ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェストのレビュー・感想・評価
全42件中、21~40件目を表示
良くできた新感覚の西部劇
セルジオ・レオーネでもマカロニ・ウェスタンとは一線を画している。単純な西部劇じゃないから、アメリカ人受けはしないだろうな、という作品。
見所は、良心的役が定着のヘンリー・フォンダが悪役。ラスト近くの決闘シーンは黒澤の「用心棒」を思い出す。MM、BBと並び称される60年代のグラマー女優(これ死語かも?)CCクラウディア・カルディナーレが美しい。彼女はラストでは日に焼けた逞しい西部の女になっていて魅力的だった。
誰も指摘していないが、劇場で観た上でのレビュー?
過去にこれまでの版を何回かは鑑賞済みの方であるなら、始まって既に冒頭部分で直ぐに気づくと思いますけど、今回のバージョンが何か変だなって事に。
今回、丸の内ピカデリーと横浜ムービルとで観た上でだが、どちらも全く同じだった。
単純に言うならば、全体的に画面が暗いと言うか色調が濃いと言うか、そのせいでこれまでのソフト版やTV等での鑑賞と違って、より大きなスクリーンであるにも関わらず、細部が分かりにくくなってしまっているのだ。
余りにハッキリと違いすぎるので極端に違和感を覚えたのが、ウッディの頭に屋根からこぼれ落ちてくる液体の色だろう。
今回の版だとまるで「血の色」のように赤みがかっているが、元々はサビ水のような濁った黄色味の茶色という感じだったものである。
本来は、これについては屋根に溜まってた雨水が錆び水になって滴って来てるのだろうと思われるので、元の色の方が正しく思える。
また、決闘のシーンで顕著なのが3人の服の色。
殆んど皆が同じように黒っぽい服のようにしか見えないが、実際はそれぞれ違って、ウッディが着ているのは紫色っぽいシャツであることが従来の版では確認できる。
更に、C・Cが途中で立ち寄り、J•ロバーズやC•ブロンソンと初めて顔を交わす中継所内のシーンも、内部がヤケに暗いために室内の細部や人物の表情などについても、どのようになっているのかが非常に分かりにくく感じられた。
取り敢えず、特に顕著な点について挙げたが、新旧のどちらが正しい(本来の)ものなのかは、私には分からない。
今回の版が正しく修復されたもので、これまでのものが劣化してしまっていたものだったと言われてしまえば、きっとそうなんだろう。
ただ、少なくとも何度も観ているこの作品に於いて、ここまで違ってる(違和感を覚える)のは初めての事である。
また、「劣化して(明るくなって)たのを修復して暗くした」というのは何か変に思える。
今回の体験により、デジタル修復の限界というか問題点を感じた。
これでは、元の作品への印象がまるで変わってしまいかねない。
特に、何度も鑑賞を繰り返している愛着ある作品についての場合は、今回の件のようにそれが尚更顕著となるであろうから。
長かった…
眠くなったらどうすればいいんだ?と、つい思い出してしまったのが『レッド・サン』(1971)のチャールズ・ブロンソン。一緒に旅をするが眠らないでいる三船敏郎に質問すると「片目ずつ眠るのだ」と答える。あ、そうか、映画で眠くなったら片目ずつ…などと考えながら、やはり途中で眠ってしまったみたいだ。
このチャールズ・ブロンソンのドアップ映像が続き、へんてこなハーモニカの吹き方で魅了してくれる。そのハーモニカを吹いてるのはトゥーツ・シールマンスですか?と気になりながらも、エンニオ・モリコーネの音楽にうっとり。そうやってうっとりしてる間に、銃声がバーンとなったりして、目を覚ましてしまいます。それよりも高速往復ビンタを喰らっていたブロンソンがとてもよかった。
女性目線云々なんてのはそれほど感じなかったし、なんだかんだと、結局は復讐劇だったのか…とはいえ、殺し屋がいっぱい登場するので、すでに人物関係が頭の中から抜け落ちております。レオーネ作品は結構好きで、『続・夕陽のガンマン』や『夕陽のギャングたち』は何度でも観たいですね。
哀感漂う西部劇の「挽歌」
セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」の一つ、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」を丸の内ピカデリーで観た。
元の邦題は「ウェスタン」だが、まさか映画館でやるとは思わなかったので、昨年DVDで観てしまったので、今回は2度目の鑑賞だが、やはり映画館で観るべき作品。
冒頭からかなりのスローペースで、人物の顔のクローズアップの多用や長回しなど、レオーネ節満載。
この映画の凄いところは、主な登場人物のキャラが立っていること。ハーモニカ(チャールズ・ブロンソン)、ジル(クラウディア・カルディナーレ)、シャイアン(ジェイスン・ロバーズ)、そして「荒野の決闘」とは真逆の悪役、ヘンリー・フォンダ演じるフランク。4人が全員主人公であり、ならず者がガンファイトを繰り広げた西部劇の不毛な大地にいよいよ鉄道が通るという、フロンティアの終焉を時代背景とした、富や野望への欲と執念に彩られた人間模様。「ウェスタン」という単純な旧邦題が逆に的確に物語っていた、レオーネからの西部劇への「挽歌」であり、映画ファン必見の傑作と言えよう。
最後になるが、実はこの映画の一番優れているのは、音楽である。モーリス・ジャール、ミシェル・ルグラン、ジョン・ウィリアムズと並んで、勝手に4大映画音楽作曲家と私が呼んでいる、エンニオ・モリコーネの、「ニュー・シネマ・パラダイス」「ペイネ 愛の世界旅行」と並ぶ最高クラスの傑作スコアである。映画全編がモリコーネ節 で彩られ、西部劇の挽歌を甘美なまでに奏でる。まさに、映画芸術の極致である。
なお、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」もそうだが、レオーネは結構ミステリタッチというか、思わせぶりな筆致を用いることがあり、感興を増している。
傑作という言葉も陳腐に感じるほど破格の作品
広大な西部の風景をモリコーネの音楽が情景に変えた。映画愛があふれて零り落ちた。涙が滲んだ。「これが映画だ」と心の中で叫んだ。
西に伸びていく大陸横断鉄道、西部開拓期のガンマン達と彼の地に嫁いできたニューオーリンズの娼婦ジルの物語。
ハーモニカを吹いて登場する謎の男(チャールズ・ブロンソン)、人間味あふれ弱い者には手をかけない強盗団のボス(ジェイソン・ロバーズ)、鉄道の経営者と手を組み成り上がろとする冷酷な殺し屋(ヘンリー・フォンダ)。この三人のガンマンの個性が強烈なインパクトを残す。そしてジルを演じたクラウディア・カルディナーレは無敵だった。
「この作品を見て映画監督になろうと思った」というタランティーノ。そう、この作品はそういう作品だと思う。私の映画人生にもしっかりと刻み込んだ。映画に愛をこめて……。
古い。時代を感じる。で、素晴らしい!!!
ハリウッドと間違えて観た人が1000人に1人は居ると思う。いや、何でそんなバッかな事、考えるんだろ、俺。
マカロニ・ウェスタン仕立てのイタリア映画だった。と言うか、"once upon a time" と題するに相応しい映画だった。大好きかもしれない、これ!
50年前の映画。確かに時代は感じるけど、そのまんまスペースオデッセイものにしても、面白いんじゃないかと思わされます。要するに、活劇としてのエンタメ要素にも溢れてる!
金を持った悪役が肢体不自由で列車暮らしとか、めちゃくちゃスターウォーズ感あるやん。ヒールな登場からヒーローに転じるシャイアンのキャラが最高。マジでハンソロ。マクベイン一家が狙われた理由が明かされてから"once upon a time" のスイッチ入ります、萌えます。クラウディア・カルディナーレお姉さま、美人です。ハーモニカとフランクの因縁は、丸っ切り、復讐劇が得意なマカロニ・ウェスタン!
俺、思うんですが。映画撮りを志す若い人がコレを観たら、めちゃくちゃ感化されると思います。物語、キャラ、画、セット、ひきの構図、などなど、もう数えられない位。レジェンド。まさにレジェンド。これが1968年、"once upon a time in America"は1984年。レオーネって、本当に巨匠ですね。感服いたしました。
素晴らしかったです。
61年間、観た映画の中で紛れもなく第1位!
