「オマージュなのか?!」ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト TRINITY:The Righthanded DeVilさんの映画レビュー(感想・評価)
オマージュなのか?!
ドル三部作(THE DOLLARS TRILOGY)のセルジオ・レオーネ監督が自身の西部劇への想いを込めた集大成的マカロニ・ウエスタン。
当時若手の映画人だったB・ベルトリッチやD・アルジェントとともに、西部劇映画の代表作を鑑賞しながら原案を練り、傑作西部劇の有名シーンを幾つも引用していることから、レオーネの西部劇愛やハリウッド西部劇へのオマージュが捧げられていると評される本作。でも、本当にそうなんだろうか。
自分にはこの映画が西部劇愛やリスペクトよりも、監督の皮肉や文字通りのコンプレックス(複雑な感情)を表明しているように思えてならない。
その理由のひとつがアメリカでのロケ。
それまで主にスペイン等、イタリア近隣で撮影していたレオーネが、初めてアメリカロケを敢行したことはオマージュ説の根拠ともなっているせいか、すべてアメリカで撮影したと勘違いしている人もいるみたい。
だが、実際はパートロケで、作品で使用されているのは3カ所だけ。ほどんどは従来通りスペイン等で撮影されており、マクベイン家の建物のセットはほかのマカロニ・ウエスタンにも登場する。
パートロケの最初のひとつは、ジルが馬車でスイートウォーターに急ぐ場面。
J・フォード監督の『駅馬車』(1939)を彷彿とさせるなどとよく言われるが、モニュメントバレーの奇巌は黒々として地獄の門のよう。ジルが直面する苛酷な運命を暗示する映像になっている。
二つ目は短縮版にはなかった映像。
先住民の遺跡で「アメリカの良心」H・フォンダ演じるフランクが雇い人のモートンを痛めつけて、雇われ人から正真正銘の黒幕に成り上がる場面に使われている。
そして、極めつけはモニュメントバレーを背景に壮絶なリンチが行われるクライマックスでのハーモニカの回想シーン。
もし一般に言われるとおり、本作がハリウッド西部劇へのオマージュなら、まるで「開拓精神なんて言ってるけど、こんなことだってやってたんだろ?!」と言わんばかりの場面をわざわざアメリカで撮った理由がどこにあるのだろうか。
本作では、先住民や黒人、中国人が労働者として登場する場面が散見出来る。
マカロニ・ウエスタン以前の古いハリウッド西部劇では、先住民はただの「動く的」だし、黒人や中国人は基本的に存在しないことになっている。
詳しくない方には西部開拓時代と中国人が奇異な取り合わせに思えるかもしれないが、19世紀中頃のアメリカ西部では太平洋を渡ってきた多数の中国人が鉱山労働や鉄道敷設に寄与し、事業の終了などでそこからあぶれた者は駅やホテルのポーターや低賃金の肉体労働に従事することになる。
レオーネは『夕陽のガンマン』(1965)で、はやばやと中国人ポーターを登場させるが、自分の知る限り中国人労働者が出てくるそれ以前のハリウッド西部劇は『拳銃王』(1950)と『昼下がりの決闘』(1962)ぐらい。
アメリカの西部劇映画にとって、彼等の存在は「不都合な真実」なのだ。
この作品では主要な登場人物4人とともに鉄道主モートンが重要な役割を担うが、何回観ても自分には彼がレオーネの分身か、自嘲的なメタファーにしか見えない。
病気の進行でハンディを負ったモートンが、太平洋を見たいという一心で強引な手段を使ってでも鉄道の延伸を強行しながら、最期は太平洋を思い描きつつ水溜まりの中で力尽きる様子は、革新的で時には過激な映像表現ゆえ、毎年ヒット作品を連発して映画会社から金づるとして重宝される一方、大向こうからは嫌悪され、国際的な賞には届かなかったレオーネの人生とどうしても重なってしまう。
