「なんと絶望的なディスコミュニケーション! 白人姉弟とアボリジニの異色ロード・ムーヴィー。」美しき冒険旅行 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
なんと絶望的なディスコミュニケーション! 白人姉弟とアボリジニの異色ロード・ムーヴィー。
おおおお、これ、めちゃくちゃ
1975年ピーター・ウィアー監督の
『ピクニックatハンギング・ロック』
に影響与えてるじゃん!!
広大な大自然と無垢な少女の絶妙の取り合わせ。
現代にひそむ古代的、原住民的、魔術的な要素。
「冒険」を通じて成長するイニシエーション。
徹底的に描き込まれるオーストリアの自然景と、
独特の爬虫類、有袋類、色とりどりの鳥たち。
すっごくテイストが似ている。
とくに動物の挿入の仕方が。
あと、やったらメロウな音楽。
(こちらはジョン・バリー、
あちらは「皇帝」協奏曲)
岩壁よじのぼる少女の様子とか。
山頂に立つ二人のシルエットとか。
間違いなく、ピーター・ウィアーって
『美しき冒険旅行』意識しているよなあ。
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ニコラス・ローグ監督といえば、なんといっても『赤い影』(73)。
ぼくの生涯ベストの一本に入るくらいの、めちゃくちゃ大好きな映画なのだが、実は他のニコラス・ローグの映画で観たことがあるのは、『地球に落ちてきた男(76)』くらいだったりする。
どちらも、原作から入って映画を観た口なので、あまり監督には執着していなかったともいえる。前者はダフネ・デュ・モーリア(ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者)、後者はウォルター・テヴィス(『ハスラー』『クイーンズ・ギャンビット』の原作者)の小説が原作だ。
ただ、「空気感」を作りあげ、独特の「いやな気配」を醸成する能力の異様に高い監督だとは思っていたし、これだけ『赤い影』を知人にお勧めしてまわっている手前、機会があれば、『赤い影』の前々作(かつデビュー作)と前作にあたる、『パフォーマンス 青春の罠』(70)と『美しき冒険旅行』くらいはいつか映画館で観ておきたいと思っていた。
今回の目黒シネマでのレイトショーは、まさに渡りに船だったという次第。
突拍子もない内容の映画だけど、一応はロード・ムーヴィーと呼ぶべきなのだろう。
儚くもかけがえのない、10代特有の輝きをフィルムに焼き付けた青春映画でもある。
原住民との異文化交流的な部分でいえば、『裸のジャングル』(65)やのちの『ミッション』(86)につながるところもある(とくに狩りと食肉のシーンは、『世界残酷物語』(62)などのモンド映画や『裸のジャングル』からの影響は結構あると思う)。
昔、新宿K’sシネマで観た『ラ・ヴァレ』(パプアニューギニアが舞台)が72年公開ということは、このころモンド映画的な興味が、アフリカからオセアニアへと移ってきていた時期だったということなのかもしれない。
良い映画であることは間違いない。
ただ、あまりに変わった映画なので、
ちょっと飲み下すのに抵抗がある(笑)。
この展開は読めないよなあ、
……そんな●●●●てもいいやんねえ。
そういうもんなん?
それがアボリジニの流儀なん?
せつない。せつなすぎる。
つらい。つらすぎる。
白人姉弟のほうは、文明への帰還に気もそぞろで、
ちっともミレン残してないふうなのが、またつらい。
(ラストシーンでは一応、回想してるっぽいけど)
なぜ展開が読めないかというと、
僕たち観客にもまた、
アボリジニの考えていることがわからないからだ。
少なくとも、そこまではそうでもない以上、
あそこだけが、突拍子もなさすぎる。
この物語は、一見、オーソドックスなボーイ・ミーツ・ガールの物語に見える。
都会から来たハイティーンの少女と幼い弟が、砂漠のど真ん中で父親の自殺(心中未遂)に巻き込まれて、路頭に迷う。なんとか見つけたオアシスでひとときを過ごすも、水が涸れてきて万策尽きたかと思ったそのとき、アボリジニの青年が地平線から姿を現す。
溌剌とした歩み。腰にぶら下がる巨大トカゲ。手には枝を尖らせた手槍。
なんとヒーローチックな登場であることか!
