劇場公開日 1972年7月15日

美しき冒険旅行のレビュー・感想・評価

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3.5なんと絶望的なディスコミュニケーション! 白人姉弟とアボリジニの異色ロード・ムーヴィー。

2025年2月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

おおおお、これ、めちゃくちゃ
1975年ピーター・ウィアー監督の
『ピクニックatハンギング・ロック』
に影響与えてるじゃん!!

広大な大自然と無垢な少女の絶妙の取り合わせ。
現代にひそむ古代的、原住民的、魔術的な要素。
「冒険」を通じて成長するイニシエーション。
徹底的に描き込まれるオーストリアの自然景と、
独特の爬虫類、有袋類、色とりどりの鳥たち。

すっごくテイストが似ている。
とくに動物の挿入の仕方が。
あと、やったらメロウな音楽。
(こちらはジョン・バリー、
あちらは「皇帝」協奏曲)
岩壁よじのぼる少女の様子とか。
山頂に立つ二人のシルエットとか。
間違いなく、ピーター・ウィアーって
『美しき冒険旅行』意識しているよなあ。

― ― ― ―

ニコラス・ローグ監督といえば、なんといっても『赤い影』(73)。
ぼくの生涯ベストの一本に入るくらいの、めちゃくちゃ大好きな映画なのだが、実は他のニコラス・ローグの映画で観たことがあるのは、『地球に落ちてきた男(76)』くらいだったりする。
どちらも、原作から入って映画を観た口なので、あまり監督には執着していなかったともいえる。前者はダフネ・デュ・モーリア(ヒッチコックの『レベッカ』『鳥』の原作者)、後者はウォルター・テヴィス(『ハスラー』『クイーンズ・ギャンビット』の原作者)の小説が原作だ。
ただ、「空気感」を作りあげ、独特の「いやな気配」を醸成する能力の異様に高い監督だとは思っていたし、これだけ『赤い影』を知人にお勧めしてまわっている手前、機会があれば、『赤い影』の前々作(かつデビュー作)と前作にあたる、『パフォーマンス 青春の罠』(70)と『美しき冒険旅行』くらいはいつか映画館で観ておきたいと思っていた。
今回の目黒シネマでのレイトショーは、まさに渡りに船だったという次第。

突拍子もない内容の映画だけど、一応はロード・ムーヴィーと呼ぶべきなのだろう。
儚くもかけがえのない、10代特有の輝きをフィルムに焼き付けた青春映画でもある。
原住民との異文化交流的な部分でいえば、『裸のジャングル』(65)やのちの『ミッション』(86)につながるところもある(とくに狩りと食肉のシーンは、『世界残酷物語』(62)などのモンド映画や『裸のジャングル』からの影響は結構あると思う)。
昔、新宿K’sシネマで観た『ラ・ヴァレ』(パプアニューギニアが舞台)が72年公開ということは、このころモンド映画的な興味が、アフリカからオセアニアへと移ってきていた時期だったということなのかもしれない。

良い映画であることは間違いない。
ただ、あまりに変わった映画なので、
ちょっと飲み下すのに抵抗がある(笑)。

この展開は読めないよなあ、
……そんな●●●●てもいいやんねえ。
そういうもんなん?
それがアボリジニの流儀なん?
せつない。せつなすぎる。
つらい。つらすぎる。
白人姉弟のほうは、文明への帰還に気もそぞろで、
ちっともミレン残してないふうなのが、またつらい。
(ラストシーンでは一応、回想してるっぽいけど)

なぜ展開が読めないかというと、
僕たち観客にもまた、
アボリジニの考えていることがわからないからだ。
少なくとも、そこまではそうでもない以上、
あそこだけが、突拍子もなさすぎる。

この物語は、一見、オーソドックスなボーイ・ミーツ・ガールの物語に見える。
都会から来たハイティーンの少女と幼い弟が、砂漠のど真ん中で父親の自殺(心中未遂)に巻き込まれて、路頭に迷う。なんとか見つけたオアシスでひとときを過ごすも、水が涸れてきて万策尽きたかと思ったそのとき、アボリジニの青年が地平線から姿を現す。
溌剌とした歩み。腰にぶら下がる巨大トカゲ。手には枝を尖らせた手槍。
なんとヒーローチックな登場であることか!
彼は、アボリジニ青年の成人儀式としての「ワーカバウト」(1年間、徒手空拳で自然のなかで生き抜く修行)を実行中で、砂漠をさまよっているらしい(映画の冒頭に出てくる字幕にそう書いてあるだけで、映画内でそれについての詳しい解説をするわけではない)。
彼は、独力で動物を狩り、火をおこしてそれを調理し、二人にも分け与える。水の飲み方を教え、食べられる植物も教え、道を案内し、危険から二人を守る。

