「16歳の少年から見た男女の愛憎劇の人生訓で、前時代的ドラマツルギー」埋れた青春 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
16歳の少年から見た男女の愛憎劇の人生訓で、前時代的ドラマツルギー
ジュリアン・デュヴィヴィエが日本で高く評価された理由は、避けられない運命に翻弄される人間の悲劇をロマンチックに表現したペシミズムに、戦前の日本人の人生観や心情が最も共鳴できたからではないかと想像する。同時にそれは、フランスという国が持つお洒落な西洋文化への憧憬と、人生の儚さを巧みに描いたストーリーテラーのデュヴィヴィエ監督への敬愛を意味する。それが戦後30年以上経った現在では、大分変化してきた。リアリズム映画の台頭による現実主義が映画表現の主流になり、デュヴィヴィエ監督特有の作劇術を支えるロマンチシズムが浮世離れした陳腐さを感じさせてしまうからである。今回この戦後の代表作を観て、複雑な人間模様を自由自在に操り、結末の安易さがあるものの巧みに構成されたドラマツルギーに改めて感心しながら、そのことを思った。今では余り創作されないであろう、運命に抗えない人間のドラマティックな作劇に一種の安心感を抱いたからである。出来すぎたドラマへの反発は、その後にくる。何とも矛盾した映画鑑賞になってしまった。
(ストーリー)
主人公レオナール・モーリツィウスは若き教授で将来を有望視されていたが、年上の妻エリザベートの実妹アンナと熱烈な恋愛関係に陥り、それを知ったエリザベートが嫉妬し夫婦仲が険悪になる。神経過敏なエリザベートは神経症の病気になり、アンナに殺意を抱く。そんな状況でエリザベートが射殺されて、犯人としてレオナールが逮捕される。映画は、この事件の十数年後から始まる。もう一人の主人公になるエツェルという16歳の少年が、ある老人に付きまとわれる。その老人とは、一人息子レオナールの無実を信じる父親であり、事件の裁判の検事であったアンデルガストの息子に接近したのである。裁かれた親子と裁いた親子の時を越えた関係がここから始まる。エツェルは老人の調べまとめた事件簿に興味を持ち、父の行った非人道的な姿勢に怒りを抱くようになり、家出して自らレオナールの無罪を証明しようとする。この16歳の少年が持つ正義感と反抗期が重なる設定が微妙に効果的である。15歳では幼いであろうし、17歳では大人になりかけた言動が現れてくるだろう。調査の中でレオナールの元親友で美術評論家のワレンムと言う男に辿り着く。彼は事件後アンナと一時生活を共にしたが棄てられ、今はひっそりと身を隠すように生きていた。エツェルがこの調査で大人の世界に関心を持ち精神的に成長するのが、映画のもう一つの主題になっている。一方検事アンデルガストも息子の家出で目覚め、牢獄のレオナールに再会し、改めて彼の証言に耳を傾ける。そして事実は、アンナを愛するワレンムが裁判に大きく影響する偽証をしていたことをエツェル少年が突き止める。勿体ないのは、真犯人を知ったエツェルが家に戻ったときには既に父の裁量により、レオナールが特赦で釈放されている展開である。これによりエツェル少年の存在が消え、レオナールが物語の主役として結末を迎える。自由の身となったレオナールはアンナに会いに行くが今は人妻となり、もう過去には戻れない。隠し子のことも確認するが、その子も彼に会いたくないと言われる。埋もれた青春とは、レオナールの無実の囚人生活である。男女の三角関係が生んだ、余りにも不幸な境遇に絶望するレオナールの表情が印象的だった。しかし、ここまで苦しめられる主人公を観る物語の意味するものは何だろうと、考えてしまうのもまた事実である。
今日の視点では何と陳腐なドラマツルギーと云わざるを得ない。デュヴィヴィエ監督の作劇術が前時代的なロマンチシズムの認めるところの時代ではないと生かされないことを感じる。それでも、場面展開と各俳優陣の演技と演出の確かさを評価して佳作としたい。個人的には、とても面白かったのである。
1980年 2月5日 フィルムセンター