彼は、アボリジニ青年の成人儀式としての「ワーカバウト」(1年間、徒手空拳で自然のなかで生き抜く修行)を実行中で、砂漠をさまよっているらしい(映画の冒頭に出てくる字幕にそう書いてあるだけで、映画内でそれについての詳しい解説をするわけではない)。
彼は、独力で動物を狩り、火をおこしてそれを調理し、二人にも分け与える。水の飲み方を教え、食べられる植物も教え、道を案内し、危険から二人を守る。
オーストラリアの秘境を彷徨しながら、三人は絆を深め、気心の知れた仲となっていく。
このあたりの描写は、まさにボーイ・ミーツ・ガールであり、夢のような異文化交流であり、胸がキュンとなるような青春の大冒険といってよい。厳しいサヴァイヴァルではあるのだが、どこか多幸感が漂っている。この状況を少年も楽しんでいるし、少女もまんざらでもないし、坊やはもっとエンジョイしている。
田舎の少年が、都会の少女を助ける。
『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』で僕たちに刷り込まれた、切なく甘いジュヴィナイル冒険譚の香り。
でも、『美しき冒険旅行』は、そこで終わらない。
宮崎駿に例えれば、『コナン』や『ラピュタ』よりも、『千と千尋の神隠し』か『崖の上のポニョ』。あるいは『借りぐらしのアリエッティ』に近い。
要するに、出逢った二人は、棲んでいる環境や抱えている世界観が違い過ぎて、結局は相互理解に至ることができないまま、致命的な錯誤の道へと陥っていくのだ。
相手が「コナン」だと思ってたら、実は「ポニョ」だった、くらいの錯誤。
夢のような旅の道程の頂点に位置する、渓谷の淵での全裸での水遊び。
すべてを脱ぎ捨てて、ただの裸んぼの「人」となって、三人で泳ぎ回ったあの日。
その幸せは、とある誤解を生み、誤解は誤解のまま、すれ違った思いをかかえて、事態は破滅的な「死の舞踏」へと転がり落ちていく。
予兆はあったといえば、あったのだ。
かたくなにアボリジニの言葉を覚えない姉。
意思疎通も弟に任せて、どこか一線を引いている。
(通じない物語を青年に語り続ける弟と対照的。)
服にこだわり、靴にこだわり、文明にこだわる。
どれだけ助けられても、他者はどこまでも他者。
「美女と野獣」の前半戦みたいなものだ。
それにしても。
こんな恐ろしい展開があっていいいのか。
こんなにも残酷な試練があっていいのか。
すれ違い方が、あまりに片務的で、
想いの重さが、あまりに一方的で、
表現が、あまりに想像を絶するゆえに、
喜劇は悲劇へと転じ、悲劇は喜劇へと転ずる。
アレを樹上で見つけたときの「なんだこりゃ」感。
「考えたらヤバそうだから、スルーするか」感。
この恐ろしい結末が「やり過ごされる」衝撃性。
救いがたいディスコミュニケーションの先には、
思考停止と、無関心と、強制消去が待っていた。
そう、それは「なかったことにされた」のだ。
この、口腔いっぱいに苦みが広がるような、
滑稽なのに空恐ろしく悲痛な嘔吐感を、
いったい何にたとえようか。
あまりに救われない。
理解不能。
『美しき冒険旅行』は、とても美しい映画だ。
同時に、気持ちの悪い、無性にいやな映画でもある。
それは結局、最初に言ったとおり、我々にも
アボリジニの青年のことがわからないからだ。
言葉が通じないだけではない。
行動の理由がわからない。
その死生観がわからない。
いや正確にいえば、作中の二人と同様、
観客もまた、アボリジニの青年について
わかっている「つもり」になっていたのが、
「裏切られた」から、気持ちが悪いのだ。
本当は、理解など出来ていなかった現実を
内心認めたくないから、もやっとするのだ。
異人種間の相互理解には、越えなければいけないハードルがたくさんある。
たとえひとときわかり合えたと思ったとしても、育った環境が違えば、ものの考え方や表現方法は当然異なって来るし、すれ違いも起きる。ときには全く理解できないこともあるだろう。それを乗り越えるためには、やはり最低限の「会話」が成立することが必要だ。やはり