オーストラリアの秘境を彷徨しながら、三人は絆を深め、気心の知れた仲となっていく。
このあたりの描写は、まさにボーイ・ミーツ・ガールであり、夢のような異文化交流であり、胸がキュンとなるような青春の大冒険といってよい。厳しいサヴァイヴァルではあるのだが、どこか多幸感が漂っている。この状況を少年も楽しんでいるし、少女もまんざらでもないし、坊やはもっとエンジョイしている。

田舎の少年が、都会の少女を助ける。
『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』で僕たちに刷り込まれた、切なく甘いジュヴィナイル冒険譚の香り。
でも、『美しき冒険旅行』は、そこで終わらない。
宮崎駿に例えれば、『コナン』や『ラピュタ』よりも、『千と千尋の神隠し』か『崖の上のポニョ』。あるいは『借りぐらしのアリエッティ』に近い。
要するに、出逢った二人は、棲んでいる環境や抱えている世界観が違い過ぎて、結局は相互理解に至ることができないまま、致命的な錯誤の道へと陥っていくのだ。
相手が「コナン」だと思ってたら、実は「ポニョ」だった、くらいの錯誤。

夢のような旅の道程の頂点に位置する、渓谷の淵での全裸での水遊び。
すべてを脱ぎ捨てて、ただの裸んぼの「人」となって、三人で泳ぎ回ったあの日。
その幸せは、とある誤解を生み、誤解は誤解のまま、すれ違った思いをかかえて、事態は破滅的な「死の舞踏」へと転がり落ちていく。

予兆はあったといえば、あったのだ。
かたくなにアボリジニの言葉を覚えない姉。
意思疎通も弟に任せて、どこか一線を引いている。
(通じない物語を青年に語り続ける弟と対照的。)
服にこだわり、靴にこだわり、文明にこだわる。
どれだけ助けられても、他者はどこまでも他者。
「美女と野獣」の前半戦みたいなものだ。

それにしても。
こんな恐ろしい展開があっていいいのか。
こんなにも残酷な試練があっていいのか。

すれ違い方が、あまりに片務的で、
想いの重さが、あまりに一方的で、
表現が、あまりに想像を絶するゆえに、
喜劇は悲劇へと転じ、悲劇は喜劇へと転ずる。

アレを樹上で見つけたときの「なんだこりゃ」感。
「考えたらヤバそうだから、スルーするか」感。
この恐ろしい結末が「やり過ごされる」衝撃性。
救いがたいディスコミュニケーションの先には、
思考停止と、無関心と、強制消去が待っていた。
そう、それは「なかったことにされた」のだ。

この、口腔いっぱいに苦みが広がるような、
滑稽なのに空恐ろしく悲痛な嘔吐感を、
いったい何にたとえようか。
あまりに救われない。
理解不能。

『美しき冒険旅行』は、とても美しい映画だ。
同時に、気持ちの悪い、無性にいやな映画でもある。
それは結局、最初に言ったとおり、我々にも
アボリジニの青年のことがわからないからだ。
言葉が通じないだけではない。
行動の理由がわからない。
その死生観がわからない。

いや正確にいえば、作中の二人と同様、
観客もまた、アボリジニの青年について
わかっている「つもり」になっていたのが、
「裏切られた」から、気持ちが悪いのだ。
本当は、理解など出来ていなかった現実を
内心認めたくないから、もやっとするのだ。

異人種間の相互理解には、越えなければいけないハードルがたくさんある。
たとえひとときわかり合えたと思ったとしても、育った環境が違えば、ものの考え方や表現方法は当然異なって来るし、すれ違いも起きる。ときには全く理解できないこともあるだろう。それを乗り越えるためには、やはり最低限の「会話」が成立することが必要だ。やはり
「言語」は重要なのだ。逆に、ディスコミュニケーションを「なんだか怖い」と思って「シャットアウト」するのがいちばんよろしくない。そのことをこの映画は教えてくれる。

― ― ― ―

本作に登場するアボリジニの青年は、
終盤にわれわれの理解を超えるだけでなく、
もとより「信用のできない」話者でもある。

僕たち観客も、最初は彼が道義心と善意から、砂漠にとりのこされた白人の子供ふたりを「道案内」しているのだと考える。
こうしないとどうしようもないから、砂漠を歩いたり、ジャングルを歩いたりしているのだと考える。
しかし、映画の中盤で、ぎょっとするようなことが起きる。
その衝撃は、たとえばアッバス・キアロスタミ監督の映画で、突然カメラマンが映り込んだり、登場人物が撮り方の相談を始めたときの衝撃に似ている。
ドキュメンタリーだと思っていたものが、実はそうではなかった――モキュメンタリーだったことを知る衝撃に近い、ということだ。