50年前に吉祥寺のマルイの隣りにあったスバル座でロードショー落ちを父親と観たのが最初。43年前に新宿の名画座で彼女と一緒に観たのが、TV放映以外で観た二度目。その後VHSとDVDで家で観たのは数しれず。冒頭のBG無しの駅舎の緊迫感。モリコーネの名スコアに乗って、フランクが手下と共に登場するマクベイン家。ジルの登場でホームから駅舎の屋根を越えて町の全景が映し出されるクレーンショットとモリコーネ名曲中の名曲!名場面を言い出せばキリがない。ガンマンが役に立たなくなる西部の新たな幕開け。ただ消えゆく古い男たち…。ああ、全てが美しく、儚く、哀しく、そしてあまりにも尊く愛おしい。
不可能がなくなった、現代映画制作の全ての技術を持ってしても、このレオーネの最高傑作の前では、ただひれ伏すしかない。
本作と『続・夕陽のガンマン』の素晴らしさがわかるかどうかで、その人間が映画を知っているかどうかがわかるだろう。
『ミスターノーボディ』のヘンリー・フォンダも最高にカッコいいよ。クレジットはトニーノ・バレリだけど、実はアクションシーンの殆どはレオーネが撮ったらしい。観てるとわかるよね。
『あ〜!ここはレオーネだっ!』って(笑)
構図で魅せる映画術の見本!
昔むかし、鉄道敷設工事が始まったばかりの西部のある田舎町で、駅舎の建設工夫たちに明るく酒を振る舞う美しい未亡人がいた。
この未亡人には、こんな数奇な物語が隠されていたそうな…
公開から50年、レオーネ没後30年にして、2時間45分の完全版が劇場公開されたことは、嬉しい限りだ。
完全版がソフト化されたのはずいぶん前だが、劇場の大スクリーンで観られるとは思わなかった。
モニュメント・バレーの堂々たるロケーションは、やはり劇場でこそその圧倒的迫力を感じることができる。
短縮版で日本公開された「ウエスタン」は、当然リアルタイムではないが、学生の頃に名画座かオールナイトかなにかで観て、劇画も真っ青なあの大胆な構図に魅了された。
短縮版でも充分に大作の風格があった。
今回の上映でタイトルを原題のカタカナ表記に変更しているが、「ウエスタン」はよく考えられた粋な邦題だと思う。
アメリカ資本だから実現した壮大なアリゾナロケーションだと思うが、やはりハリウッド純正西部劇とは異なる毒気というか、一種異様な雰囲気があって堪らない。
セルジオ・レオーネの映画文法とエンニオ・モリコーネの音楽が、この独特の空気を作り上げている。
有名な、寂れた駅での銃撃戦に至るイントロのシークエンス。
何よりボロボロの駅舎のセットが極端で面白い。
撃ち合いが始まるまでが、無言で長い。
三人の悪党(かどうかの説明はないが、見るからに悪党)の油ぎった顔が超アップで映され、風になびくコートの芸術的な動き、木製のホームを踏む重い靴音とカラカラと風車が回る乾いた音が印象的。
これから起きる決闘を予感させて、惹き付ける。
そして、聴こえてくるハーモニカのメロディが、とてもチャールズ・ブロンソン演じる謎の男が吹いているようには聴こえない。
台詞のアフレコが口の動きと少しずれている。
このリアリティとは一線を画す演出が、不思議な印象をもたらす。
クラウディア・カルディナーレ(C.C.)演じるジルのテーマ曲は、本作のモリコーネの音楽の中で異質だ。
女声ハミングが重なる優雅なメロディは、その場面だけが別の映画かと思わせる程だ。
駅に降り立ったジルは、来ているはずの迎えがいないため、駅員に馬車がチャーターできる店の場所を訊ね、そこに向かう。
ここまでC.C.に台詞はない。
この駅舎の中のジルの様子を外から窓越しに撮り、画面奥の駅の外に歩いていくジルの後ろ姿を追うようにカメラが上へ昇っていくと、屋根を越えて町の様子が俯瞰で一望される見事なワンカット。
この素晴らしいカットにジルのテーマが乗る。
物語上はなんということもない場面だが、音楽と映像の効果で感動的ですらある。