BDの音声解説によれば、本作には西部劇映画だけでなく、L・ヴィスコンティ監督の名作『山猫』(1963)の原作小説へのオマージュも込められているのだそう。
小説版は読んでいないが、本作にはC・カルディナーレやP・ストッパら同作の出演俳優も起用されている。
真偽のほどは判らないが、ハリウッド至上主義者の人たちには及びもつかないことだろう。
若い頃はこの映画を人に勧めるなら、退屈でも一度は全部通して観てストーリーを把握した上で、あとは2時間20数分頃から始まるクライマックスの決闘シーンだけ繰り返して見ればいい作品と考えていたが、ここ十年ぐらいでレオーネ作品の中で最も観る回数が多かった作品だと思う(もちろん全編通して)。
時とともに、本作品で印象が変わった点がもう一つ。
昔はジルの心変わりの理由がよく理解できず、単にレオーネ監督の女性の描き方が下手なだけだと思っていた。
フランクに組み敷かれても一切抗わずに、積極的に受け入れようとしているようにも見えるジル。
しかし実際には、彼女は自分を殺しに来たフランク相手に必死で「無抵抗の抵抗」を試みていたのだと今は思う。
従順そうに振る舞い、高級娼婦時代に培った手練手管でフランクの殺意を萎えさせ、彼に婚意まで抱かせる。
この場面で弄ばれていたのは、実はフランクの方だった。
このシーンのあと、競売でマクベインの土地をハーモニカに横取りされホテルのサロンに押しかけるフランクとの衝突を避けて、ジルはさっさと階上へと避難するが、部下の裏切りにあったフランクを助ける態度を取ったハーモニカを詰る際の彼女の表情は家族を殺したフランクへの憎悪に満ちている。
ジルは心変わりなどしていなかったのだ。
一方で何年経っても変わらないのは、クライマックスの決闘シーンに対する評価。
この場面には本作だけでなく、レオーネ作品の魅力のすべてが凝縮されている。
ついに決着をつけるべく対峙するハーモニカとフランク。モリコーネの名曲『復讐のバラード』をバックに位置に付く二人のクローズアップが交錯し、ハーモニカの脳裏にはフラッシュバックが蘇る。
過去二回の回想シーンは不鮮明で亡霊か悪魔のように見えた黒い影は、今度ははっきりと若い頃のフランクだと判る。
おもむろにポケットからハーモニカを取り出したフランクは、“Keep your loving brother happy.”と言って、そのハーモニカを目の前の少年の口に押し込み、再び『復讐のバラード』がバックに流れ雰囲気を盛り上げる。
ドル三部作でも殴る蹴るの凄絶な暴力シーンを多用したレオーネをして、ここでのリンチシーンはひときわ酸鼻で残酷。
少年は首にロープが掛かった兄の体重を肩で支えていた。彼が力尽きると同時に兄の処刑も完了する陰惨な仕組みに加え、少年の体力をより早く消耗させるためにフランクはハーモニカを吹くよう命じていたのだ。
堪らず何かを叫んで弟の肩を蹴り、みずから命を絶つ兄。
地面に倒れて土埃に包まれる弟こそが、「ハーモニカ」の正体だったと鑑賞者は理解する。同時に彼の目的が兄の復讐であることも。
フォードの『駅馬車』以来、決闘シーンはどちらが勝ったか判らないように一旦見せかけるのが定番だったが、レオーネは勝者が誰かすぐ判るように演出する。
撃たれたフランクは銃をホルダーに収めることも出来ずに膝を折る。
背後から歩み寄るハーモニカの気配を感じても、もはや体の自由が利かずとんでもない方向を見るが、やがて背中から倒れて二人の視線が重なる(このシーン最高!!)