「言語」は重要なのだ。逆に、ディスコミュニケーションを「なんだか怖い」と思って「シャットアウト」するのがいちばんよろしくない。そのことをこの映画は教えてくれる。
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本作に登場するアボリジニの青年は、
終盤にわれわれの理解を超えるだけでなく、
もとより「信用のできない」話者でもある。
僕たち観客も、最初は彼が道義心と善意から、砂漠にとりのこされた白人の子供ふたりを「道案内」しているのだと考える。
こうしないとどうしようもないから、砂漠を歩いたり、ジャングルを歩いたりしているのだと考える。
しかし、映画の中盤で、ぎょっとするようなことが起きる。
その衝撃は、たとえばアッバス・キアロスタミ監督の映画で、突然カメラマンが映り込んだり、登場人物が撮り方の相談を始めたときの衝撃に似ている。
ドキュメンタリーだと思っていたものが、実はそうではなかった――モキュメンタリーだったことを知る衝撃に近い、ということだ。
秘境の探検行だと思っていたのが、
実は「単なる時間つぶし」だった衝撃。
文明から隔絶された冒険だったはずが、
単に「そう思わされていた」だけだったという衝撃。
アボリジニの青年には、青年なりの「思惑」があり、彼は彼の「都合」にしたがって行動している。そのことを姉弟に伝える気があったのか、なかったのかさえ定かではないが、彼は決して「純朴で無垢な原住民の青年」などではなかった。
嘘はついていないかもしれない。
でも、いろいろなことを二人に「敢えて」教えようとしなかった。
いずれにせよ、彼は「コミュニケーションできない」という状況を自ら作り上げ、それに自縄自縛でからめとられ、自分のなかのルールに従って一方的に行動し、そのルールのもとで自ら事態に決着をつけた。
彼は最後まで「アボリジニ」としてふるまい、「アボリジニ」として行動した。
それは立派なことかもしれない。しかし、得られた結末は苦いものだった。
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●本国のWikiを見ると、批評家は本作のことを、キリスト教的な背景を持つ「失われたエデンに回帰しようとするが果たせない」物語として理解しているようだ。
なるほど、たしかに最初に見つけたオアシスでは、まさに「リンゴみたいな実」と、「樹上の蛇」がでてくるものね。結局、文明に染まってしまった人間は、無垢だった時代の楽園には戻れないと。
●冒頭の演出、最高。お父さんの唐突な発砲、最高。
●ちなみに弟役は、ローグ監督の息子さんらしい。芸達者。
●オーストラリアを舞台に映画をつくるにあたって、動物虐殺の残虐ショーとか死体の腐敗とか生肉食の調理とか美少女のミニスカ&下着&全裸とか、明快に「モンド映画」の衣鉢を継ぐエクスプロイテーション映画に仕上げてあったのは、ちょっと意外だった。ジョン・バリーのメロウな音楽だって、モリコーネとかオルトラーニとかの泣き節をあからさまに意識してるもんね。
そのせいで、英語で検索かけると、結構「動物虐待映画」「未成年の性的に不適切なシーンのある映画」としても名前が挙がってくる。個人的には心底どーでもいいけど(笑)。
●視線の交錯や、木の股を女性器に見立てる描写など、映画を通じて「性的な要素」が強調されているのは確か。まあ10代後半の二人が半裸で旅してるんだから、そういう気持ちも当たり前だと思うんだけどね。むしろ襲わないアボリジニの掟と精神の厳格さに感心するくらいだ。
●ジョン・バリーと対極にあるようなノイズっぽい音楽がずっと流れているのだが、まさかのシュトックハウゼンの伝説的電子音楽『Hymnen』!!
●マツカサトカゲ、モロクトカゲ、ハリモグラ、サソリ、セキセイインコ&ウォンバット&蛇(オアシスにて)、スナオオトカゲ、フクロモモンガ、カンガルー、ポッサム、オオコウモリ、キバタン、エリマキトカゲ(懐かしい!!)など、オーストラリア特有の動物相を示すわくわくランドぶりが素晴らしい!! いっぽうで、ヒトコブラクダやスイギュウは土着の動物ではないから、彼らは「自然」の一部でありながら、「文明」の痕跡でもあるといえる。