうな耽美主義。ストーリー?何それ?食えんの?(古い表現)という態度を徹底して貫くあたりはもはや清々しささえ感じるものの、ストーリーを回す気のない映画ってものは、ここまでクソなのかという苛立ちはもっと感じる。
良くも悪くも、前衛映画であり、実験映画のようなもの。
それ以外の感覚で観ると本当に殺意が湧くぞ。
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