苦しげに “Who are you?”と問うフランクの口に、昔、自分がされたように無言でハーモニカを押し込むかつての少年(ハーモニカ)。フランクの脳裏にも、彼と同じ回想シーンが浮かぶ。
納得して頷いているのか、それとも朦朧として体が揺れているだけなのか判然としないまま、倒れたフランクは絶命する。
あらゆる決闘シーンの中の別格的最高傑作。やっぱり今でも全編観たあと、ここだけ何度も繰り返し観てしまう。
前にも触れたとおり、さまざまな西部劇映画の名シーンを本作は引用しているが、誰にでも判るのが最初と最後。
冒頭、列車の到着を三人組が待ち受ける場面は『真昼の決闘』(1952)。
ここで『続・夕陽のガンマン』(1966)の三人(C・イーストウッド、L・V・クリーフ、E・ウォラック)を起用しようとレオーネが提案した話は有名(実現しなかったが、同作のセルフ・パロディはハーモニカが競売の落札額の換わりに賞金首のシャイアンを差し出す場面でも)。
駅での決闘シーンで、倒れる間際のストーニー(W・ストロード)の一撃を食らってしばらく昏倒するハーモニカ。
この時のダメージが影響する場面がないので、どうでもいいシーンに見えるが、実は大事な伏線。
一方、本作のラストは『シェーン』(1953)からの引用。しかも、同作のラストシーンにまつわる有名な議論、「生存説」と「死亡説」の両方をハーモニカとシャイアンがそれぞれ担うかたちになっている。
モートンに反撃されて致命傷を負ったシャイアンは、死ぬ間際に「対決するなら急所を心得てる奴にしろ」とハーモニカに自嘲ともとれるアドバイスを送る。
このジョークじみたセリフにハーモニカは一瞬笑みを浮かべるも、すぐに真意に気付き真顔に戻る。
交易所での初対面でハーモニカが流れ弾を受けていたことを憶えていたシャイアンは、「油断してると明日は我が身」と忠告していたのだ。
本作の主演4人は、例えて言うなら「THE GOOD, THE BAD, THE BEAUTY, AND THE EVIL」といったところか。
フランク役のH・フォンダは西部劇ファンだったレオーネ監督憧れのヒーロー。
『荒野の用心棒』(1964)以来、オファーを断られ続けて本作でようやく出演が実現するが、実は、フォンダは依頼を受けるか相当悩んだそう。『続・夕陽のガンマン』に出演していた友人のウォラックに「絶対出ろ」と尻を叩かれ、ようやく決断とか。
極悪人という今までにない役柄に、黒のカラーコンタクトで臨んだ彼をレオーネは「すぐに外せ」と一喝。
憧れていても映画へのこだわりは別。偉いぞレオーネ!
この作品以降もフォンダはT・ヴァレリ監督の『ミスター・ノーボディ』(1973)で悪人ではないが非情なガンマン、ジャックを熱演。
ハーモニカ役のC・ブロンソンもかつて『荒野の用心棒』のオファーを断った一人。
男性化粧品のCMで人気だった頃を知っているので、ヒゲのないブロンソンに昔は違和感があったが、本作の見過ぎで今ではヒゲがある方がヘンに見える。
物語の緩衝材的な役割のシャイアンを演じたジェイソン・ロバーズは本作に先駆けて『テキサスの五人の仲間」(1966)でフォンダと共演。
撃ち合いどころか一発の銃弾も発射されない、マカロニ・ウエスタンとは逆な意味で異端の西部劇。邦題は原題をまったく反映していないが、最後まで観るとタイトルの意味が判るという粋な仕組み。
ヴィスコンティ、F・フェリーニ両監督のミューズだったカルディナーレ。本作では場面ごとにさまざまな表情を見せ、クローズアップを多用するレオーネの演出に応えている。
冒頭で「善玉、悪玉、卑劣漢」に代わって三人組を演じたのは、J・フォード作品の常連W・ストロードと、ハリウッド西部劇の脇役J・イーラム、マカロニ・ウエスタンでの強烈な個性の悪役が多いA・ミューロック。
中でも、リーダー格のスネーキーを演じたイーラムは仰角のアップを多用して貫禄十分に撮られている。
『地平線から来た男』(1971)でのラストシーンの自虐ネタ(?)が涙を誘う。
今やレオーネは巨匠と呼ばれ、本作やドル三部作は名作扱い。
音階担当のE・モリコーネも『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)以降、マエストロなんて呼ばれてる。
マカロニ・ウエスタンというだけでバカにされていたのも、昔々の話。
NHK BS1にて鑑賞。