「改革はいちご味ほど甘美でははない」いちご白書 TRINITY:The Righthanded DeVilさんの映画レビュー(感想・評価)
改革はいちご味ほど甘美でははない
アメリカで実際に起きた学生による大学占拠と、州兵らによる武力鎮圧をモチーフにした小説の映画化。
名門大学のボート部に所属する自称リベラルの主人公サイモン。
下宿の壁にロバート・ケネディのポスターを掲げてはいるが、ほかにもヌードポスターや子宮のイラスト、セックスのステッカーで溢れる部屋で、ゴキブリをベトコンに譬える彼がクッションを抱きしめて身悶える様子を見下ろすケネディの笑顔は、まるで嘲笑しているかのよう。
大学改革を訴える路上パフォーマンスの脇を足早に駆け抜けるが、好奇心で足を踏み入れた占拠中の校内で出会った女性活動家のリンダに心惹かれた彼は学生運動に深入りすることに。
運動に加わったサイモンは政治的にニュートラルで女にもてなさそうなボート部員を勧誘する一方で、親譲りの保守派でマッチョなジョージには内緒にするが、結局ばれて一悶着の末パンチを食らう。
その際の鼻血を警官からの暴行と吹聴して運動仲間の気を惹こうとするサイモンは、今でいう承認欲求高めのノンポリ男子。
しかし、その後ジョージはどんな心境の変化か、サイモンらの活動への参加を申し出る。
もしや体制側のスパイ?と思いきや、サイモン以上に熱心に活動し、理論派として注目を浴びるジョージに対して、不純な動機で参加していたサイモンは何だかフユカイ。
下心で加わった主人公の拙い言動も含め、革命家気取りで大学の占拠を続ける学生たちの様子は、遊び半分というより、ままごとごっこのようにも映る。
そんなぬるい展開の中、リンダといるところを黒人やヒスパニックらのマイノリティの不良グループにからまれ自分たちの活動の意義を問い直すサイモンは、体制側の学生にリンチされたジョージの姿にさらにショックを受け、もはや安易な姿勢で臨める状況下にないことを思い知らされる。
本作は『俺たちに明日はない』(1967)や『明日に向かって撃て!』(1969)、『イージー・ライダー』(同)と同じく、アメリカン・ニューシネマの代表作に数えられるものの、それらの名作に比べると、ストーリーにさしたる起伏もなく、中盤までは、正直言って退屈。
大手のMGMが製作を手掛けてはいるが、『明日に向かって撃て!』や『イージー・ライダー』のように、のちの映画史に名を刻む名優も出ていなければ、監督もTVが主戦場。
編集やカメラワークに若干の斬新さは窺えるものの、インディー映画の青春ドラマを観ているようなチープな感覚に陥る。
だが、鑑賞者のそんな緩慢な感慨はラストシーンで一拠に粉砕される。前述のどの作品よりも壮絶なバイオレンスが待ち受けていたからだ。
NHK-BS1で放送された際に録画したものを遅ればせながら拝見。
放送されたのは、イスラエルのガザ侵攻に対する抗議行動がアメリカの大学で頻発していた頃。タイミングを勘繰りたくなるが、今のNHKの方向性で、この作品を急遽差しはさむことは考えにくいので、おそらくは単なる偶然。
とはいえ、保守とリベラルの深刻な対立やフィジカルな衝突、若者の浮薄さや政治的衝動性など、現代にも繋がる要素は幾つも見受けられる。
作品は、二年前に起こった非暴力の抗議活動を武力鎮圧した権力への批判が主題にはなっているが、主人公に象徴される活動家たちの未成熟さも容赦なく活写している。
現実の抗議運動は、人種間の確執が原因で鎮圧前に組織が分裂していたそう。
原作小説を読んでいないので、憶測で語るしかないが、事件当時、在校生だった作者は、活動家たちの見通しの甘さや、組織の脆弱性を見聞していたのだろうか。
校内の暗い部屋にいくつも張られた毛沢東のポスターが隠喩的で印象に残る。
メッセージの方向性は違うが、S・レオーネ監督の『夕陽のギャングたち』(1971)を思い出してしまった。
日本での初公開時の記憶はさすがにないが、五年ほどのちに流行った『いちご白書をもう一度』は何となく憶えている。
反体制フォークの断末魔みたいな曲名だが、ノスタルジックな歌詞に映画の内容ほどのシビアさはない。
リバイバル上映に彼女誘ってしくじった人、絶対いるだろうな。