秘境の探検行だと思っていたのが、
実は「単なる時間つぶし」だった衝撃。
文明から隔絶された冒険だったはずが、
単に「そう思わされていた」だけだったという衝撃。

アボリジニの青年には、青年なりの「思惑」があり、彼は彼の「都合」にしたがって行動している。そのことを姉弟に伝える気があったのか、なかったのかさえ定かではないが、彼は決して「純朴で無垢な原住民の青年」などではなかった。
嘘はついていないかもしれない。
でも、いろいろなことを二人に「敢えて」教えようとしなかった。
いずれにせよ、彼は「コミュニケーションできない」という状況を自ら作り上げ、それに自縄自縛でからめとられ、自分のなかのルールに従って一方的に行動し、そのルールのもとで自ら事態に決着をつけた。
彼は最後まで「アボリジニ」としてふるまい、「アボリジニ」として行動した。
それは立派なことかもしれない。しかし、得られた結末は苦いものだった。

― ― ― ―

●本国のWikiを見ると、批評家は本作のことを、キリスト教的な背景を持つ「失われたエデンに回帰しようとするが果たせない」物語として理解しているようだ。
なるほど、たしかに最初に見つけたオアシスでは、まさに「リンゴみたいな実」と、「樹上の蛇」がでてくるものね。結局、文明に染まってしまった人間は、無垢だった時代の楽園には戻れないと。

●冒頭の演出、最高。お父さんの唐突な発砲、最高。

●ちなみに弟役は、ローグ監督の息子さんらしい。芸達者。

●オーストラリアを舞台に映画をつくるにあたって、動物虐殺の残虐ショーとか死体の腐敗とか生肉食の調理とか美少女のミニスカ&下着&全裸とか、明快に「モンド映画」の衣鉢を継ぐエクスプロイテーション映画に仕上げてあったのは、ちょっと意外だった。ジョン・バリーのメロウな音楽だって、モリコーネとかオルトラーニとかの泣き節をあからさまに意識してるもんね。
そのせいで、英語で検索かけると、結構「動物虐待映画」「未成年の性的に不適切なシーンのある映画」としても名前が挙がってくる。個人的には心底どーでもいいけど(笑)。

●視線の交錯や、木の股を女性器に見立てる描写など、映画を通じて「性的な要素」が強調されているのは確か。まあ10代後半の二人が半裸で旅してるんだから、そういう気持ちも当たり前だと思うんだけどね。むしろ襲わないアボリジニの掟と精神の厳格さに感心するくらいだ。

●ジョン・バリーと対極にあるようなノイズっぽい音楽がずっと流れているのだが、まさかのシュトックハウゼンの伝説的電子音楽『Hymnen』!!

●マツカサトカゲ、モロクトカゲ、ハリモグラ、サソリ、セキセイインコ&ウォンバット&蛇(オアシスにて)、スナオオトカゲ、フクロモモンガ、カンガルー、ポッサム、オオコウモリ、キバタン、エリマキトカゲ(懐かしい!!)など、オーストラリア特有の動物相を示すわくわくランドぶりが素晴らしい!! いっぽうで、ヒトコブラクダやスイギュウは土着の動物ではないから、彼らは「自然」の一部でありながら、「文明」の痕跡でもあるといえる。

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じゃい

4.0パンツ

2024年1月19日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

主演の女の子のスカートが異様に短くて、パンツが見えそうで見えない、というのが気になって気になってしょーがなかった。
まあ、後半では脱いでしまっているので、肩透かしを食らった感じ。

それはさておき、オーストラリアの自然、特に固有の生き物の生態を、スクリーン画面いっぱいに大きく映し出されるのが、圧巻だった。

映画の作品としては、無いタイプではあるけど、意外と脚本もストーリーテリングもしっかりしていて、アボリジニの音楽と相俟って見応えはある、と思う。

20240115 目黒シネマ

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デビット・ボーイ

3.5【”ウォーク・アバウト”オーストラリアに住むイギリス人少女と幼き弟が砂漠で彷徨うも、アボリジニの心優しき少年と出会い共に旅し絆を作る。自然と文化や、人種を超えた少年少女の淡い恋を描いた作品。】

2023年11月27日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

幸せ

■冒頭、イギリス人少女と幼き弟は父とハイキングに来るも、父は心中を図るが如く二人に銃を発砲し、最後は自殺し、車は炎上する。
 オーストラリアの砂漠に取り残された二人は、彷徨い歩く中、アボリジニの心優しき少年と出会い、彼らは共に旅をするのである。

◆感想

・アボリジニの少年の長けたサバイバルスキル。彼は野生動物を自ら仕留め、焼いてイギリス人姉弟を分ける。
 更に、水場の位置も教えたり、日焼けした幼き男の子に、植物で調合した薬を塗ってあげるのである。
ー それと対比されるように描かれる、白人たちがライフルで野生動物たちを撃ち殺す姿も描かれている。-