レオーネは、既に西部劇の製作に終止符を打つつもりだったが、アメリカからの強いオファーに加えてヘンリー・フォンダの出演がOKとなったことで、もう一度チャレンジすることにしたらしい。
この頃既に、レオーネは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の構想を練り始めていたのだ。
レオーネが物語作りに協力を要請した二人の映画青年が、若き日のベルナルド・ベルトルッチとダリオ・アルジェントだったというのが、歴史の妙だ。
三人のコンセプトは「ヴィスコンティが西部劇を撮ったら…」だったというから、この発想も驚き。
レオーネの西部劇において女性はアクセサリーでしかなかったが、ベルトルッチの説得で女性にスポットを当てた物語が出来上がったという。
だが、画的には見事にC.C.をフィーチャーしているが、やはり女性の心理描写はあまり得意ではなかった様だ。
ハーモニカ(ブロンソン)、フランク(ヘンリー・フォンダ)、シャイアン(ジェイソン・ロバーズ)という三人のガンファイターの、美貌の未亡人を誰が守り抜けるかという競い合いに、それぞれの恨みと野望とプライドが絡み合った物語だ。
ブロンソンは、後に「レッド・サン」(1971年、テレンス・ヤング監督作品)でも三竦みの闘いで生き残り、好敵手を弔った。
『もはや開拓時代ではない』一大叙事詩
セルジオ・レオーネの作家性が強いウェスタン文芸作品で、いつものマカロニウェスタンと違いガンファイトは少なめです。そうは言っても、悪党の肩越しに汽車が通り過ぎた後にガンマンが佇んでいる冒頭のシーンは、ゾクッときます。鉄道の開通により近代化が進み、腕一本でのし上がってきたガンマンたちが、時代の流れに乗れず滅びていく姿は哀愁感たっぷりで、エンニオ・モリコーネの音楽がさらに盛り上げます。映画は165分の長尺で、ストーリーの流れもゆっくりで冗長な所もあるけど、役者全員が魅力的で最後まで目が離せません。特にブロンソンの渋さにはシビれました。
ハーモニカと共にどアップが目に焼きつきます
開始5分から眠気が...
そのせいもあってか内容が全然分からず
終盤やっと誰を核として見れば良かったのか分かってきた感じ
それまでも所々ウトウトが止まらず
私にはちょっと理解しずらい作品でした
ハーモニカや音楽もハマらず
拍子抜けにしか感じられなかった
やけに間延びばかりする演出が退屈
総合:45点 ( ストーリー:50点|キャスト:60点|演出:40点|ビジュアル:70点|音楽:75点 )
何か起こりそうになる度に、そして何か起こる度に、やけに時間をかけて細かいところまで撮影をして音楽が流れて雰囲気を盛り上げる。人によってはこれが西部劇として格好いいのかもしれないが、私にはわざとらしさばかりが鼻についてしまった。何よりこの演出がとにかくやたらと尺ばかりをくって物語の進行がとても遅く、間延びばかりしていて退屈する。およそ2時間40分にも渡る作品だが、凝縮すれば1時間くらいは簡単に削れたのではないか。時間だけ無駄に長い大作で、これは大きな減点要因だった。
町の悪人と流れ者の対決という物語も平凡。そして有名俳優が演じる因縁のありそうな登場人物たちも、残虐な悪人と名前すらない謎の男というだけの表面的なことに終始し、その内面に迫る部分が薄くて魅力不足。
なんかすごいぞ、これは
なんだろう、なんか凄みを増してるよ、セルジオ・レオーネ。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でも、訳も分からず映画を経験させられる凄みがあったけど、この作品にも、ただならぬ凄みがあるよ。
原題は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ウェスト』。セルジオ・レオーネが愛した西部劇をもう一度。恥ずかしさをかなぐり捨てて、西部劇への愛を叫んでみた、そんな映画です。
全42件中、21~40件目を表示