・少女は少年が狩に行っている時に、一人全裸で川の中を魚の様に泳ぎ回る。
ー 美しい、シーンである。-

・彼らは、家を見つけアボリジニの少年は”一緒に住もう。”と少女に語り掛けるが・・。
ー 少年の夜、白いペインティングをして躍る姿は、私は勝手に求愛行為だと思った。-

・少年は、幼き弟に文明に繋がる道も教えている。

<ラスト、大人になった少女はフィアンセと思われる白人男性から優しく話しかけられるが、彼女の中にはアボリジニの少年と幼き弟と川遊びをしている風景を思い出しているのである。
 今作は、人種や言葉が違っても絆は出来る事や、アボリジニの少年が少女に抱いた淡い恋と哀しき別れをニコラス・ローグ監督が、鮮やかに写し出した作品である。>

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NOBU

4.0奇跡のような映画だと心から思う

2018年10月30日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

なんだろう、不思議な魅力に溢れており
あっという間に終わってしまう
そして何か分からない感動のようなものが残る
良い映画に出会えた幸せの瞬間だ
奇跡のような映画だと心から思う

繰り返し鳴り写るラジオは何の記号だろう?
チューニングがずれた時、我々は心中しようとした父のようになる文明社会そのものの象徴なのだろう

ラストシーンの抱き合って頬にキスを交わす男女は10年後の姉弟の姿
そこにオーバーラップされる、美しき冒険旅行の記憶
二人の心の深奥に刻み込まれている様が美しく表現されている
その記憶は姉弟、そしてアポリジニの彼の三人ともが裸で水浴びして泳いだ記憶だ
そこに青年になった弟のナレーションが被さって終る
その裸での水浴びのシーンに本作のテーマが凝縮されている
このシーンを観るために、その美しさを理解出来るようになるために、それまでの100分は存在していた

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あき240

4.5それぞれのWALKABOUT

2018年8月3日
Androidアプリから投稿

シドニーの街並みを足早に行き交う都会人。学校で発声練習をする女子生徒たち。裕福そうだが異様に無機質な家族。バックでビヨーンビヨーンと絶え間なく響く、アボリジニの民族管楽器ディジュリドゥの不気味な音。そして、カメラが茶色いレンガの壁をゆっくり移動すると、一瞬にしてオーストラリアの砂漠へとつながる。都会と自然を対比させながら、これから物語が砂漠の中で紡がれていくことを示唆する、シュールで不穏な幕開け。何だろう、この意味深で不協和音に満ちたオープニングは…。

父親と少女とその弟の3人で砂漠にドライブに来るも、父親は突然2人の子供めがけてライフルを発砲し、ガソリンで車に火を点けて自殺。少女と弟は、広大な砂漠の大地に取り残され、あてどなくさまよい歩くことに。ある日、少女と弟は一人のアボリジニの青年と出くわす。その青年は、砂漠の中を一人で生き抜く、成人になるための儀式「WALKABOUT 」の途中だった。しなやかな動きで動物たちを捕らえ、殺し、肉を割き、食料にしていくアボリジニ青年のたくましい姿に、文明人である少女はしばし見とれる。だがある日、空き家を見つけて3人の仮の住まいとした矢先、アボリジニ青年が突然、少女の前で求愛のダンスを披露する。カッと目を見開いて少女を見据え、真っ黒な体にスケルトンの模様をペイントして、少女に愛をアピールし続ける青年。夜になってもずっと…。バックに流れるディジュリドゥの不気味なサウンドも相まって、釘付けになるシークエンスだ。そして翌日…。

欧米人姉弟とアボリジニ青年の、それぞれのWALKABOUT。寡黙な作品ではあるが、この作品が水際立っているのは、自然と文明との対比に留まらず、異文化コミュニケーションの難しさや、生きとし生けるものの命を頂くということ、自立すること、そして何よりも、たくましく自然を生きる猛者も、我々と同じように恋に落ち、繊細な感情に打ちひしがれるのだということを、安直な言葉や説明なしに、映像と音のみで実に雄弁に物語っている点である。ジェニー・アガター扮する少女が、渓谷で生まれたままの姿で泳ぐシーンは、残酷なサバイバルの旅の中で、一服のオアシスとしては奇跡的に美しく、心洗われる瞬間だ。

なお、この作品はかなり前に一度観たきりで、それぞれのシーンが強烈に心に焼き付いたものの、再び観たいと思いつつ、その機会を逸していた。そんな矢先、日頃信頼し、フォローさせていただいている方がオールタイム・ベストの一本として大切にしていることを知ったのをきっかけに、本当に久々のDVD観賞となった。この作品との再会の機会を与えてくれたその方に、この場を借りて御礼申し上げます。

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